大宅壮一 炎は流れる4 明治と昭和の谷間 目 次 [#小見出し] 民族意識のめばえ    イギリス留学で飛躍的な成長を見せた伊藤博文・井上肇 [#小見出し] 馬関戦争と高杉晋作    講話談判に奇才ぶりを発揮した晋作の背景にあったもの [#小見出し] 謝罪恭順から革命へ    長州藩で回天の大バクチに成功した晋作の独創性と勇気 [#小見出し] 志士のパトロンたち    強引だった�憂国の志士�たちの旅費・機密費等の調達 [#小見出し] 勤皇博徒・日柳燕石    勤王・詩人・博徒という三つの要素が化合した希有の例 [#小見出し] 攘夷派の心理的条件    単純な攘夷から積極的国防思想にいたるまでの一つの公式 [#小見出し] 幕末の異端児・忠光    歴史の転換期に人間形成がなされた貴族の悲劇的な宿命 [#小見出し] 百年前の逆帝国主義    �大東亜共栄圏�の構想がうかがわれる真木和泉の考え方 [#小見出し] 薩・長連合の立役者    維新回天の大事業をまとめ上げた坂本龍馬の奇略と功績 [#小見出し] 典型的日本人のさいご    東洋的な虚無思想につらぬかれた高杉晋作独特の死生観    あ と が き [#改ページ] [#中見出し]民族意識のめばえ   ——イギリス留学で飛躍的な成長を見せた伊藤博文・井上肇——  [#小見出し]天皇機関説を支持した博文  明治・大正のジャーナリストで歴史評論家として知られた福本日南《ふくもとにちなん》は、その著書『清教徒神風連』のなかで、佐佐木高行《ささきたかゆき》のことばとして、つぎのような記事をのせている。佐佐木は土佐藩出身の勤皇家で、のちに侯爵となり、明宮《はるのみや》(大正天皇)、常宮《つねのみや》(竹田宮|恒久《つねひさ》王妃)、周宮《かねのみや》(北白川宮|成久《なるひさ》王妃)のご養育主任をつとめたというから、今でいうと、小泉信三《こいずみしんぞう》に相当する人物である。この人が日南を相手に、こんな話をしたというのだ。 「今日は御代《みよ》ご繁昌のために、一世の人みな皇室を尊崇したてまつり、甲も乙も生まれながら勤皇の志を有するかの色容をなすにいたったのは、この上もなく喜ばしいことである。が、皇室のここにいたらせられるまでには、なかなかご容易な御事ではなかった。  明治四年、岩倉公の欧米各国に巡使されたさいなどには、船中から一行のあいだに国体論がおこり、 『わが日本をして列強と対峙《たいじ》せしむるには、国体から改めなければ、到底不可能じゃ』 との論が多数を占めた。自分はこれにたいし、やっきとなって、毎日毎日抗論したが、いつも負ける。そのあいだ、自分に応援してくれたのは岩倉公ただ一人。その公とても、別に名論があるというでもない。ただ、 『その行けぬところをやりぬいて、日本は在《あ》るのじゃ』 という一本槍であった。かかる状態のときもあったが、今日はふたたび立ちかえって、みな勤皇家顔する時代となったのは、世にありがたいことである」  この使節団は、廃藩置県の詔書が発布された直後に編成されたもので、外務卿から右大臣になった岩倉具視《いわくらともみ》を特命全権大使として、副使には木戸孝允《きどたかよし》、大久保利通《おおくぼとしみち》、伊藤博文《いとうひろぶみ》、山口尚芳《やまぐちなおよし》、ほかに随員その他四十名をこえる大所帯だった。山口は佐賀藩出身の蘭学者で、当時は外務少輔、のちに会計検査院長になった人だが、当時司法大輔の地位にあった佐佐木高行も、司法制度調査ということで、これに参加していたのである。  この一行が、船中で、これからの日本の国体について論議したところ、天皇制を支持したのは、公卿出身の岩倉だけで、しかも議論ではいつも負けた。そして木戸、大久保、伊藤など、のちの�元勲�たちがそろいもそろって共和論を支持していたということは、あまり知られていない事実である。 「自分は翁(佐佐木)がかりそめにも、浮言を弄する人でないことを確信する。この通りであったということは、『論ではいつも負けた』と包まず、かくさずのべられたのでも察せられる。今日、佐佐木侯爵家に秘蔵される翁の遺留日記をひもといて、当時の章を公けにしたならば、定めて地下に冷汗をかく人があろう」 と、福本日南は書いている。  ところで、この使節団の首脳部中、もっとも長く生きのびて、明治憲法制定の責任者となり、天皇を中心とする新しい日本の建設に、もっとも大きな役割を果たし、個人的にも天皇にいちばん接近して、だれよりも親しまれ、愛され、重んじられたのは伊藤博文であるが、この新政府の陣痛期には、彼は�共和派�の一人だったのである。もしかすると、この派のリーダーだったのかもしれない。  同じ天皇主義者でも、心の底から天皇の神格性を信じこんでいるものと、日本民族を統一し、日本という国を強力にするためには、どうしても天皇制が必要だと思いこんで、天皇中心の政治をおこなうものとは、別にして考えなければならない。もっとも、現実の問題としては、これら二つの型を区別することがむずかしく、同じ人格のなかにとけこんでいる場合もあれば、両者をつかいわけているものもあろう。  天皇の神格性よりはその必要性もしくは重要性に重点をおくものが�天皇機関説�で、この学説の代弁者としてひどいめにあったのは美濃部達吉《みのべたつきち》だというふうに一般に考えられているが、実は�天皇機関説�は、伊藤博文の責任において起草された明治憲法から源を発しているともいえるのである。この憲法の注釈書すなわち『憲法義解』を編集するにあたり、伊予宇和島藩士で純然たる天皇主権説の立場をとっていた穂積八束《ほづみやつか》をしりぞけて、そのかわりに長州出身で機関説派の末岡精一《すえおかせいいち》をえらんだのは、ほかならぬ伊藤博文である。末岡は三十八歳で死んだが、のちに枢密院議長にまでなった一木喜徳郎《いちききとくろう》もこの派に属し、美濃部はこの一木の愛弟子にあたる。一木は岡田良平《おかだりようへい》の実弟で、この兄弟は、大正三年の大隈重信《おおくましげのぶ》内閣から、同十五年の若槻礼次郎《わかつきれいじろう》内閣にかけて、合わせて五回も文相の地位についているのであって、いわば官学の大御所である。このように日本の�天皇機関説�をさかのぼって行くと伊藤博文につきあたるのだ。  伊藤は転身のうまい長州人のなかでも、攘夷から開国へ、尊皇から倒幕へ、倒幕から新政府建設へと、頭の切りかえをもっとも早く、もっとも巧妙におこなって、明治政府の最大の実力者となった人物である。彼の場合には、どうしてこれがかくも順調に行ったのか。  むろん、これは彼の幸運、人柄、逆境のなかでつちかわれた珍しい聡明さからくるものであるが、攘夷派としては西欧留学の一番のりに成功し、しかも維新の序幕が開く前に帰国したということと切りはなすことはできない。  [#小見出し]井上・伊藤の密航留学  浜田彦蔵《はまだひこぞう》、中浜万次郎《なかはままんじろう》の場合のように、それまで社会の底辺に生きてきた漁師の少年が、�漂流�という偶然のチャンスによって、新しい外国文化に接触し、異常な才能を発揮するというのは、民族の素質をテストする上において、製品の�ぬきとり検査�をするようなものだと前にのべた。 �留学�の場合はこれとまったく条件がちがっている。民族のなかでのもっとも優秀な、意欲的な分子が、とくに選ばれて、あるいは自発的に、新しい文化を身につけようとして出かけて行くのである。それだけにその効果、収穫もちがってくるわけだ。  寛永十六年(一六三九年)の鎖国以来、正式の手続きをふんで外国に留学したのは、文久二年(一八六二年)九月、幕府がオランダに注文した軍艦「開陽丸」の建造監督を兼ねて、同国に留学した榎本武揚《えのもとたけあき》、沢太郎左衛門《さわたろうざえもん》、西周《にしあまね》、津田真道《つだまさみち》ら九名が最初である。これには「在外中、本邦の風俗改むべからず」というきびしい条件がついていた。はじめ彼らはアメリカに行くことになっていたのだが、当時アメリカは南北戦争で紛糾していたので、オランダのほうに切りかえられたのである。かれらの多くは、六年もオランダにとどまり、帰国したのは慶応三年、すなわち維新の変革の前の年で、国内情勢は一変していた。  これに反して、幕臣外で、つまり、非公認で欧州留学のトップをきったのは、志道聞多《しじもんた》(井上馨《いのうえかおる》)、野村弥吉《のむらやきち》(井上|勝《まさる》)、山尾庸三《やまおようぞう》、伊藤俊輔《いとうしゆんすけ》(博文)、遠藤謹助《えんどうきんすけ》の五人である。かれらが日本を出たのは文久三年四月だから、幕府の留学生よりも半年ばかりおそい。のちの井上馨、伊藤博文については改めていうまでもなく、井上勝は鉱山および鉄道の開拓者として子爵となった。山尾庸三は、前に高杉、伊藤らとともに品川御殿山のイギリス公使館を焼きうちした仲間だが、明治政府では工部卿として工業面を担当し、これまた子爵を授けられている。遠藤は大蔵大丞から造幣局長にまでなったが、爵位は与えられていない。とにかく、これら五人のうちで、公爵一人、侯爵一人、子爵二人を出しているのを見ても、この留学が、その後のかれらの生活に、いかに有利な結果をもたらしたかがわかる。  文久三年四月といえば、五月十日を期して攘夷決行の勅諭が出た直前で、とくに長州の攘夷熱が最高潮に達していたときだ。こういう時期に、海外留学をいい出したのは志道である。当時、毛利《もうり》の世子|定広《さだひろ》(のちに元徳《もとのり》)は京都に滞在していて、志道は小姓役として側近に仕えていたが、佐久間象山《さくましようざん》の話をきいて、攘夷を実行するには、どうしても西欧式の海軍をつくる必要を痛感し、その技術を身につけるため、世子に説いて、留学の許しをえたのである。それもはじめは志道のほかに山尾、野村を加えて三人だった。外国旅行は、文久二年に一部解禁になったというものの、幕府のきびしい管理下におこなわれたのであって、この長州藩士の場合は、藩主黙認の密航である。  この計画に、周布政之助《すふまさのすけ》、毛利登人《もうりのぼと》、桂小五郎《かつらこごろう》(木戸孝允)などは賛成だったが、久坂玄瑞《くさかげんずい》、品川弥二郎《しながわやじろう》などは反対だった。これら三人の留学志望者のなかで、山尾と野村は、前に箱館に行って、少しばかり英語をかじっていた。とくに山尾は、箱館奉行所属の「亀田丸」にのって、ニコライエフスクまで行ったこともあり、この留学にもいちばん熱をあげていた。  そこで、この三人が京都から江戸に向かうことになったが、伊藤俊輔は別な用件をおびてこれに同行した。江戸の藩邸に貯蔵されている。�穴蔵金�(非常時用の準備金)をとりよせるため、急使として派遣されたのである。  そのみちすがら、俊輔も聞多に留学をすすめられ、はじめは反対したが、ついに仲間入りすることになった。江戸につくと、もう一人遠藤謹助が、熱心に同行を希望し、けっきょく五人になった。  まず横浜の英国領事館を訪ね、ガールという領事に会って、洋行のことを相談した。旅費はどれくらい用意すればいいかときくと、一人一年の滞在費一千両として五人だと五千両はかかるという。ところが、かれらが藩から支給された金は、一人分二百両、合計六百両にすぎない。  これには困ったが、聞多はここで弱味を見せてはダメだと考えたので、 「では、さっそく五千両もってきますから、何分よろしくお願いします」 といって、誓いのしるしに、大刀をガールに預けて引きあげた。  聞多にはあてがあった。というのは、麻布の長州藩邸には、アメリカから銃砲を購入するために一万両の金を準備してあることを知っていたからである。しかし、今すぐこれだけの大金をそこから引き出すわけにはいかない。藩の許可をえるには時間がかかる。そのとき彼の頭に浮かんだのは、「大黒屋」という貿易商である。主人は榎本六兵衛《えのもとろくべえ》といって、本業は質商兼呉服|唐物《とうぶつ》商ということになっていたが、ひそかに外国製の銃砲、船舶などを仕入れて各藩に納入していた。前の年に長藩が「壬戌丸《じんじゆつまる》」という船を購入したのも、この店を通じてであった。そこで、藩邸の一万両を担保にして、さしあたり必要な五千両を「大黒屋」に立てかえさせようというわけだ。  こういった急場にのぞんで必要な金をつくることは、志道聞多、のちの井上馨のもっとも得意とするところで、この場合もうまうまと成功した。そしてこの成功が井上よりはむしろ伊藤博文を通じて、明治政府に大きく影響したと見てよい。  [#小見出し]必死の密航準備  明治二十四年五月十一日、有名な「大津事件」というのがおこった。日本観光中のロシア皇太子ニコラス親王が、大津で警衛の任にあたっていた津田三蔵《つださんぞう》という巡査に切りつけられた事件だ。当時のロシアは東西に侵略の手をさしのべていた大強国だったから、日本は国をあげて大騒ぎとなり、その翌《あ》くる朝、明治天皇が東京をたって、お見舞いに行かれたくらいだった。  ところが、それから数日後に、畠山勇子《はたけやまゆうこ》という女性が、「日本政府さま」「露国御官吏さま」と書いた二通の遺書をのこして、京都府庁の門前で自刃した。彼女は身をもって�国難�に殉じたというので、�烈女�として大評判になり、ラフカジオ・ハーン(小泉八雲《こいずみやくも》)も、『勇子追想』や勇子の墓参記を書きのこしている。  文久三年、井上馨、伊藤など五名の海外渡航費を立てかえた貿易商「大黒屋」榎本六兵衛というのは、この�烈女�畠山勇子の叔父にあたる。六兵衛は、勇子の母|せん《ヽヽ》の弟で、もとの名を常吉《つねきち》といった。先代六兵衛の娘|静《しず》と結婚をして「大黒屋」のあとをついだのである。  六兵衛は�ドルうち�の名手だった。幕末の日本には洋銀(メキシコ・ドル)がどしどし流れこんできて、広く通用していたが、そのなかにはニセモノが多くまじっていた。これを一つ一つ板の上におとし、その音で鑑別することを�ドルうち�というのだが、上海や香港の両替店では古くからおこなわれていることである。  当時、江戸麻布の長州藩邸の留守をあずかっていたのが村田蔵六《むらたぞうろく》、のちの大村益次郎《おおむらますじろう》である。井上、伊藤らが「大黒屋」から借りることになった洋行費五千両の保証をしてくれという話をもちこまれ、独断でそんなことはできないとことわったが、これを承諾してくれなければさしちがえて死ぬばかりだ、と井上がいって、決死の色を面にあらわしたので、村田のほうで折れて出たのだと『井上伯伝』に出ている。  一説によると、「大黒屋」の番頭の佐藤貞次郎《さとうさだじろう》が、その前に京都へ行って、祇園の「一力亭」で、周布政之助その他長藩の重役たちと会い、長藩士の洋行について、よろしくたのむといわれてきたのだという。このほうがほんとうであろう。  そこで、さっそく佐藤の口ききでガールに相談したところ、近く「ジャーディン・マディソン商会」の汽船「キロセッキ号」というのが、上海にむけて横浜を出ることになっていて、一行はこれに便乗することに話がまとまった。「ジャーディン・マディソン商会」は、当時「イギリス一番館」といった。  安政元年、吉田松陰《よしだしよういん》は密航に失敗して処刑されたのであるが、それから十年たたぬうちに、その弟子たちがこういう形でその志をつぐことになったのである。もちろん、これが表ざたになれば、関係者一同処刑されるわけだが、この計画に商人までが片棒をかついでいるところを見ると、この十年間に、それだけ日本をめぐる情勢がかわり、幕府の統制力が弱まったことを如実に証明したことになる。  出発の支度は、例によって品川遊廓の「土蔵《どぞう》相模《さがみ》」でおこなった。伊藤は正式に藩の許可をえていないので、形の上では�脱走�であるが、これは高杉晋作などもしばしばやっていることで、平気だったのであろう。ルーズになっていたのは、幕府ばかりではなかった。かれらが横浜から藩の重役あてに出した手紙のなかで、自分たちは�生きた機械�を仕入れに行くのだから、大目に見てほしいと書いている。  支度といっても、伊藤の場合は、急に参加したので、もちものは寝衣のほかは、堀辰之助《ほりたつのすけ》というのがつくったまちがいだらけの英語の辞書と頼山陽《らいさんよう》の『日本政記』くらいのものだった。『日本政記』は山陽のさいごの著述で、これによって彼は尊皇思想を鼓吹されたのだ。  金五千両を洋銀にかえると八千ドルになった。そのうち途中でつかう分だけを現金でわたされ、大部分は為替にしてロンドンに送られた。�為替�という便利な制度のあることを、かれらははじめて知った。  そのころの横浜は、幕府の役人以外に、武士ははいれないことになっていた。そこで、神奈川の茶屋で大小をとって町人姿になり、西洋人の店で洋服を買った。洋服といっても、水夫が売っていった古着類しかなかった。しかたがないから、これを求めたが、ダブダブで、クツも片方に両足がはいるくらいだった。頭のマゲはまだそのままだったから、実に奇妙な姿だったにちがいない。  ガールがいうには、今晩船にのせるから真夜中に「イギリス一番館」にこい、そこのヘイの外に小山がある。その陰にかがんで待っておれ、というわけだ。  すると、十二時ごろになってガールが姿を見せ、船長とよく話したが、幕府禁制の人物をつれて行くわけにいかぬといってきかない、気のどくだが断念してくれという。それは困る、ザンギリになって、この姿で町へ出たらつかまって殺されるにきまっている、それならいっそのこと、ここで切腹したほうがましだ、と一同決意のほどを示した。ガールは驚いて、ちょっと待ってくれといって、奥へはいって行った。  [#小見出し]攘夷論ふっとぶ  やっと船長がなっとくして、乗船できることになったのは、夜中の二時ごろであった。  船にのりこむには、どうしても「運上所」(税関)の前を通らねばならない。ガールが先に立って、日本人にはよくわからないことばをベラベラしゃべり、密航者たちもこれに相づちをうちながら、「運上所」の前を無事に通過して、波止場についた。そこにバッテラ(はしけ)が待っていて、本船に乗りこんだ。  しかし、出港までは幕府の役人が見はっているから、見つかってはたいへんだというので、蒸気釜のそばの石炭庫のなかにしゃがんでいた。観音崎あたりまできて、もう甲板に出てもいいといわれたが、それから上海につくまで、海は荒れつづけだった。  日本人は、今でも外国人の目から見ると、男女ともに、平均十年くらいは若く見られるのが普通である。かつて日本人としても小柄の末弘厳太郎《すえひろいずたろう》博士が洋行して、イギリスの皇帝ジョージ五世に謁見したとき、皇帝が、「この少年にして大学教授か」といって驚かれたという話は有名だ。この五人組のなかでは、井上馨が最年長で当時二十八歳、遠藤謹助が二十七歳、山尾庸三が二十六歳、伊藤博文が二十二歳、井上勝が二十歳だった。平均して二十四・六歳である。船中でもかれらは、ひまさえあれば天下国家を論じていたが、船長たちの目には、少年としか映らなかった。  四、五日で上海についた。甲板に立って見ると、軍艦、蒸気船、帆船などが幾百隻となく港を埋め、船の出入りもひんぱんで、その繁栄ぶりに目をみはった。佐久間象山からきいた話の通りで、日本も海軍をさかんにして、攘夷を断行しようなどという気持が、たちまちふっとんでしまった。開国の方針で進まないと、日本はほろびるほかはないと悟り、そのことを馨は、藩の重役に手紙で伝えるとともに、博文にもうちあけた。 「日本をはなれて、まだ四、五日しかたたないのに、はじめの志をかえるようでは男らしくない」 といって、博文はこれに賛成しなかった。しかし馨は、 「ぼくらが攘夷を実行しようというのも、要するに国家を維持するためではないか。いま海外の実況を見て、攘夷が不可能だということがわかれば、前説を改めるのは、ぼくらの義務であって、ちっとも恥かしいことではない」 といったが、博文は馨を�薄志弱行�だといった。ところが、その後、博文は馨以上の開国論者となったのである。二人ともこの旅行による見聞によって、百八十度の転向を示したことは明らかだが、�転向�にもいろいろと型のあることがこれでわかる。一度に百八十度かわるのもあれば、少しずつかわって行くが、さいごは同じ結果になるものもある。�転向�というのは、動物が環境の変化に応じて、毛色や形をかえるのと同じであるが、人間の場合は、当人の性格、育った環境などによって、転向の角度、スピード、あらわれかたがちがってくるのだ。  イギリス艦隊が薩摩を攻撃したことを一行は上海できいた。  上海には、ジャーディン・マディソン商会の支店があった。支店長はケセワィッキといって、横浜支店長の兄だ。さっそくあいさつに行ったところ、留学の目的を問われたが、ことばが通じない。前もって辞書を調べ、�海軍研究�ということばをさがして、�ネビゲーション�というのを見つけ、これ一つだけ暗記していたので、そう答えたのであるが、実はこれは�航海術�という意味だということにあとで気がついた。このまちがいがたたって、それから先の航海中は、いずれも水夫のとりあつかいをうけた。  馨と博文が山尾たちと別便でインド洋に出ると、風の方向がよくかわるので、二人はそのたびに帆綱を引く仕事をさせられた。そのほか、甲板の清掃などにこきつかわれた。食べものは水夫用のビスケットと牛肉の塩づけをあてがわれた。お茶もブリキのカンで最下等の赤砂糖のはいったのをのまされた。  当人たちは、船客のつもりでいたので、内心大いに不満だったが、ことばが通じないので、どうにもならなかった。水夫たちは日本人たちを�ジャニー�と呼んだ。�ジャパニーズ�の略語だが、のちに日本人を�ジャップ�といい出したのはアメリカ人である。  マダガスカル島をすぎて喜望峰にむかうと、風波が強く、三〇〇トンの上海からの「ペケジス号」は、木の葉のようにゆれた。しかし、波のおだやかなときには、船員を相手に、英語の勉強をおこたらなかった。  いちばん困ったのは、博文がひどい下痢にかかったことだ。ちっぽけな船なので、別に水夫用の便所の設けがなく、舷側の横木にまたがって用をたすのだが、大きな波がおしよせてくると、からだをさらわれてしまうおそれがあった。  そこで、博文は丈夫な綱でからだをしばり、イカリをつなぐ小柱にその端をゆわえつけて用をたした。後に大勲位公爵従一位となり、文字通りに位人臣をきわめた伊藤博文も、攘夷(後には開国)に必要な�生きた機械�すなわち新しい知識を身につけるために、こういう形でロンドンに出かけたのである。苦労した点では、�漂流�と大してちがいはなかった。  [#小見出し]ロンドンの繁栄におどろく  前にのべたように、遣米使節をのせたアメリカ船「ナイアガラ号」が、喜望峰の近くを通過したのは、万延元年七月だから、それからちょうど三年後に、長州藩士が「ペケジス号」で同じところを通ったことになる。一方は�使節�で、こちらは密航だ。 「ペケジス号」はシナ茶をヨーロッパへ輸出する船で、どこにも寄港しないので、上海からロンドンまで直航したのだが、それでも四か月と十一日かかった。水は天水を桶にうけて用いた。  ロンドンについたのは、午前八時ごろで、船長は、 「おっつけ、ジャーディン・マディソン商会のものが君たちを迎えにくるから、船で待っているがいい」 といって、二人を船にのこしたまま、出て行ってしまった。正午まで待ったが、だれもこない。二人とも腹ペコで、陸へあがって食事することも考えたが、そのあいだに迎えのものがくるかもしれぬというので、馨が出て行って、博文は船にのこることにした。そこへ船員の一人がもどってきたから、事情を訴えて、どこか食事のできるところへつれて行ってくれとたのんだ。見れば、博文はその場でぐうぐう寝こんでいた。  馨は船員につれられて船を出た。ロンドンの港内や市街のにぎわいは、上海の比ではない。海上には船がギッシリつまっているし、汽車は四方八方に走り、工場の煙突からはさかんに黒煙をはき、通りにはなん階もの建て物がならんでいた。これを見て馨は呆然自失、�攘夷�の観念は完全に消えてしまった。  ここで道にまよってはたいへんだと思い、手帳を出して、道筋や目じるしなどを書きとめながら、船員のあとを追ったが、ときどき通行人にぶつかってしかられた。やっと船員たちのくる食堂にたどりついた。料理は粗末だったが、これですっかり元気づいた。別に博文のためにも、一人分買いこんだ。  かえりは手帳をたよりに、もときた道をひきかえしたが、妙なところへまよいこんでしまった。それは税関の構内で、事情を説明すると、役人が「ペケジス号」まで送ってくれた。寝ていた博文は、とびあがって喜び、馨の手から食べものをうばいとって、むさぼり食った。  このときの行動に、これら二人の�元勲�の性格がよくあらわれている。わがままで怒りっぽく、後年�雷親爺�として知られた馨に、こういう親切で綿密な半面がある一方、博文にはこのような横着なところがあるのだ。  午後二時ごろになって、ジャーディン・マディソン商会のものが迎えにきた。その案内で、二人が汽車にのってつれていかれたところは、アメリカン・スクエアのホテルだった。そこには上海から別な船にのってきた山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の三人がすでについていた。お互いにだきあって無事を祝った。  そこで、一同はまず理髪店と仕立て屋につれていかれ、身なりをととのえた。それから、何を学ぶにしても、英語を身につけることが先決問題だというので馨と山尾はクーパーという家に、博文、勝、謹助の三人はウィリアムソン博士のところに預けられた。  のちに欧米諸国は、帝国主義政策の一環として、後進国の留学生をうけ入れる施設をさかんにつくったし、日本も�アジアの先進国�と見られるようになってからは、シナをはじめ、東南アジア諸国の留学生が続々やってきて、短期日本語学校ももうけられた。革命後のソ連では、モスクワのマルクス・エンゲルス研究所付属「レーニン講習所」をはじめ、「極東大学」、「国際友好大学」などがつくられて、共産主義の闘士を養成してきた。「国際友好大学」は、ベルギー領コンゴの独立後、初代首相となって殺されたルムンバを記念して、「ルムンバ大学」と称し、わたくしがそこを訪れたときは、日本人も十人近くはいっていた。  このように、今では文化的、経済的もしくはイデオロギー的先進国のあいだでは、後進国の留学生を獲得するため、�客引き競争�が展開されているが、博文たちがロンドンについたときには、ほかに日本人は一人もいなかった。  二世紀以上にわたる日本の�鎖国�が、日本と西欧諸国とのあいだに、計り知ることのできない文化的、経済的、軍事的距離をつくってしまったことに気がついたかれらは、その距離を一刻も早くちぢめねばならぬという強烈な使命感から、死にものぐるいで勉強したのである。  一八六三年(文久三年)といえば、日本では「天誅組」の蹶起、三条実美《さんじようさねとみ》以下七卿が長州落ちをした年だが、アメリカではリンカーン大統領が�奴隷解放�を宣言した。イギリスはビクトリア女王の時代で、ディケンズとならび称せられた作家サッカレーが代表作『虚栄の市』を書き、その後日本にも大きな影響を及ぼしたミルの『功利主義』が出版され、ロンドンには地下鉄が開通した。また政治の面では、のちに首相となったディスレリーが、イギリス政府の対外政策を猛烈に攻撃した。  こういう空気のなかで、やっと新聞をひろいよみすることのできるようになった博文たちが、下関で長藩が攘夷を断行したことを知ったのである。  [#小見出し]民族意識への脱皮 『ロンドン・タイムズ』には、下関の戦況がかなりくわしく出ていた。そしてそれがイギリスの議会でもとりあげられていることがわかった。  それまで日本の留学生たちは、学業の暇々に、イギリスの武器製造所、造船所、天文台などを見学し、新しい知識を海綿体のように吸収していたが、日本と比べて、実力の差があまりにも大きすぎるのに、ただただ驚嘆するばかりであった。�攘夷�の無謀さを身にしみて感じていたところだったから、この戦争はどうしてもやめさせないと、日本はほろびるほかはない、そうでなくても、とてつもない償金をとられるか、土地を割譲させられるか、どっちかだと考えると、いても立ってもいられなくなった。  そこで、馨は博文と相談して、帰国しようということに意見の一致を見た。外国にきていくら軍事を研究したところで、国がほろびてしまったのでは、元も子もないというわけだ。とにかく、大急ぎで国にかえって、藩公に謁し、ヨーロッパの国情をくわしく説明し、鎖国の愚を悟らせて、藩の方針を開国にみちびき、さらにこれを日本全国におよぼそうというのである。�攘夷のさきがけ�をしている長藩が、まわれ右をして�開国のトップ�をきろうというわけだ。  このとき、かれらの心のなかにおこった変化は、単に�攘夷�から�開国�への転向ではなかった。同時に、長州という藩意識から日本という国家意識、民族意識への脱皮であり、飛躍であり、成長でもあった。  井上(勝)、山尾、遠藤らにその話をすると、かれらもいっしょにかえりたいといったが、�攘夷�をやめさせるということだけなら、馨と博文の二人が決死の覚悟をもってすればできないことはない、ほかの三人は、このまま勉強をつづけ、前の二人が帰国後に殺されたということがわかったならば、三人が帰国してその志をつげばよいということに話がまとまった。  そこで、馨と博文は、ウィリアムソンに会って、帰国の意志を伝えると、二人がホームシックにでもかかったのだろうと思いこみ、せっかくきたのだから、もっと勉学をつづけるようにとすすめた。しかし二人の決意は動かなかった。  帰りの船は、蒸気船でなくて帆船をえらんだ。このほうは日数が多くかかるけれど、安くつくからで、少しでも多くの金を残留組のためにのこしておいてやりたいという気持から出たものだ。  ロンドンを立ったのは、一八六四年三月、日本では文久から元治にかわってまもないときである。こんどは船客だし、それに日用の談話にはこと欠かない程度に英語もできたから、船中生活は往路ほど苦しくはなかった。  それでも、マダガスカル島の近海で、またひどいアラシに出くわした。舵手《だしゆ》はからだを舵《かじ》にしばりつけて運転していたが、どうしたはずみか、波にさらわれてしまった。ところが、そこに奇跡がおこった。一時姿を消した舵手がまた波に押しかえされて船上にうちあげられたのだ。大量に水をのんで気を失っていたけれど、みんなで介抱すると、ついによみがえった。  上海についたのは、六月のはじめで、近く英・仏・米・蘭の連合艦隊が下関攻撃にのり出してくるという評判をきいて、二人は気が気でなかった。  六月十日、船は横浜に錨《いかり》をおろした。京都で「池田屋騒動」のあった直後だ。江戸の長州邸は焼き払われ、長州人は広い日本に身のおきどころのないような状態にあることを知らされた。  船中で二人が話しあったところでは、まず信州に佐久間象山を訪ねて、自分たちの見聞を報告し、こんごの方針について指示をうけることにハラをきめていた。しかし、そのころの情勢では、ザンギリ頭の日本人が外国船から出てきたということがわかれば、命のないことは明らかだった。行きがけに世話になったジャーディン・マディソン商会のものに相談すると、二人とも西洋人ということにして、ひとまず西洋人の泊まるホテルにおちつくほかはないということになった。西洋人のなかで、からだがそう大きくなくて、日本人にいちばん近いのはポルトガル人である。そこで二人はポルトガル人になり、博文はデポナーという名前までつけてもらった。  話はかわるが、それから三十三年後の一八九七年(明治三十年)六月、イキリスで、ビクトリア女王即位六十年記念式典がおこなわれ、日本から有栖《ありす》川宮《がわのみや》威仁親王《たけひとしんのう》(この有栖川宮のあとをついでおられるのが、大正天皇の第三皇子|光宮《てるのみや》宣仁親王《のぶひとしんのう》すなわち今の高松宮である)が明治天皇のご名代として参列されたが、そのお供をしたのが伊藤博文である。  この一行がロンドンについて、ハイド・パーク前のアレキサンドラー・ホテルにおちついたとき、背の高い八十余歳の一老人が、博文に面会を求めてきた。さし出した名刺を見ると「ヒュー・マディソン」と印刷されていた。ジャーディン・マディソン商会横浜支店のかつての責任者である。「大黒屋」の番頭に紹介されて、生まれてはじめての�握手�というものを彼とかわしたあと、博文は自分の手が汚れたと思い、そっと袴《はかま》でふいたのであるが、三十余年後に再会したときには、二人は相擁して涙を流した。それから五年後の一九〇二年(明治三十五年)一月三十日、イギリスは�光輝ある孤立�の伝統をすてて、日本と同盟を結んだ。  [#小見出し]命がけの説得へ  ポルトガル人というのは、ヨーロッパ人のなかでは最下等で、ケチだということになっているが、そのポルトガル人にバケて横浜の外人居留地のホテルに泊まった井上馨、伊藤博文の風采を見て、そこにつとめている日本人ボーイは、その仲間に日本語でいった。 「あいつらはポルトガル人のなかでも、最下等のやつにちがいない」  博文が蚊帳《かや》をつってくれとたのむと、 「生意気なことをいやがる、穴のあいたのでもつってやれ」 といって、いちばん悪いものをもってきた。気の短い馨はカッとなったが、相手は自分たちをポルトガル人と思いこんでいることがわかって、これならバレることはないと安心した。  そのころ、イギリス公使オールコック(この後間もなくパークスと交代)は米・蘭・仏と共同戦線をはって、早速に下関海峡を再開する措置を幕府が講じなければ、四国連合で実力を行使するほかはないと警告したばかりだった。そこへイギリスに留学した二人の日本青年が、イギリス公使館の通訳アーネスト・サトウのことばにしたがえば、「石垣に頭をぶつける愚を同藩の士に悟らせるため」帰国したのである。  井上、伊藤のほうでも、公使にむかっていった。 「日本の現状は、全国六十余州の大名が、おのおのその領土をもち、互いに独立して、それぞれ特別の政治をおこない、相互の連絡を欠いている。まして外国のことなどは、まるっきりわかっていない。しかし、われわれが貴国に行ってこの目で見てきたことをよく説明すれば、頭の切りかえをさせる望みがないわけでもない。われわれ自身にしても、日本にいるときは幼稚な考えを抱いていたのが、貴国に滞在して蒙をひらくことができたのである。これを人間の一生にたとえていうと、こどものときは知識が幼稚だけれど、成長するにつれて、世間の道理をわきまえるようになるのと同じである。いま長州人が外国の船艦にたいして、無謀な砲撃を加えたというのは、こどもがおとなにむかって石を投げつけたようなもので、おとなである貴国がかれらを仇敵視するのは、おとなげないといわざるをえない。このさい、四国連合で長州征伐にのり出すのは、おとなが四人もかかって、一人のこどもをなぐりつけるようなものだ」  これにたいして公使はいった。 「日本の事情──朝廷と幕府と諸大名、大名とその家来との関係などは、われわれのほうでも、だいたいわかっているが、これから君たちが帰国して主君に外国の説明をするというけれど、君たちは直接主君に会って話せるような身分なのか」  伊藤はその前の年、山県狂介《やまがたきようすけ》(有朋《ありとも》)らとともに士籍に加えられたばかりであるが、井上馨は安政元年藩主の身辺警衛の任につき、万延元年からは小姓役として藩主および世子の側近に侍していたから、その点は自信があると答えた。 「それなら、長州の藩論を一変させて、攘夷を断念させ、開国の方針をとらせることを保証できるか」 と公使はいった。 「それは命がけでやってみるつもりだが、保証はできない。しかし無知なこどもにたいしては、じゅんじゅんと道理のあるところを説いてきかせるのは、おとなたるものの義務ではないか」 ということで、公使もこれに賛成した。他の三国の公使たちにもこのむねを報告し、かれらの同意をえて、この二人の青年に、藩主あての手紙をもたせ、長州へ送りこむ計画を立てた。  そこで、二人は他藩のものにバケて、中仙道を美濃路に出て、中国筋を通って帰国する予定だったが、それではどうしても一か月はかかるというので、そのためにわざわざイギリスの軍艦を特派することになった。  そのことについて公使は、イギリスの極東艦隊司令官クーパー中将あてに公文書を出しているが、そのなかで、これら二人の日本青年を長州に送りこむ目的は、第一に、「仇敵たる長州公をしてわれわれの良友、いな、同盟者に変化せしむること」、第二に、「この機会を利用して長州公領内の海峡を偵察・測量すること」、そして「一、二の流弾をうけることあるも、必ずや互いに砲火を交うることを避けらるべし」と書かれている。  クーパー提督も、これに賛成し、船体が小さくて吃水の浅い「バロサ号」「コーモラント号」の二艦を派遣することに決し、二人の上陸地点として、長州領でなくて長州に近い姫島をえらんだ。またこれには立会人のような形で、フランスの海軍少将ジョーレスとオランダの将校が一人同乗して行くことになった。  姫島というのは、大分県の国東《くにさき》半島の北五キロ、別府に近い面積七平方キロメートル足らずの小島で、先月わたくしは行ってみたが、歴史的にも風土の上でも、伊豆七島などとはちがった意味で興味のあるところで、瀬戸内海国立公園の一部になっている。  イギリス公使パークスが井上と伊藤に託して長州藩主にとどけさせようとしたメッセージは、英・仏・米・蘭四国公使の連名になっているが、主としてイギリス側の思惑を伝えたもので、通訳のアーネスト・サトウがケンサク・ナカザワという日本語教師の協力のもとに、日本文に訳したのだ。  この原文はイギリスの「青書」に出ている。もともとイギリス政府の公式報告書は、表紙が白いので、ホワイト・ペーパー(白書)といい、議会の報告書はブルー・ブック(青書)といった。日本でもこれをまねて、昭和二十二年七月、片山内閣のときに、「経済白書」を出したのがはじまりで、いろんな「白書」を出すようになった。  このメッセージの内容はざっとつぎのようなものであった。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 一、長州藩の敵対行為は、これ以上許すことはできない。 一、このような暴行をあえてする国は、連合軍の攻撃をうけてもしかたがない。 一、西欧諸国は、いずれの一国でも、軍事力ならびに経済力において、長州一藩はもちろん、日本の全力を合わせたものよりも、はるかにすぐれている。 一、ただし、連合国の望むところは、武力に訴えることではなく、この機会に、より親密な関係を確立することにある。 一、外国がえりの二青年は、長州藩士としての義務を重んじ、無知より生ずる恐るべきわざわいを未然に防ぐべく、藩公に報告するとともに警告しようとするものである。 一、連合国は、幕府と条約を結んだが、はたして幕府が日本の主権者であるかどうかということは、日本人のあいだで決定すべきことで、国内事情がどうあろうとも、結んだ条約は守る義務がある。 一、条約に天皇の批准が必要だというならば、その手続きをふめばいいし、貿易の利益を幕府で独占するのをおさえたいというのならば、各国公使と直接交渉するがよい。 一、日本がどこまでも攘夷を固執するならば、五年前、英仏連合軍が連戦連勝して北京に進入したように、京都に進入することになるだろう。 一、日本の現政府の組織をかえるとか、あるいは現条約の字句または条項を改訂する必要があるというならば、適当な方法をもってすれば、列国はこれに反対するものではない。 一、幕府をくつがえす目的で、外人を敵視し、現条約を無視するようなことがあると、連合国は日本を共同の敵と見なし、その滅亡をはかるであろう。 [#ここで字下げ終わり]  このメッセージには、多分に脅迫的な表現が用いられているが、一方では妥協を申し出ている。右手でゲンコツをふりあげながら、左手で握手を求めているのだ。開港後のイギリスは、オランダにかわり、日本の貿易をほとんど独占しているのであって、薩長のような雄藩を相手に戦争をするよりは、むしろこれらの諸藩と手をにぎり、貿易のため、新しい港を開かせたいというのが、その真意なのだ。イギリス政府が、いや、その背後にある新興の資本家階級が、平和な解決を望んでいることは、本国政府からのパークスへの指示、パークスがクーパー提督への申し伝えにも、それがよくあらわれている。  それでいて、このメッセージがふくんでいる欺瞞的《ぎまんてき》要素をも見のがすことができない。たとえば、条約の改訂のごときも、すぐにでもできるようなことをいっているが、この条約を改正することに成功したのは、それから三十年後の明治二十七年七月十六日で、その二週間後に日本は日清戦争にふみきったのである。当時、イギリス外相が、新条約は日本にとって清国の大軍を敗走させた以上の意義があると演説しているのをみても、旧条約が日本にとっていかに不利で、そのために日本が払った犠牲がいかに大きかったかがわかる。  ところで、このメッセージを井上、伊藤に託するにあたり、パークスはいった。 「もしも不幸にしてその目的を達することができなかった場合には、君たちはどうするつもりだ。もう一度イギリスへ留学するかね」  これにたいして、二人は答えた。 「わたしたちの意見がどうしてもとりあげられなかった場合には、攘夷軍の先頭に立ってたたかい、貴国の砲弾にあたって死ぬよりほかありません」 「そうか。それだけの覚悟ができているならたいしたものだ」 と、パークスは手をうって感嘆した。当時、封建主義から民族主義への脱皮期にあった日本の青年と、イギリス帝国主義のために最前衛の役割を果たしていたものとが、祖国への忠誠心の異常な高さという点で、一致を見たのである。  さて、英艦にのせられてきた二人の日本青年が上陸した姫島は、『古事記』神話で、イザナギ、イザナミのミコトがつくったことになっている。�女島《ひめじま》�だといわれている。徳川時代には杵築《きつき》藩に属し、流人島にされていたこともあるが、のちには各種の亡命者が逃げこむには絶好の場所となっていた。明治二年、兵部大輔大村益次郎を京都で暗殺した長州藩士|神代直人《かみしろなおと》、明治三年、「奇兵隊」が反乱をおこしたときの首謀者|大楽源太郎《だいらくげんたろう》などが、この島にのがれて、しばらく潜伏していた。  林房雄の若いころの野心的な作品に『青年』というのがある。これはロンドンからかえった井上と伊藤がポルトガル人にバケて、横浜のホテルに泊まるところからはじまっているが、かれらが姫島に上陸したときのことをつぎのように書いている。 「ひからびた仏像のような顔をした村長は、一行を見ると、ただあわてて、どぎまぎと不可解な土語をどもった。島の向こうの半島からやってきた杵築藩の役人たちはとおくの方から眼をとがらせて異人たちをにらみ、サトウらがそばに行こうとすると、アメリカ犬のように歯を見せて、竹やぶのなかににげこんだ」 「ひからびた仏像のような顔」、「不可解な土語」、「アメリカ犬のように歯を見せて」といったふうな描写は、イギリス人の目に写った島人であることはいうまでもない。それはいいとして、わたくしがこの島を訪ねて、村長からきいたところによると、古くからここには�竹やぶ�というものがぜんぜんないという。作者は大分の出身だが、この島へは行かなかったか、行っても気がつかなかったか、どっちかであろう。これはわたくしも村長にいわれてはじめて気がついたことだ。  それはさておいて、この島には良港が多く、風むきによってどこへでも船がつくようになっているのが、伊豆七島などとちがっている点だ。この島の近海は魚が豊富、とくにタイとタコが有名だ。塩田は近年ほとんどダメになったが、これを改造して�魚の農場�とし、クルマエビの人工増殖が大規模におこなわれている。  村の人口も、宝暦時代(一七五〇年代)にサツマイモがはいるまでは千人以下だったが、それから百年足らずのあいだに二千人になり、現在は四千人をこえている。  この島の珍しい風習の一つに、�両墓制�というのがある。死体を埋める墓とお参りする墓を別につくり、墓碑は三十三周忌もしくは五十周忌になると、倒してしまって、石材としてつかうのである。�両墓制�というのは、民俗学者|大間知篤三《おおまちとくぞう》の命名で、この島のほかでもおこなわれているという。土地がせまいからやむをえないのであろうが、大都会でもこの制度を採用していいのではなかろうか。しかし死者の名を刻んだ石を小川の橋などにつかって、その上をふんで歩いたりするのは、あまりいい気持はしない。  それよりも、外国では、小型金庫か銭湯の衣服箱のようなものをならべてつくり、そのなかに遺骨を入れて、扉のところに花をそなえることができるようになっているのが多い。墓をベビー・サイズの団地にしたようなものだが、どこの国にもある�無名戦士の墓�のように、十字架のマス・ゲームみたいなものよりは、このほうがずっと感じがよい。  話は横にそれたが、このあと幕府の軍艦奉行|勝海舟《かつかいしゆう》が、「開陽丸」で姫島にきて、倉庫五むねをたて、石炭百二十万斤を貯蔵した。むろん、これは外国にたいしてでなくて、長州征伐にそなえたものだ。ところが、慶応二年六月、幕府方のすきをねらい、長州の「奇兵隊」が三田尻からやってきて、この倉庫の番人をしばりあげ、石炭に火をつけて引きあげていった。これが四か月も燃えつづけ、十月になってやっと鎮火したという。  この瀬戸内海の小さな島にも、このような歴史があって、国際的ならびに国内的な狂瀾怒濤(シュツルム・ウント・ドランク)の場になっていたのだ。  井上、伊藤は、横浜で手に入れた和服にきかえ、外国人でなくて長州人だといったが、島人は信じなかった。庄屋に漁船を用意させて三田尻にわたろうとしたけれど、庄屋はなかなかウンといわなかった。そのころ、この島には幕府側のスパイがはいっていたらしく、その報告によると、この二人の怪しい青年は、�頭巾�を脱し海に投ぜんとしたので、島人はもらいうけたという。�頭巾�とは帽子のことであろう。  それでも、やっと庄屋との話がまとまって、二人が漁船にのって島をはなれようとしたとき、これを見送りながら、ケンサク・ナカザワは、サトウにいった。 「あの二人は、十中の六、七まで首をはねられるでしょう」  三田尻につくと、防長二州は攘夷でわきたち、女までが短刀をふところにして外出するというありさまであった。  井上たちは、三田尻の代官所に行って、事情を説明し、ハオリ、ハカマ、刀などを与えられ、藩主のいる山口にむかった。  山口では、さっそく藩主に会って、外国の事情を説明したいと思ったが、外国の船で送られてきたというだけで、�売国奴�あつかいをうけた。しかし、直目付役《じきめつけやく》の要職にあった毛利登人が前から二人を信用していたので、藩主に会えるようにしてくれた。といっても井上だけで、身分の低い伊藤は、藩主の前に出る資格がなかった。  藩主毛利|慶親《よしちか》(のちに敬親《たかちか》)と世子定広に、井上は留学を中止して帰国した理由や攘夷の無謀を説いたところ、相手も外国の事情に案外よく通じているのに驚いた。というのは、その側近に青木周弼《あおきしゆうすけ》という蘭医がいたからである。周弼は弟の研蔵《けんぞう》を長崎に送り、シーボルトに師事させていた。明治の外交家で、外相にもなり、子爵を授けられた青木周蔵は研蔵の養子である。 [#改ページ] [#中見出し]馬関戦争と高杉晋作   ——講話談判に奇才ぶりを発揮した晋作の背景にあったもの——  [#小見出し]進歩的だった長州藩  維新史の上では、長州というと、藩をあげて�尊皇攘夷�でこりかたまっていたのが、ご維新になって急に開国主義にかわったという印象を与えているが、それはまちがいで、ずっと前から進歩的な面も多分にそなえていたのである。  長州には、前から�朝鮮人送り�または�唐人送り�という制度があった。長州の沿岸には、朝鮮人、シナ人などがしばしば漂着するのであるが、これらをいちおう長崎に護送し、そこから幕府の手でそれぞれの国へ送りとどけることになっていた。  ところがその護送の途中、漂流民が病気になったり、死なれたりすると、面倒なことがおこるので、長州の医者が長崎までつきそって行った。その医者にしてみれば、これは新しい西洋医学を身につける絶好のチャンスである。  そこで、のちには医者以外の長州藩士もこれに便乗して、長崎に留学し、西洋の兵学、航海学などを学んでかえるものが多かった。前にのべた青木周弼、研蔵兄弟をはじめ、久坂玄機《くさかげんき》、竹田庸伯《たけだようはく》、松村太仲《まつむらたちゆう》、東条英庵《とうじようえいあん》など、長藩から多くの蘭医、蘭学者を出しているのも決して偶然ではない。有名な久坂玄瑞は、玄機の弟である。英庵は周弼の弟子で、大阪の緒方塾にも学び、幕府の蕃書調所や海軍所につとめ、ペリーの『日本紀行』などの翻訳に従事した。玄機には『海軍砲術論』『治痘局』など著書が多い。  吉田松陰をはじめ、その周辺の人物に、外国とくにアジア諸国についての知識があり、関心も強いのは、そういうところからきている。松陰はどっちかというと、積極的な開国論者であった。佐久間象山を相手に、貿易について語ったとき、象山がいうには、�入り貿易�はよくないが、�出貿易�すなわち、日本人が海外に出て行っておこなうのはよいという意見をのべた。これにたいして松陰は、日本の国力が強くなって、自主的にやるのなら、�入り貿易�でもよい、いわんや�出貿易�においてをやといったところ、象山は、 「まったくその通り」 といって、手をうって賛成したという。  それでいて、長藩では、�攘夷�熱がどこよりも強かったのはどういうわけか。その底にあるものは、関ケ原の敗戦以来、うっせきしている反幕意識であるが、貿易の利益を幕府が独占していることにたいする反感を見のがすことはできない。薩摩には琉球というおあつらえむきの密輸ルートがあったが、長州にはそれがなかったのだ。  そこで、長州藩主や藩の指導的分子は、外国の事情にもある程度通じ、�攘夷�のおこないがたいことや、その不利な点も承知の上で、倒幕のスタミナをあげるための手段として、藩士たちに�攘夷�熱をあおりたてていたともいえる。これは戦後の共産党や社会党左派の指導する反米運動、全学連や総評のありかたにも通じるものだ。  話はもとへもどって、長州藩主あての四国公使のメッセージは、井上と伊藤で相談の結果、にぎりつぶしてしまった。見せてもムダだと思ったからである。  井上、伊藤が姫島につく十七日前の六月五日、フランス東洋艦隊の「セミラミス号」「タンクレード号」が、前に砲撃をうけた「キンシャン号」の報復のため、下関にやってきて、さんざん砲撃を加えた上、陸戦隊を上陸させて、長州の砲台を破壊し、その付近の部落を焼き払った。そのさい、フランス提督ジョーレスの名で、つぎのような片かなの布告を出している。  フランスコクタイショウテイトクヨリ、ナガトシウノスミビトニシラセタリ という書き出しで  コノゴロ、ナガトシウノトノサマ、マツダヒラダイゼンノダイブトマウサル、オダイミャウヨリ、フランスノハタヲタテタルフネヲ、オホヅツニテウタレタルトコロ、コレラワガクニニタイシテ、オホイナルケイベツトゾンジテ、イマワレミギノトノサマヲタダシニマイルケレドモ、ワレニムカワヌツミナキナガトシウヂウノスミビトヲ、マタソノツマコドモドモ、ウチガイスルココロナカルユエニ、ソノナガトシウヂウノスミビトニオイテハ、スコシモオドロクニオヨビマセヌ といった調子で、かなり長いものである。おそらく外人通訳の書いたものと思うが、過去形と現在形が入りみだれて、外人の手に成った日本文の見本として興味がある。  太平洋戦争中、日本軍も占領地のいたるところで、この種の布告を出したが、もっともコッケイだったのは、わたくしの従軍したジャワ派遣軍の出したもので、これは、 「日本軍の軍票をうけとることを拒否したものは厳罰に処す」 というところが、「うけとったものは厳罰に処す」という意味にとれるようになっていた。そのため、この布告を印刷した大量のポスターを焼却するのに数日を要した。  [#小見出し]不発砲弾を見世物に  長州藩では、海外事情に比較的よく通じていたというものの、その知識はきわめて貧弱なものであった。  吉田松陰の家は、代々兵学を講じてきたのであって、いわばその道の専門家であるが、それが嘉永六年ペリーが浦賀にきたときに提唱した松陰の国防対策というものがふるっている。  まず三浦、房総の両半島から、丈夫そうな漁師と漁船をあつめ、一隻の漁船に二十人くらい兵をのせ、これに小銃と小型の砲をもたせ、五十隻ばかりの�艦隊�を編成し、これを浦々にかくしておく。そして敵の軍艦がやってきてボートをおろしたときに、これを迎えうつ。相手がさらに近づいてくれば、クマデ、トビグチ、クサリガマのようなものでひきよせて首をとる。さいごには、ハシゴをもって敵艦にのりうつり、これをぶんどりにしようというわけで、蒙古襲来のときに日本軍が用いた戦法とほとんどかわっていない。  文久三年になると、長州藩の防衛策は、もう少し進んでいた。�攘夷�の先頭となったのは、下関の光明寺に合宿していた�光明寺党�であるが、その総督は久坂玄瑞で、その下の軍監すなわち参謀長が赤根武人《あかねたけと》であった。  かれらのあいだで、敵艦が近づいてきたときの対策について協議したとき、早鞆の瀬戸に木綿の反物とか鉄の鎖とかをわたして、これをはばもうとする意見も出たが、実行不可能だというので反対され、けっきょく、赤根の案が久坂以下の支持をえて、さっそく実行にとりかかることにした。これは竹のイカダを組んで、敵艦の通行をはばみ、敵がひるんだところを見はからって、こちらもイカダにのって接近し、敵艦にのりうつり、白兵戦ともなれば、きっと勝てるというわけだ。  ところが、こころみにイカダをつくり、海峡の近くまで引いて行くと、たちまち急流におし流されてしまった。  大砲の製造も、急場にまにあわなくて、木に穴をあけて竹のタガをつけた木製砲とか、オケに竹をまいて大砲のように見せかけたのもあった。それよりもコッケイなのは、寺の鐘をもってきて、開いている下側を敵側にむけ、巨砲のように見せようとしたことである。  しかし、こういったこけおどしは、望遠鏡によってすぐ見破られた。井上や伊藤は、姫島へ送られてくる船のなかで、イギリスの将校から、笑い話としてこのことをきいた。  仏艦からうってきた砲弾の大きなのは二十貫くらいもあったが、そのなかには不発弾が案外多かった。それでも、いつ破裂するかわからぬので、四斗入りのあきダルに水を入れ、まるで大蛇を生けどるように、そのなかに砲弾をすくいこんだ。そしてこれをかけ小屋に入れて、 「さァ、見てらっしゃい、とうとう生けどった南蛮鉄唐人の弾丸」 ということで、見世物とし、見料をとって見せたという。  上陸したフランスの陸戦隊は三百名ばかりだったが、これが民家に火を放ったとき、遠まきにしてながめていた住民たちは、マッチという便利な発火器のあることをはじめて知った。この火は「鉄砲でもなく、魔法にて音もなく火をまわした」のを見てすっかり驚いている。  仏艦からうち出した砲弾の一つは、長府藩邸におちた。大した被害はなかったけれど、邸内は上を下へのさわぎとなり、奥方や女中たちをはじめ、藩士が続々と領内の山地をめがけて避難することになった。  こうなると、下関の商家などでも、くっきょうの男だけがあとにのこって、家族はことごとく疎開した。 「女郎も惣嫁《そうか》(私娼のこと)も、のこりなく山中へ引きこもり居り候」 というのだから、B29の大編隊がやってきたときの東京の場合と同じである。  長府藩は、周防徳山藩、長門|清末《きよすえ》藩、周防岩国|吉川《きつかわ》藩などとともに、萩の毛利藩の支藩の一つである。毛利|元就《もとなり》の孫|秀元《ひでもと》を祖とし、五万石を領していた。下関戦争のはじまったころの当主は、秀元から十三代目の元周《もとちか》で、乃木希典《のぎまれすけ》の父|希次《まれつぐ》は、この元周とその嫡子|元敏《もととし》に仕えた。  元周は、左《さ》京亮《きようのすけ》ともいって、つとに宗藩の毛利慶親、定広父子を助けて勤皇攘夷派の一方の旗頭となっていた。明治元年に四十歳でなくなったので、明治政府には参加できなかったけれど、その子の元敏は、毛利藩�正義党�の首領として活躍した。  それよりも有名なのは元周の祖父|元義《もとよし》である。元義は戯名を梅之門真門《うめのとまかど》といい、殿さま界のシャレもので才気煥発、若いころから講釈師、落語家、俳優などとまじわり、そのころの有名な狂歌堂|真顔《まがお》の門にはいった。今も広く歌われている清元《きよもと》「梅の春」は彼の作品ということになっている。真顔の代作だという説もあるが、恐らくこの二人の合作であろう。曲譜は二世清元|延寿太夫《えんじゆだゆう》である。  元義は精力絶倫で、正室のほかに六人の愛妾をもち、十七人のこどもをもうけたが、その精力のもとは、薩摩藩主|島津重豪《しまづしげひで》から製法を伝授されて愛用していたオランダ伝来の秘薬にあったという。  [#小見出し]文明を邪法と笑う  井上、伊藤がのべる外国の事情をきいて、毛利藩主父子は、いちおうなっとくしたけれど、藩士たちとなると、これまで藩をあげて攘夷熱をあおりたててきただけに、そうはいかなかった。  外国には電信というものがあって、なん百里はなれていても、数分間で通信ができる、また汽車というものにのれば、一時間になん十里もの道を走ることができるといったような話をすると、外国にもけわしい山があるはずだが、そこをどうして通るのかときく。そのばあいは山腹にトンネルをうがち、地中を通るのだと説明したところ、きいているものがドッと笑い出して、 「デタラメをいうにもほどがある。外国人だって人間だのに、モグラのまねができるはずはない。君たちは外国でくらしているうちに、バテレンの邪法に魅せられて、こういうウソを平気でいうのだろう」 ということになってしまった。  さらに、外国の国家や社会の組織を説明し、上は国王から下は農工商にいたるまで、一体となって協力し、商工業の発達、通商交易の増進を計っているが、人民を保護する行政や法律のととのっている点では、日本人の夢想だにできないところである。このような富強盛大な国と戦争をすれば、必ず負けるし、負ければ、巨額の償金を出させられるか、土地をとられるか、どっちかであると、かんでふくめるように説いたが、信用するものはなかった。  当時の日本では、�国家�というのは藩のことであって、�民族国家�の概念は、支配階級である武士の頭のなかにも、まだ生まれていなかったのである。外国でその実体を見てかえってきた井上や伊藤がこれを説いたというのは、いわば頭脳的な手術のようなものであるが、はじめはこれをがんとしてうけつけなかった。これをうけつけざるをえなくなったのは、このあとまもなく、外国の軍艦からうち出す砲弾の威力を知ってからのことである。  わたくしたちに、このときの長州藩士をわらう資格はない。「太平洋戦争」のあとさきにも、同じようなことがおこっているのではなかろうか。  こういう話をしているところへ、野村靖《のむらやすし》など「奇兵隊」の連中がやってきて、 「君たちは、以前の同志だから見のがしてやるが、ほんとは命のないところだ」 といった。野村はのち、内相、逓相などを経て、枢密顧問官となり、明治天皇の皇女|富《ふ》美宮《みのみや》允子内親王《のぶこないしんのう》(朝香宮|鳩彦《やすひこ》王妃)、泰宮《やすのみや》聰子内親王《としこないしんのう》(東久邇宮|稔彦《なるひこ》王妃)のご養育主任となり、子爵を授けられた。  一方、姫島の英艦では、井上、伊藤に託した長州藩主へのメッセージの返事を待ちうけていた。期限は十二日ということになっていた。  そのころ、山口には「政事堂」というのがあった。藩政をつかさどる内閣のようなものである。そこで、しばしば御前会議を開いて対策を研究した結果、攘夷は勅命にしたがっておこなったのだから、このさい長門守が上京し、天意をうかがった上で返事をする、そのため九月まで三か月間待ってほしい、どうしても待てないというなら、決戦に出るほかはない、という返事をもって井上と伊藤が出かけることになった。  二人が三田尻から漁船で姫島へ行ってみると、ちょうど十三日で、約束の期限はすでにきれ、出発の準備をしているところであった。「バロサ号」の艦長のダウルというのが姿を見せて、 「話はゆっくりきくから、まああがれ」 といって、艦長の室につれていかれた。さっそくシャンパンをぬいてごちそうしてくれた。 「君たちが生きてここへもどってこようとは、誰も考えていなかった」 というわけで、将校たちが二人のために祝杯をあげた。  さて、返事のほうはどうかときかれたが、まさか自分たちでにぎりつぶしたと答えるわけにいかず、別に返事もなければ、うけとりもないが、 「われわれの生命をもってご返答申す」 といった。三か月待ってくれといったところで、相手はききいれるはずはないと考えたからだ。艦長のほうでも、この返事が気に入ったとみえて、 「それじゃ、いずれ近く弾丸雨飛のあいだで再会することにしよう」 ということで、二人は艦長たちとわかれて、三田尻のほうへ引き返した。この時代のイギリスの職業軍人には、騎士精神すなわち戦争を幾分スポーツ化した面があったという点で、日本の武士道と通じていた。というよりも、いずれイギリスと長州は手をにぎるべきだということをよく承知していたからであろう。  ダウルというのは、一八八五年(明治十八年)イギリスが朝鮮の巨文島を占領したときの提督である。当時、ロシアが対馬海峡に進出しようとするのをイギリスがおさえ、双方で猛烈にせりあった結果、イギリスがついにこの島を占領したのであるが、清国政府が中にはいって、イギリスをここから撤退させるとともに、ロシアも朝鮮の領土には手をつけないということで、この事件は落着したのである。  [#小見出し]血統より大切な�家禄�  井上馨は、今は山口市内にはいっている温泉町湯田の生まれである。井上|光亨《みつみち》の次男で、幼名を勇吉といい、同藩の志道慎平《しじしんぺい》の養子となり、藩主|敬親《たかちか》の側近に侍してかわいがられ、聞多の名をたまわった。  文久三年四月、洋行に際し、大阪から志道家に手紙を出して離縁を求め、もとの井上姓にかえった。というのは、藩主の内命をうけたといっても密航のことだから、どんな事件がおこらないとも限らないし、生きてかえれないばあいをも予想し、養家にめいわくをおよぼしたくないと考えたからである。  無事に帰国はしたものの、周囲から�国賊�呼ばわりされ、たえず生命の危険にさらされていたから、死ぬ前に一度、親友の高杉晋作と姉の常子《つねこ》に会いたいと思い、山口から萩に出かけた。高杉は、この年の春、脱藩の罪で、萩の野山獄に入れられていたが、このときはゆるしが出て、父|小忠太《こちゆうた》の家で、謹慎中であった。  萩について、さっそく姉の家を訪ねたところ、すぐ近くの志道家にそのことが知れた。志道家では、井上が容易に帰国できないものと思い、親族会議の結果、離縁を承諾し、ほかから別な養子を迎えたばかりであるが、志道家の娘と井上とのあいだには芳子《よしこ》というこどもがあった。  志道家では、軽率な行為をひどく悔いたが、もはやどうにもなるものではない。井上の生命が危険にさらされているというウワサをきいていたので、養父母はなんとかして芳子を実父に会わせてやりたいと考え、人を通じて、井上にたのんできた。井上のほうでウンといえば、世間の耳目をさけるため、夜なかにこっそり芳子をつれてくるというのだ。  こんなことはいくらかくしていても、必ず世間にもれるものだというので、井上は頑強にことわりつづけた。ところが、姉の家で井上の寝ているマクラもとへ、突然、芳子をつれてこられたので、ついに父子の対面をせざるをえなかった。芳子は彼の顔を見るなり、 「とうちゃん!」 と叫んで、彼のヒザによりかかってきた。さすが倣岸不屈《ごうがんふくつ》の井上も、目にいっぱい熱涙をたたえたという。  この話は、あまりにも�新派悲劇�的だが、井上の口から直接きいた話を記録した『井上伯伝』に出ているので、つくり話ではあるまい。  この時代には養子が多かった。次男、三男は、養子の口を見つけないと、いつまでも禄にありつけないからでもあるが、これを迎える側でも、家についている禄を失わないためには、養子を迎える必要があった。無能なもしくは放埒《ほうらつ》な実子を廃して、別に養子を迎える例も、そう珍しいことではなかった。  このことは商家についてもいえることだ。先年、わたくしは東京日本橋横山町の問屋街を調べたが、長くつづいている老舗《しにせ》の主人に養子が多いのに驚いた。なかには、実子があっても、これに店をつがせず、若いころからすてぶちを与えて隠居させ、親類縁者や使用人のなかから有能で信頼できる人物を物色し、これにあとをつがせることが�家訓�になっているところもあるときいた。�血�よりもノレンのほうが大事で、ノレンを維持するという点からいうと、養子のほうが、広い範囲から人材をスカウトできるという点で、安全性が高いという考えかたに基づいているのだ。  武家のばあいも同じで、それぞれの家についている格とか禄とかいうものは、商家のノレンとかわりはない。これを守って行くことが最高の義務で、そのためには、肉親の情愛などというものは、いつでも犠牲にしなければならないのである。  藩主にも養子が多い。藩に属する多くの武士やその家庭の生活を保証することが先決問題で、これに比べると、�血統�すなわち�血�のリレーなどは、それほど大きな意義をもたないのだ。  資本主義社会で、この組織をもっと近代化した形で運営されているのが株式会社である。これも藩のようなもので、小規模の同族会社をのぞいては、藩主すなわち社長は、従業員のなかからでも、あるいは取引銀行その他外部のどこからでも、適任者を迎えることができるようになっている。それによって従業員や株主の利益を保証しているのだ。  高杉晋作にしても、脱藩して浪人したため、廃嫡されて、かわりに南貞助《みなみていすけ》というのが高杉家の養子に迎えられている。  芳子に会った翌日、井上は高杉家を訪ねて、晋作に面会を求めたが、父の小忠太は、晋作は藩公からお預けの身分だというので、頑強に拒否した。しかし、そのうちに、ふいと姿を消してしまった。そこで井上は晋作と会い、外国で見てきたことを高杉に伝え、内外の情勢について、夜っぴて語りあった。  封建制度下の�秩序�というものは、こういう形で保たれていたのである。  [#小見出し]忠勇義烈の士・来島又兵衛  一つの組織のなかで、最高の地位にあるものが、最高の責任、実力、発言権をもつというのは、創業者の場合をのぞいては、ほとんど例外に属する。この点は、藩にしても幕府にしても、また朝廷においても同じで、側近政治が普通ということになる。近代的な会社経営においても、日本ではそういう点がまだ多分にのこっている。  側近政治である以上、側近からはずされた反主流派が、再起を計るときのスローガンなり、大義名分なりは、いつもきまっている。それは�君側の奸をのぞく�ということで、日本史上の内乱とか、�お家騒動�とか呼ばれているものは、たいていこの形をとっている。これに失敗すれば、権力をにぎった主流派の大反撃にあって、徹底的にうちのめされ、当分は再起不能におちいる場合が多い。  文久三年八月、�堺町御門の変�と呼ばれている会津、薩摩連合のクーデターに敗れ、朝廷からしめ出されてからのちの長州藩は、これに近い状態にあった。三条実美など�七卿�が長州にくだり、藩主敬親までが勅勘の身になったというのは、なんとしても我慢ができぬというので、このさい京都にのぼり、ぜひとも朝議を回復しなければならぬという議論が、藩内にわきたった。三条からも、そういう申し出があった。  これがいわゆる�進発論�で、このほうの急先鋒は、当時長藩の東条英機《とうじようひでき》ともいうべき地位にあった来島又兵衛《きじままたべえ》である。来島は、東条とちがって戦国型の豪傑で、元亀・天正時代に生まれていたならば、きっと一国一城の主になっていたにちがいない。身体巨大、胆力も抜群で、こどものときからタケヤリをもって命がけの勝負をしたといわれるだけあって、武芸百般、とくに槍術と騎馬に長じ、彼が馬上で長ヤリをふるう姿は、「鬼神風に御して天空をとぶかと疑う」と書かれている。  藩主が江戸、京都、長州のあいだを往復する場合には、彼がいつも護衛の任にあたっていた。一点の私心もなく、�忠勇義烈�の権化みたいな人物だったが、そのころの日本の社会情勢は戦国時代とは比べものにならぬほど複雑な様相を呈していた。したがって、彼のこういった�美徳�は彼個人にとっても、彼の属する組織にとっても大きなマイナスの役割を果たすことになったのである。それまで来島自身は、「森鬼太郎」と改名したのをみても、いかにきおい立っていたかがわかる。  長藩の重役のなかで、内外の情勢に明るく、比較的進歩的な立場に立って、高杉、井上、伊藤などのグループを支持していたのは周布政之助である。攘夷を断行するにあたり、高杉を起用して「奇兵隊」をつくらせたのも周布だ。しかし高杉はこれまでしばしば脱走の罪を犯したので、まだ親がかりになっていて無禄だったが、周布にとりたてられ、新知百六十石を与えられた。  来島らの�進発論�は、どう考えても無謀で、このさい、ぜひともこれをおさえる必要があると思った周布は、この役目を高杉に命じた。高杉は来島に会って説得にかかると、来島はいった。 「貴さまは百六十石もらって命が惜しくなったのだろう」  これをきいて高杉は、 「それなら、おれは貴さまよりも先に死んでみせてやる」 といって、またも脱走、死に場所を求めて京都にむかった。  大阪の藩邸にワラジをぬぐと、「新選組」に追われた土佐の中岡慎太郎《なかおかしんたろう》、宇都宮の浪人|太田民吉《おおたたみきち》などがかくまわれていた。中岡が高杉の話をきいて、 「君にとって絶好の死に場所があるが、ひとつやってみないか」 といった。それは何かと高杉がきくと、 「島津|久光《ひさみつ》をたたき斬ることだ」 と答えた。高杉もこれに賛成した。  それから数日後に、来島が十二人の部下をつれて大阪へやってきた。これを追うて、さらに五十人ばかり長州から脱走してきた。  長州の大阪藩邸では、藩命をうけて、高杉や来島の行動を大いに警戒した。高杉は雲水姿で京阪間をうろついていたが、来島らは、火事装束、鎖梯子《くさりばしご》、カケヤ、トビグチといったような品々をそろえて、京都の藩邸にもちこんだ。これを見た桂小五郎や久坂玄瑞は驚いて、 「こんなものを何につかうのだ」 ときくと来島は答えた。 「肥後守(会津藩主|松平容保《まつだいらかたもり》、当時の京都守護職)の屋敷に討ち入りして、天誅を加えるのだ」  これをきいて、桂や久坂はいった。 「そんな乱暴なことをされては、藩公以下われわれのこれまでの苦心がすべて水泡に帰する。君がどうしても決行するというなら、われわれとしては、責任上、君とさしちがえる」 と、涙を流していさめ、来島もついに思いとどまったが、 「それじゃ島津久光を斬ることにしよう」 といった。これで高杉も来島も、けっきょく、同じエモノをねらう身になったのである。  [#小見出し]講和全権に高杉起用  高杉が京都、大阪辺をうろついているとなにをしでかすかわからぬというので、藩主がわざわざ使いを出して彼を長州へ呼びかえした。高杉のほうでも、こんどは切腹を命じられるにちがいないと、覚悟をきめてかえってきたのだが、生かしておけばまた役に立つことがあるとでも考えたのか、高杉を萩の野山獄に投じた。  そこへ、高杉びいきの政府員周布政之助が、酔っぱらって訪ねてきたりして、これまた謹慎を命じられた。  その結果、長州藩では�進発論�をおさえる人物がいなくなり�暴発�に近い形をとった。来島又兵衛、久坂玄瑞のあとを追って脱走するものが続出、三条実美や世子定広も上京して、朝廷に強訴することになった。これはけっきょく大失敗におわったのであるが、高杉も入獄中でなかったならば、またも脱走して、こんどは確実に命を失っていたにちがいない。  この高杉という物騒なもち駒が、長藩になくてはならぬ人物として、大きな役割を果たすときが案外早くやってきた。  七月十九日の「|蛤 《はまぐり》御門《ごもん》の変」で、長州軍が大敗する一方、英、仏、米、蘭の四国連合艦隊が姫島に集結しつつあるというニュースがはいった。長藩としては、内外腹背に敵をうけることになったので、さしあたり、連合艦隊に和議を申しこむことに決定したものの、その全権委員に適当な人物がいなくて困った。けっきょく、高杉を釈放して、これにやらせるほかはないということになった。  その前、藩主は井上聞多にこれを命じたが、そのころ藩内では、�焦土抗戦�を主張する勢力がまだ強かったので、世子定広は、かれらをはばかり、 「以権道講和」 という字を書いて、井上に与えた。外敵との戦いをつづける意思をすてたわけではないが、このさいやむをえぬから、便宜上、講和の話をまとめてこいというのである。これにたいして井上は、そんな不徳義なことはできないといってハネつけた。するとこんどは改めて、 「以信義講和」 と書いてわたした。これを見て井上は、藩の態度が、こうもかんたんにかわるようでは困るといって、うけようとしなかった。この「焦土抗戦」から「以権道講和」を経て「以信義講和」にいたる過程は�大東亜戦争�の終末を思わせるが、これは日本特有というよりも、敗戦国に共通の現象ともいえよう。  いずれにしても、井上や伊藤はまだ若僧だし、身分も先方に知られているから、講和使節だといってのりこんで行っても、相手にしてはくれないだろう。そこで、家老級の人物をえらんで正使とし、これに副使二名と通訳をつけて使節団を構成すべきだということになった。  ところが、当時、長藩の重役には、外人を相手にこういう面倒な談判のできそうな人物はいないということがわかった。 「それなら、つくればいいじゃないか」 という井上の説がいれられて、えらばれたのが高杉である。彼を一番家老|宍戸備前《ししどびぜん》の養子ということにして、宍戸|刑馬《けいま》と名のらせて正使とし、杉徳輔《すぎとくすけ》、渡辺内蔵太《わたなべくらた》の二人を副使、井上、伊藤の二人を通訳官に任命した。  のちに、宍戸備前のほんとうの養子に迎えられた宍戸|※[#「王+幾」、unicode74a3]《たまき》は、明治政府に用いられ、特命全権公使として清国に在勤、子爵を授けられた。副使の一人の杉徳輔は、のちに孫七郎と改名、明治十五年特命全権公使としてハワイ国王の戴冠式に参列、十七年皇太后宮大夫、二十七年東宮職御用掛などを経て、子爵を授けられたが、渡辺内蔵太はのち�俗論党�のために投獄され、十二月に斬られた。このように長州の勤皇派グループで、生きのこったものの多くは、皇室関係の要職について、立身出世している。  それはさておいて、連合艦隊の馬関攻撃がはじまったのは八月五日で、その後の戦闘状況はというと、連合軍側の陸戦隊は、英軍千四百人、仏軍三百人、オランダ軍二百五十人、これに米軍が少しばかり加わって、合計ざっと二千人で、英軍はアレキサンダー大佐、仏軍はクリヨ大佐が指揮し、長州側の各砲台を片っぱしから占領して、とりこわしてしまった。  戦闘開始の前、壇ノ浦方面の守備隊隊長となっていた山県狂介(有朋)は、酒ダルのカガミをぬいて、 「陣中、なんの用意もないが、眼下にならんでいる敵艦十八艘、あれをサカナにして大いにのんでくれえ」 といった調子で、意気さかんなものがあった。  ところが、敵艦からの砲撃がいよいよはげしくなり、山県が声をはりあげて叫びつづけているうちに、ノドがかわいたので、水桶へ首をつっこんだところへ、敵弾がとんできて、背なかをうたれた。そばにいた三浦梧楼《みうらごろう》(のちに陸軍中将、子爵)が介抱し、山県をかついで退却した。これが六日のことで、七日には連合軍が無人の境を行くがごとく進撃し、馬関の町は完全に敵の手におちてしまった。  八日朝、連合艦隊司令官のクーパー提督が、戦線を視察したあと、馬関の町を焼き払えという命令を出そうとしているところへ、白旗をかかげた一隻の漁船が姿をあらわした。  [#小見出し]武者人形なみの使節団  この漁船には伊藤春輔《いとうしゆんすけ》(このころは「春」を用いた。のちの博文)がのっていた。講和打診のため、まず単独でのり出してきたのである。前に連合艦隊が姫島に集結しているとき、伊藤は松島剛蔵《まつしまごうぞう》(彼もこのあと、�俗論党�に斬られた)とともに和議を申し込みに行ったのだが、艦隊はすでに馬関のほうへ出発したあとだった。こんどは長府二ノ宮で祭礼に用いる白木綿の大旗をひっぱり出し、これをサオにつるし、漁船のへさきにたてて、三挺櫓《さんちようろ》で旗艦めがけてこぎつけた。  いちはやく伊藤の姿を見つけて、甲板から声をかけたのは、通訳のアーネスト・サトウである。 「おや、伊藤さん、戦争はもう飽きましたか」 「飽いたからこそ、ここへやってきたのですよ」 というわけで、伊藤は艦内に通された。そこでは艦長のアレキサンダーが、陸戦隊をひきいて戦闘中に足をうたれ、その治療をうけていた。それから伊藤は、クーパー提督に会い、彼が講和談判に応じる意思のあることを確かめた上、合図の号砲をうってもらった。そういう打ち合わせができていたのだ。  この号砲をきいて、高杉使節の一行が、勢いよくのり出してきた。その使節団の姿を見て、伊藤は思わずふき出した。  正使の宍戸刑馬こと高杉は、立烏帽子《たてえぼし》に直垂《ひたたれ》、豪華な陣羽織をきこんで、いかにも殿さまの名代然《みようだいぜん》とかまえこんでいるし、副使の杉徳輔と渡辺内蔵太は、小具足にこれまた陣羽織をきこみ、威風さっそうとやってきた。これを甲板から見た伊藤は、のちに、 「まるで端午の節句にかざる武者人形みたいだった」 と語っているが、アーネスト・サトウは当時の日記に、 「これら正副使は、いずれも長藩の大官たちとみえ、伊藤はていねいにおじぎをした」 と、書いているところを見ると、彼も高杉らの正体に気がつかなかったのであろう。むろん、これはお芝居で、前もってちゃんと筋書きができていたのである。  このとき高杉らがもってきた「講和書」というものの内容は、 「外国船の砲撃は、もともと朝廷の命によっておこなったものであるが、朝命にそむいたという結果になってしまったのは残念である。今のところ、朝廷の真意をはっきりつかめない状態にあるが、こんご外国船が下関を通行することはさしつかえないようにする」 といったようなことで、責任者の署名は「日本防長国主《につぽんぼうちようこくしゆ》」となっていた。しかし、これは申しわけみたいなもので、相手国とはなんの関係もないようなことをのべ、かんじんの休戦、降服、その条件などについては、少しもふれていない。  むろん、クーパー提督がこれで満足するはずはない。だれが書いたかわからないような、この「講和書」では困るから、藩主が自分で書いたものをもってくるか、それとも藩主自身でくるか、どっちかにしてほしいということになった。かくて第一次会談は、いちおうなごやかな空気のうちにおわった。  ところが、この講和のウワサが伝わると、品川弥二郎《しながわやじろう》(のち内務大臣、子爵)、山田顕義《やまだあきよし》(のち陸軍中将、司法大臣、伯爵)のひきいる「御楯隊」を中心に�血盟団�が組織され、高杉、井上、伊藤の三人に�天誅�を加えようとしているという情報がはいったので、いずれも身をかくしてしまった。  そのうちに、第二次会談の日がきた。うっちゃっておくわけにいかないので、こんどは本物の家老の毛利登人(これまたのちに�俗論党�に斬られた)が、正使となってクーパーを訪ねたところ、 「宍戸刑馬はどうしたのか、談判の途中で責任者をかえては困る」 といわれた。刑馬は急病だということでごまかしたが、クーパーは相手に誠意がないと見たか、すこぶるふきげんで、むずかしい講和の条件をいろいろともち出してきた。  一方、幕府では、二十六藩に命じて大規模の征長軍を編成し、四方から長州に攻めこんでくるという確実なニュースがはいったので、藩内の講和反対熱がとみに冷却し、これにかわって討幕熱がもりあがってきた。  第三次会談には、やっと高杉らを見つけ出してきて、第一次の場合同様、彼を正使とし、さらに藩の重役、諸隊の代表をも加え、挙藩体制をととのえて、だれにも文句をいわせない形をとった。  こうなると、高杉は大いばりで、 「こんどは金の烏帽子に錦の陣羽織をきせてくれ」  などとダダをこねた。  さて、談判が進んで、具体的な講和の条件が一つ一つとりあげられた。  第一、外国船の下関海峡通行の自由  第二、彦島の租借  第三、償金  第一の下関海峡通行権は、長州藩主の提出した「講和書」でも認めていることだから問題はなかったが、困ったのは彦島の租借問題だ。これは突然もち出された要求で、高杉には�租借�ということばの意味さえもよくわからなかった。しかし、こういう場合にのぞんで、奇想天外の妙策を案出し、事態を有利に展開するのは、彼のもっとも得意とするところである。  [#小見出し]�夷狄�変じて�親友�となる �租借�というのは、よくわからないけれど、「分割してよこせ」ということらしいと解釈した高杉はいった。 「�租借�など、とんでもない。もともと大名の領土というのは、天子さまからお預かりしているもので、大名の一存で処分することはできない。そもそも日本の国は、高天原朝廷七代にましますクニトコタチノミコトにはじまり、イザナギ、イザナミの二神が、アメノウキハシにたたせたまい、アマノヌボコをもって滄海をさぐられ、ホコの先からしずくがたれて島ができた、これが淡路のオノコロ島である。この島に天降りまして、八尋《やひろ》のご殿をたてられ、ご夫婦でこの大八洲《おおやしま》をつくらせたもうた。そして日本国土の経営にいたっては……」 といった調子で、日本建国の起源から説きおこし、アマテラスオオミカミのご盛徳、ニニギノミコトにくだされた神勅など、神代史について長々と弁じたてた。アーネスト・サトウが、いくら日本語がたっしゃだといっても、これではまったく歯がたたない。 「そんなむずかしいことをいわれても、通訳はできません」 と、投げ出してしまった。これで彦島租借問題は、いちおうウヤムヤになったのであるが、これは高杉の手柄というよりも、イギリス側にあくまでその要求を通そうとする意思がなかったからだと見るべきであろう。  つぎは償金の問題で、イギリスは「馬関を焼かなかった代償」として三百万ドル出せといった。これにたいして長州側は、もともと攘夷は、幕府が朝廷にせまられ、五月十日を期して外国船を討ち払うべしという命令を出したからやったことで、責任は幕府にあるといった。この主張が通り、償金問題は幕府を相手に折衝がすすめられ、三か月ごとに五十万ドルずつ、六回にわけて支払うことになった。  事実、連合艦隊が横浜を出る前、イギリス公使から幕府に馬関攻撃の届けを出しているのである。これを見て、老中のなかには、手をたたいて喜んだものもあったという。あとで気がついて、外国奉行|田村肥《たむらひ》後守《ごのかみ》に命じ、攻撃中止の交渉をさせるため、「健順丸」という帆前船で艦隊のあとを追わせたが、蒸気船に追いつけるものではない。これは申しわけにすぎなかった。  また当時勝海舟は、幕府の海軍提督として神戸の海軍操練所を主宰していたが、連合艦隊の馬関攻撃の知らせをきいて、姫島までやってきた。しかし、そのときはすでに講和談判もおわって、連合艦隊の引きあげたあとだった。  イギリスのねらいは、第一に、長州を手なずけることによって、幕府とのあいだをさく、つまりイギリスのもっとも得意とする分裂政策で、この点はいちおう成功したと見るべきであろう。第二は、その責任を幕府におしつけ、財政難にあえいでいる幕府に巨額の償金を要求し、払えない場合は下関の開港にもってゆこうというのであった。この点は、幕府で償金を出すことになったため、イギリスの目的は達しられなかった。  しかし、開港にはいたらなかったけれど、長州は単独でイギリスと�馬関条約�なるものを結んでいる。これは、 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 一、外国船の馬関通行を認める 二、石炭、食糧、飲料水などを必要に応じて供給する 三、海峡が荒れたときには上陸してもよい 四、こんご、長州で新しい台場をつくらないばかりでなく、古い台場を修理したり、大砲をすえつけたりしない [#ここで字下げ終わり] といったようなもので、明らかに�屈辱�的なものである。むろん、朝廷や幕府の許しをうけていないのだから、�大権干犯�で、井伊直弼《いいなおすけ》と同罪ということになる。  もっとも、この条約には、 「日本皇国へかかり候ことにはこれなく、ただ今後外国人は長州と親友の交わりを結ぶにとどまる」 と付記されているが、それにしても、それまで�攘夷�の本家本元で、そのさきがけを誇っていた長州が、たちまち大転換をして、�夷狄�と�親友�になるところは、長州的というよりは日本的である。�大東亜戦争�前後に日本人の示したもっとも�日本的�な面が、ここでも端的にあらわれている。  この条約締結後、双方の代表が一堂に会して、盛大な祝賀会を催した。そのあと、ニワトリ、卵、野菜などを小船に満載して艦隊にとどけられた。  別に伊藤は、アーネスト・サトウを馬関の料亭に招き、ウナギ、スッポン、アワビなど、西洋人の好きそうな料理をつくらせてごちそうした。サトウの日記には、このときのことがつぎのように書かれている。 「これはこの地方で西洋風のごちそうの最初の試みであった。いや、ひょっとしたら、日本全国で最初の試みだったかもしれない」  これで長英関係は、�光風霽月《こうふうせいげつ》�ということになったのであるが、このことばほど便利なものはない。  [#小見出し]絵図係りが決裂救う  馬関戦争から四十一年後の明治三十八年(一九〇五年)、日露講和条約で、韓国における日本の宗主権が認められ、伊藤博文が初代統監として赴任するさい、関門海峡を通過する船の甲板から、彦島をながめて、高杉の神代史談義などを思い出し、感慨無量だったという。  伊藤はまた、高杉や井上とともに、長藩内の反講和派につけねらわれて、身をかくさざるをえなくなったとき、朝鮮への亡命を考えた。このままでは毛利家もほろびるほかはないというので、毛利一族のなかから誰か一人を朝鮮につれて行って、そこで大江《おおえ》(毛利家の祖)の血統を保存しようとする計画を立て、高杉と相談したものだ。  こんなことを考えると、伊藤の朝鮮にたいする関心の異常な強さは、決して偶然ではなく、彼がすすんで初代統監の大役を買って出て、ついにハルピン駅頭で朝鮮人に殺されたのを見ても、彼と朝鮮とのつながりには、�宿縁�といったようなものを感じさせる。のちに西源四郎《にしげんしろう》(ルーマニア公使)夫人となった伊藤の次女は、明治九年二月、朝鮮とのあいだに修好条約が結ばれたとき生まれたから、「朝子」と命名された。  ついでだが、末松謙澄《すえまつけんちよう》と結婚した伊藤の長女は、明治元年八月、伊藤が兵庫県令だったときに生まれたので、産土神《うぶすながみ》の生田神社にちなみ「生子《いくこ》」と名づけられた。末松は官吏、学者、政治家から文学者をも兼ねた珍しい才人で、学位も文学博士と法学博士の二つをもち、逓相、内相などを歴任して子爵を授けられた。英文で「ジンギスカン」「源氏物語」などの著書を出しているが日露戦争中はロンドンにいて「旭日」「日本の面影」などの英文著作によって日本のPRにつとめた。  もう一つ、馬関戦争の講和談判に関係したことで、世間にあまり知られていない、興味深いエピソードがある。それは高杉全権がこの談判に、いまならカメラマンをつかうところを�絵図係り�という名で、画家を動員したことだ。そのためにえらばれたのが長府藩お抱えの絵師|狩野晴皐《かのうせいこう》である、というよりは、橋本雅邦《はしもとがほう》とともに明治画壇の双璧とうたわれた巨匠狩野|芳崖《ほうがい》の父といったほうがわかりやすい。  嘉永二年十一月、乃木希典が江戸麻布の長府藩邸で生まれたとき、父の希次が、同郷の絵師狩野芳崖を招き、小型の六曲屏風に端午の絵をかかせたことは前に書いたが、芳崖は晴皐の長男である。狩野というのは画家としての姓で、本姓は諸葛孔明《しよかつこうめい》の�諸葛�といったというから、あるいは先祖はシナ人だったのかもしれない。  晴皐は、藩のお抱え絵師といっても、給与は五人扶持、つまり、玄米二升五合の日給で、いまのサラリーにすれば、一万円にもならない低収入である。つむじ曲がりで、旦那衆にとりいって注文をとるすべを心得ていなかった。多少心得ていても、はげしい時代の変革期のこととて、絵に金を投ずるような物好きなものはほとんどなく、生活は楽でなかった。それに、奇行が多く、たとえば、「今夜、ネコというネコはすべてトラになるから気をつけよ」などといって、町中ふれまわったりしたこともあるという。�天才�と紙一重といわれる異常性をもちあわせていたのであろう。  同じような素質をもった高杉が、晴皐の才能を認めたか、それとも彼の人柄にほれこんだか、講和談判の全権として英艦にのりこむとき、晴皐を起用してつれて行ったのである。当時としては、まったく独創的なアイデアで、高杉でないとできない芸当だ。  いずれにしても、このときのスケッチが一枚どこかにのこっていたならば、大きな歴史的、文化的意義をもつことになるのだが、それをここで紹介できないのは残念である。しかし、この�絵図係り�は、英艦上において、その奇才、奇行癖をいかんなく発揮し、誰もが、恐らく高杉さえも予想しなかった重大な役割を果たした。というのは、双方の主張が正面衝突して、あわや決裂というところにきたとき、晴皐はなにを思い出したか、突然、ふところから紙をとり出し、これを細くさいて、列席者一同にくばった上、自ら率先してカンゼヨリをつくりはじめた。すると、ほかのものも、ついこれにつりこまれた。外国人は手先が不器用で、うまくつくれぬものだから、おのずと懸命になり、これに注意力を集中した。  さて、いよいよ全員のカンゼヨリができあがったころ、晴皐はこれを自分の鼻にさしこんで大きなクサメを放った。全員もこれにならった。そこでどっと一座は爆笑のウズにまきこまれた。そこからなごやかな空気が発生し、談判は新しい展開を見せ、ついに意見の一致点を見出したという。  一説によると、カンゼヨリをつくったのは晴皐だけで、これをもって彼がまず自分の鼻を、ついで全員の鼻をくすぐって歩いたところ、イギリス人たちは、これを日本特有の風習か礼儀だと勘ちがいし、その真似をしたので、一同思わずふき出したのだともいわれている。あとの説のほうが、どうやらほんとうらしい。  以上晴皐にかんする話は、下関の郷土史研究家|帯谷瑛之助《おびたにえいのすけ》氏のうけ売りである。 [#改ページ] [#中見出し]謝罪恭順から革命へ   ——長州藩で回天の大バクチに成功した晋作の独創性と勇気——  [#小見出し]下関でも密貿易始まる  馬関戦争のおわったあと、アーネスト・サトウの日記には、つぎのように書かれている。 「わがほうの損害は、戦死八名、戦傷三十名であった。われわれは戦死者を埋葬するため、田ノ浦のほうに上陸した。墓を掘るとき、ピカピカと光るものが出てきたので、砂金かと思ったら、実は雲母だとわかった。  わたくしは小笠原藩(幕府方)の武士に出あったが、かれらはわれわれが長州兵をさんざんにうち破ったことをきいて、たいへん喜び、その前年、長州軍が田ノ浦(小笠原領)を占領したこと、その後世間の非難や本国防衛の必要から撤退したことを話した。それからかれらは、われわれがあなたがたと話したことを長州人があとできいたら、あなたがたが去ったあとで、再び攻めてくるかもしれぬといったから、わたくしは、そんな心配はいらない、われわれは長州の砲台を破壊し、その領地を奪ってやると答えた」  このかんたんな記述は、この戦争の性格をあますところなく物語っている。長州側の戦死者はわずか七、八名で、戦傷者はその二倍程度だった。�焦土抗戦�を唱えていたのが、これくらいの損害で降服を申し出たのだから、考えてみると、いかにたわいのないものであったかがわかる。この長州藩に、お隣の小笠原藩が、これほどびくびくしていたのを見ても、幕府の運命はこのときすでに決していたともいえよう。  幕末、九州の小笠原一族を代表していたのは、唐津藩の世子|小笠原長行《おがさわらながみち》である。彼は、若くしてその才能、手腕を認められ、若年寄から老中にすすみ、徳川慶喜《とくがわよしのぶ》をたすけて、徳川末期の難問題の多くは彼の手で処理したのであるが、そのおひざもとはこのていたらくだったのだ。子爵、海軍中将というよりも、東郷元帥の副官を長くつとめて、元帥の伝記や海軍戦史にかんする著作の多い小笠原|長生《ながなり》は長行の長男である。  さらに、サトウの書いたものによると、 「われわれは長州を破ってから、かえって長州人を敬愛するようになり、一方�大君《たいくん》�(将軍)側の人々にたいしては、あまり腰が弱くて、表裏があるために、嫌悪の情をもよおしはじめた。そしてこのとき以来、それまで�大君�政府がつねに、われわれを近づけないようにつとめていた反幕派にたいして、わたくしは次第に強い同情をもつようになった」 というわけで、馬関戦争は、幕府の予想や期待を裏切って、薩摩ばかりでなく、さらに長州までイギリスに近づけ、握手させる結果を招いた。  それでも、イギリス本国では、オールコックのとった処置はまちがっていると判定した。他国と連合して、日本の領土を攻撃し、多額の償金を要求することは、日本の民心を剌激し、イギリスがねらっている兵庫・新潟・江戸・大阪の開港に不利な結果をもたらすと見たのである。  このように、出先と本国のあいだで意思の疎通を欠いたのは、一つは通信に長くかかったからである。そのころ、日本とロンドンとの通信は、少なくとも二か月を要した。ニューヨークの場合は三か月もかかった。  当時の英外相ラッセルが一八六三年(文久三年)七月二十六日(陽暦)付けでオールコックに出した訓令によると、同年上半期の長崎貿易では総額の約二分の一、横浜では十三分の十一をイギリスで占めている事実を指摘し、 「�大君�政府の要人および外国貿易に好意をよせる大名を援助し、漸次日本の封建制度を衰微せしめ、その鎖国的排外思想を消滅せしめる方法を講ずべし」 となっていた。この訓令が到着する前に、オールコックは下関攻撃を計画して、これにのり出したのである。そしてその結果は、もっとも頑強な�攘夷�派の長州を開眼して、開国にみちびくことができたのだから、むしろ成功と見るべきだが、これも本国には認められなかったとみえて、彼は本国に呼びもどされ、シナ公使に転任させられた。  そのあとに着任したのが、有名なパークスで、それまでは上海領事だった。  薩摩が古くから琉球を通じて、シナや西欧諸国とも、さかんに密貿易をやっていたことは前にのべたが、長州が連合艦隊と講和したときいて、幕府側でもっとも恐れたのは、長州も積極的に密輸にのり出してくるということである。現に、この講和成立直後、長崎の奉行並がわざわざ汽船を仕立てて下関にやってきて、フランス提督をたずね、長州とのあいだに、下関開港の条約が成立しなかったかときき、そんなことになったら、長崎の貿易は致命的打撃をうけるだろうといっている。  結果は幕府の恐れていた通りになった。下関は公然と�開港�こそしなかったけれど、下関・上海もしくは下関・長崎・上海の密輸ルートが開けた。そのため、小銃、ピストルなどの兵器はもちろん、袂時計(懐中時計)、眼鏡、双眼鏡、洋傘、ガラス器、貝類から、西洋草履(スリッパ)にいたるまで、舶来品が下関の町にハンランするにいたった。  [#小見出し]村田清風の�赤字征伐�  連合艦隊との講和成立後、�外人応接方�に井上聞多が起用された。英国がえりで、外国の事情にも通じていたからだ。今でいうと渉外課長というところであろう。  その事務所、すなわち�応接場�にあてられたのが、下関の専念寺と永福寺の中間にあった「越荷方役所《こしにかたやくしよ》」で、これは天保十一年、萩本藩によってつくられたものである。当時、北陸地方の物資は、下関経由で大阪方面へ送られていた。これを「越荷」といったが、そのために長州藩では、下関に大きな倉庫をもうけて、その貨物を保管したり、これを担保に金を貸したり、場合によっては買いとったりしたのである。荷主にとっても、これで北陸への往復回数を多くし、資金の回転を早めることができるというので歓迎された。いわば、藩が主体となって、大規模の倉庫業、金融業、商業にのり出したわけだ。  毛利藩は、もともと百二十万石の大々名であったのが、「関ケ原の役」で敗れて、三十七万石にけずられ、防長二州におしこめられたのである。それでも、慶長十五年の検地では五十三万石の実収があったというけれど、藩財政は苦しく、赤字の部分は、�ごちそう米�といって、家臣の給与をけずり、急場をしのいできた。  元就《もとなり》から十代目の重就《しげなり》の代になって、再検地をおこない、新たに得た六万石を特別会計として藩財政から独立させ、これを資金にして、その増殖を計った。この部門を「撫育局」と名づけ、新田や塩田の開発、土木事業、貧民の救済などをおこなった。  これで毎年三千両ないし五千両の利益をえて、蓄積をしつづけてきたのであるが、その後、大水その他の災厄がつづき、天保八年敬親が十八歳で家督をついだときには、藩の負債は銀九万貫、金にして百五十万両に達していた。家老の益田元宣《ますだもとのぶ》が大阪へ金策に出かけたが、あいにく大塩平八郎《おおしおへいはちろう》の乱の直後で、�金融引き締め�のため、これに応じるものがなかった。そこで、同藩では極度の節約主義をとり、敬親がはじめて江戸から�お国入り�をしたときには、木綿の紋付きをきて、菅笠をかむり、輿《こし》をすてて馬をつかったという。この精神を藩士はもちろん、領民一般にも徹底させねばならぬというので、これまで秘密にしていた藩財政の実態を公開した。  この赤字財政をうけついで、たてなおしの大任を負わされ、これを見ごとやってのけたのが、前にものべた村田清風《むらたきよかぜ》である。そのときの赤字はざっと銀八万貫であったが、清風はこれを�八万貫�の大敵といって、その�征伐�に第一の目標をおいた。  武士の俸禄は、額面通りもらえるわけではなく、そのときの藩の財政状態によって、いろいろの名目で差し引かれるのが普通である。税率があがったり、さがったりするようなものだ。  実収があまり少なくてくらしがたたなくなると、「撫育局」から金を借りるほかはない。なんのことはない、藩が高利貸しを経営しているようなもので、この悪循環が長くつづいた結果、さいごは�九公一民�、すなわち禄高百石でも、手どりは十石しかないというところまでいったという。  こんなことでは、いくら社会政策をおこなったところで、藩ぜんたいの経済が改善されない限り、救済が救済にならない。  これについて村田清風はいっている。 「たとえば弟のものをとり、兄に与うる道理にて、親気なきなされかたにござ候」  そこで、「撫育局」では、資金の運用を藩外に求める、今のことばでいうと�外貨を獲得�しなければ、意義がないということになった。その目的でつくられたのが「越荷方」である。このころの日本では、�藩�を主体とする閉鎖経済で、藩外の交易は、大阪その他の重要な商業都市を幕府が直轄領とすることによって、なるべくおさえるとともに、その利益の独占をつづけてきたのである。幕府は国際的に�鎖国�をつづけるとともに、国内でも各藩を�鎖国�の状態においていたのだ。  これにたいし、国際的な面で、�琉球貿易�という名の密輸によって、幕府のこの政策に、まず大きな穴をあけたのが薩摩であるが、長州は、これまた下関海峡をにぎっているという地の利を最大限に利用して、この経済的鎖国の壁をつき破り、�国際�にかわる�藩際�すなわち�インター藩�の利益で、藩財政のたてなおしに成功したのである。  文久から慶応にかけて、�尊皇��攘夷��討幕�その他の名目による長藩�志士�の大活躍、朝廷への献金、高杉、井上、伊藤らの�洋行�、兵器の大量購入などにつかった金は百万両ないし百五十万両といわれている。これでみても、この「越荷方」がいかに大きな利益を長藩にもたらしたかがわかる。  薩長を主体とする明治幕府の原動力となった思想と行動の経済的な裏づけが、こういう形でなされたとすれば、「明治維新は琉球と下関から生まれた」といえないこともない。  [#小見出し]孤軍奮闘の井上聞多  井上聞多は、比較的身分の高いほうで、それに吉田松陰の門下生「松下村塾」出身ではなかったが、足軽出身の伊藤俊輔その他の松陰門下と深くまじわり、一時は伊藤以上の過激な言動を示した。後年の社会運動、労働運動においても、よく見られる現象である。  四国連合艦隊との講和問題で、藩公父子をはじめ、藩首脳部の態度がきまらなかったとき、井上は割腹して、臓腑《ぞうふ》をつかみ出し、かれらの面へ投げつけてやろうと決心し、御前会議の席をはなれて、別室へ短刀をとりに行った。ようすがおかしいので、高杉がそのあとをつけて行って、井上の手から短刀をうばいとった。そのあと、高杉がいっしょに、もう一度会議へもどるようにすすめたが、井上がうんといわないので、 「君命だけはきかねばならぬ」 と高杉はいった。これにたいして井上は、 「わけのわからぬ君命は、きいたってなんの役にもたたぬからいやだ」 と、つっぱねている。  イギリスがえりの井上の頭には、いつのまにか、こういった批判的、合理主義的精神がうえつけられていたのであろう。あるいは本来の不敵な素質が、こういう機会に露呈されたのかもしれない。そこへ行くと、伊藤のほうは、こどものころ、�ウソつき利助�(博文の幼名)と呼ばれたというが、恵まれない環境に育っただけに、要領がよくて、人の心をつかむことがうまかった。アーネスト・サトウなどから、特別にかわいがられたし、�元勲�といわれるようになってからも、明治天皇から最大の恩顧をうけた。  それはさておいて、四国連合艦隊との講和に惨敗後、長藩内では、�俗論党�が勢力をもりかえしてきた。というのは、�正義派�は、�尊皇�と�攘夷�の二本だてで、これが車の両輪のような形になっていたのだが、�攘夷�が�開港�とかわって、はりつめた精神が急にゆるみ、だれもが虚脱状態におちいってしまったからだ。  重役陣のなかで、�正義派�の尖鋭分子の支持者であった周布政之助は、数日間絶食をつづけたのち、ついに自決した。これは九月二十六日の明けがたで、その前日、山口の政事堂で御前会議が開かれたけれど、周布は前に獄則を破って入獄中の高杉を訪ねたことがたたり、これには出席できなかった。  この会議の主たる議題は、攻勢に出てきた幕府にたいして、長藩はどのような態度をとるべきかということで、純然たる�恭順派�と、�武備恭順派�の二つにわかれ、はげしい対立を見せた。前に連合艦隊にたいしても、「以信義講和」派と「以権道講和」派の両派が対立したが、同じような形で、幕府にたいする意見も分裂したのである。  純然たる�恭順�というのは、いわば無条件降服で、「刃をふところにして謝罪する法はない」という立場から、幕府がどんな条件をもち出してきても、これをのむほかはないというのだ。それも、二、三の家老に責任を負わせて切腹させるとか、減地削封くらいですめばいいが、藩主父子の切腹もしくは落飾引退の上、徳川家から相続人をさしむけるといわれたような場合には、どうすればいいのか。 「たとえそういうことになっても、毛利藩三十六万石がとりつぶしになるよりはいい」 と、はっきり口に出していわないまでも、それに似た意見をのべる重役もいた。今でいうと、会社が破産した場合に、債権者を代表する銀行から後任社長を迎えるようなもので、従業員の生活を守るということに重点をおけば、そういうことになる。そういった実例は、徳川時代にも、珍しいことではなかった。  これにたいして、猛烈に反対したのは井上である。このさい、�恭順�の意見を表するのはいいが、幕府があまりにもむごい条件をおしつけてきた場合には、それこそ、防長二州を焦土と化しても、一戦をまじえる心がまえが必要であるというのだ。井上のこの立場は、連合艦隊にたいする場合とは、ぜんぜん逆になっている。しかし、この主張を積極的に支持するものは、この会議に列した有力な藩士のなかにはほとんどいなかったから、まったく井上の孤軍奮闘の形であった。  けっきょく、幕府の出方をよく確かめた上で、藩の態度をきめることにしよう、という藩主敬親のことばをさいごに、この会議はおわった。  一同夕飯をごちそうになって解散したが、井上だけは世子定広から、翌日つづけて開かれる支藩会議について打ちあわせることがあるといわれ、あとへのこった。これをおえて、政事堂を出たのは、今の時間で午後八時ごろだった。  若党の浅吉というのに提灯をもたせて、湯田の自宅にむかう途中、橋のたもとまでくると、突然、闇のなかから五、六人の壮漢がとび出し、井上を目がけて、めったやたらに斬りつけた。(この遭難の現場は、山口市中|讃井《さない》で、今は同市の中心部に近いところであるが、その当時は田圃だった。そこには大きな記念碑がたっている)  浅吉がとんでかえって、急を知らせたので、聞多の兄の五郎三郎がさっそく現場へかけつけたところ、聞多の姿が消えてしまっていた。死体も見あたらなかった。  [#小見出し]井上を救った鏡  だが、襲撃の現場にのこっている血のあとをつたっていくと、近くの農家までつづいていた。聞多は死んだものと思って、加害者たちが去ったあと、井上はそこまでたどりついたものの、うつぶせに倒れたまま気を失っていた。傷は後頭部、胸、腹、背など、ほとんど全身にうけていたが、いずれも急所をそれていたせいか、まだ息はきれていなかった。  さっそく近所の医者が二人招かれたが、手のつけようがなかった。聞多は苦痛に耐えかねてか、兄に介錯《かいしやく》してくれと手まねでたのんだ。兄は刀をぬいたが、母にとめられた。  そこへ急使をうけてやってきたのが所郁太郎《ところいくたろう》である。所は美濃の出身で、村田蔵六《むらたぞうろく》(大村益次郎)などとともに、大阪の緒方洪庵《おがたこうあん》の塾に学び、開業したところが京都の長州藩邸のすぐそばで、患者に長州人が多かったため、いつのまにか勤皇派の仲間入りをして、三条実美ら七卿の都おちに随行、長藩にかかえられ、馬関戦争のときには、「遊撃隊」の軍医兼参謀として参加した。代々木《よよぎ》の開業医が共産党に入党したようなものだ。  聞多の傷口を一つ一つ調べた結果、いずれも急所をそれてはいるが、出血多量で、治療中に絶命するかもしれぬ。それでも、二人の医師を手伝わせ、傷口をショウチュウでよく洗った上、小さな畳針で六か所四十余針をぬった。のちの従一位侯爵井上馨というよりも、三井財閥の育ての親として知られた人物が、こうして奇跡的に命びろいをしたのだ。  これから約三か月後に、高杉がクーデターをおこして、�俗論党�の手にあった毛利藩の政権を一時奪取したが、この計画には所郁太郎も参画している。  ところで、聞多の胸の傷が命とりにならなかったのは、彼のふところに鏡がはいっていたからで、この鏡をだれからもらったかということが、この暗殺未遂事件とともに、『井上伯伝』の最大のサワリとなっている。  このことは前にもふれたが、後年、井上自身が語ったところによると、彼がイギリスへの留学を志して故郷を立つとき、母からかたみにもらったものだということになっている。しかし、ムスコの旅立ちに鏡をおくる母親はあるまい。実は井上が京都の祇園で、前からなじんでいた愛妓|君尾《きみお》とわかれの一夜をあかしたとき、彼女からはなむけされたものだというのが、事実のようである。  君尾は、木戸孝允夫人におさまった幾松《いくまつ》とちがって、ずっとあとまで芸者づとめをしていて、「生きている明治維新史」といわれたほど、当時、重要な役割を果たした人物や事件に関係の深かった女性である。彼女は文久元年、十六歳で祇園の島村屋という置き屋から芸者になって出たものだが、高杉や井上などの長州藩士がひいきにしたのは、縄手《なわて》の「魚品」という貸し座敷だった。そのころ伊藤俊輔などはまだ末輩で、よく玄関で待たされていたものだという。  問題の鏡は、そのころ流行していた縫いとりの袋にはいっていて、この袋の布《きれ》だけでも、一寸いくらというくらい高価なものだった。これと井上がもっていた刀の小ヅカと交換したのだともいわれている。  こんなふうに君尾は、井上に身も心もささげていたのだが、たいへんなことがおこった。というのは、島田左近《しまださこん》といって、九条家の諸大夫で、大老井伊直弼の腹心|長野主膳《ながのしゆぜん》と結び、幕威の回復を図っていたのが、君尾を見染めたのである。島田は文久二年七月、京都木屋町の別宅で勤皇派におそわれ、京都における�天誅�の犠牲者第一号となったことは前にのべたが、当時はとぶ鳥もおとす勢いで、金まわりがよく、おまけに美男子で、学才もあった。その島田がどんなに彼女をくどいても、うけつけなかったほど、井上との関係は深かったのである。  これをきいて喜んだのは、井上と同じ長州藩出身で、勤皇派の同志でもあった寺島忠三郎《てらじまちゆうざぶろう》である。寺島はこの三角関係を利用して、幕府側の動静をさぐることを考え、君尾に因果をふくめたところ、彼女もこれに応じたといわれている。  その後、「蛤御門の変」がおこり、これに敗れた長州藩士のなかには、なじみの女の家にかくまわれたものも多かったが、君尾のところに身をよせたのは品川弥二郎で、これが二人を結びつけるチャンスとなった。   宮さん宮さん、お馬の前にヒラヒラするのはなんじゃいな という有名な歌は、品川の作だが、節は君尾のつけたものだという。  彼女はまた新選組の近藤勇《こんどういさみ》とも関係があったらしい。この種の女性特有の�英雄�好みから、スタミナの高い男性に心をよせたのであろう。  明治四十年十一月一日号の『日本及日本人』につぎのような記事が出ている。 「君尾曰く、古《いにしえ》の書生、酒間に談ずるところのものはみな天下国家のことならざるはなく、今の角帽の徒、風貌はなはだ瀟洒《しようしや》なれども、その口にするところをきけば、曰く某嬢の品定め、曰く婿養子、比々みな然らざるなし」  それなら現代の学生はどうか。  [#小見出し]藩をあげて�謝罪恭順�へ  井上聞多は、洋行する前、下関の花柳界でもよく遊んだ。高杉でも伊藤でもそうだが、絶えず生命の危険にさらされながら、�国事に奔走�する一方、�蕩児�としての半面をもっていた。これら二つの面は、同一人格のなかで、少しも矛盾することなく、一つにとけこんでいた。どっちも強い刺激とスリルをもたらす点で、かれらの生活に欠くべからざるものとなっていたのである。強い酒にヒロポンを入れてのむようなものだ。  下関の芸者力松を身うけしたり、「宮屋」の重太夫《しげだゆう》という娼妓を山県とはりあったりした井上は、さらに妙な趣味を発揮している。というのは、下関でも三流の「竹兵」というお茶屋に、お照といって数え年でやっと十二歳の舞い子がいて、井上はこの少女をかわいがり、通いつめたというのである。  その程度ならまだいいのだが、長崎へ出張を命じられたとき、井上は彼女に男装させ、小姓のように見せかけて、つれて行った。人に何者かときかれたとき、 「将来見こみのある少年なので、拙者があずかって養っているのだ」 と答えた。しかし、やがて彼女が成長して一人前の�女�になると、井上は興味を失い、相当の手切れ金を出してわかれた。のちに彼女は、博多の柳町でお茶屋を経営し、腕ききの女将として知られるようになったという。  明治財界の�雷親爺�として恐れられた井上馨に、谷崎潤一郎の代表作の一つ『痴人の愛』に示されているような、ナオミズム的傾向があったというのは、ちょっと想像のできないことである。  話はもとへもどって、井上は瀕死の重傷をうけたあと、親戚へあずけられた。  そのころ、毛利藩は、完全に�俗論党�の天下となり、幕府にたいしては、高杉、井上らの�武備恭順�派が影をひそめ、藩をあげて�謝罪恭順�にかたむいていた。 �俗論党�にとって、高杉らの存在は、時限爆弾のようなものであった。といって、かれらは藩を窮地におとしいれた「蛤御門の変」とは関係なく、むしろこれをおさえようとしたほうだから、処刑する理由がなくて、とりあえず、�正義派�の重役同様�自宅謹慎�ということになっていた。しかし、�俗論党�では、�正義派�をいっせいに粛清するチャンスをねらっていることは明らかだった。  井上がおそわれてから一週間後の夜なかの二時ごろ、高杉はひそかに萩の家を脱出、百姓姿になって、夜道を急いだ。途中、湯田の井上を見まったところ、井上はすでに話ができるようになっていた。  山口から下関に向かうときにも、高杉は変装しているが、その姿を自分でつぎのように書いている。 「手拭いをもってほほかむりをなし、刀の柄の先へ香油壜《こうゆびん》をぶらさげて、あたかも田舎の神主が山口へ買物に出かけたような姿で、ぶらりぶらりと三田尻のほうへ——」  それから「奇兵隊」の陣地について、山県狂介に会い、船を出してもらって下関の豪商|白石正一郎《しらいししよういちろう》邸に身をよせた。   灯火《ともしび》の影細く見る今宵かな という有名な句は、山県たちとわかれるときに、行灯《あんどん》に書きのこしていったものだ。こういった彼の行動や心境に、いささか自己陶酔に似たヒロイズム、革命的ロマンチシズムといったようなものがよくあらわれている。  高杉の目的は、これから九州にわたり、諸大名を説きつけて、長藩の�正義派�への応援を求めることである。偶然にも、その晩、久留米の淵上郁太郎《ふちがみいくたろう》、筑前の中村円太《なかむらえんた》など、九州の勤皇派として知られた連中が、白石邸を訪ねてきたので、夜っぴて痛飲し、こんごの計画について語った。  白石邸は、裏門を出て石段をおりると、そこはすぐ小瀬戸の急流に洗われていて、地下運動するものの出入りには都合がよかった。  十一月一日のたそがれどき、高杉は白石の実弟|大庭伝七《おおばでんしち》の用意してくれた船で、中村円太とともに福岡に向かった。この日、高杉は�谷梅之助《たにうめのすけ》�という変名を思いつき、この九州旅行では、もっぱらこれをつかった。  福岡につくと、月形洗蔵《つきがたせんぞう》、早川勇《はやかわいさみ》、鷹取養巴《たかとりようは》などの志士とひそかに会合、例によって大いに飲んだが、その席上、早川の顔をつくづくながめながら、高杉はいった。 「どうせぼくらはみんな長生きできそうもないものばかりだ。ただし、早川君にはどこか福相なところがある。ぼくらが死んだあとで、こどものことを託すとすれば、まず早川君だろう。よろしくたのむよ」  このあと、高杉は結核で倒れ、他はすべて処刑された。早川もつかまったが、危ないところをゆるされて、明治政府に仕え、奈良府判事となり、元老院にはいり、明治三十二年六十七歳でなくなった。  [#小見出し]望東尼、高杉をはげます  九州方面で、古くから長州藩との関係が深いのは対馬藩である。京都でも、桂小五郎をはじめ、長州系の志士たちが幕府の捕吏に追われたような場合には、対馬の藩邸に逃げこんでかくまわれたという例が多い。高杉や伊藤が�俗論党�との抗争に敗れて、外国へ亡命しようとするときには、すぐ「対馬経由で朝鮮へ」という考えが浮かんできたようである。  このような朝鮮を媒体とする長州と対馬とのつながりは、歴史的、民族的なものであるばかりでなく、貿易とも関係があるとわたくしは見ている。徳川時代の対朝鮮貿易は、対馬藩の独占となっていたが、これには相当密輸がともなっていたことは公然の秘密であった。対馬はひそかに琉球、シナを通じて、東南アジアや西欧諸国とも、三角貿易、四角貿易をおこなっていたのである。長州もその片棒をかついでいたとみるべきであろう。明治維新は、幕府の貿易独占にたいする薩長の抵抗、すなわち密貿易から生まれたようなものだと前にいったが、小藩ながら対馬藩も、このグループに加える必要がある。  当時、肥前の田代《たじろ》は対馬領になっていて、そこの家老の平田大江《ひらたおおえ》というのは、話せる人物だときいていたので、高杉はさっそく訪ねていったけれど、藩内にゴタゴタがあって、目的を達しなかった。  つぎに、肥前佐賀藩主|鍋島閑叟《なべしまかんそう》に、幕府の悪政を諷した詩を送って呼びかけたが、これまた応じそうもなかった。閑叟は、幕末の�明君�の一人で、藩政に大改革を加え、藩士の子弟で七歳以上のものは小学に、十六歳以上のものは大学に入れることにし、応じないものは禄高の八割をけずるという思いきった文化政策をおこない、�義務教育�のさきがけをした人物であるが、十一代将軍|家斉《いえなり》の娘|盛姫《もりひめ》を夫人に迎えている関係もあって、�公武一和�のワクから出ることがなかった。  高杉が博多を足場にしてあれこれと工作しているあいだ、石蔵屋卯平《いしくらやうへい》という対馬の商人の家に厄介になっていた。表面は対馬での知りあいということになっていたけれど、怪しいと見て、彼の出入りを見はっているものがいるらしいので、高杉のほうでも、天びん棒をかついで行商人にバケたり、こどもを借りてきてこれを背負って歩いたり、ずいぶん苦心したものだ。  だが、政治的な工作は、高杉のあまり得意とするところではなく、福岡藩主を味方にひきいれたり、その藩の大勢を動かしたりすることは、ついに成功しなかった。しかし、彼をその山荘に迎えて、心からもてなし、勇気づけてくれたのは、幕末勤皇女性の代表のようにいわれている野村望東尼《のむらもとに》である。  望東尼は、福岡藩士野村|貞貫《さだつら》の妻で、末亡人となってから�望東尼�と名のったのであるが、�望東�は本名のモトに、万葉がなをあてたものだ。貞貫は、五十一歳で家督を長男にゆずり、福岡城南平尾村にささやかな別荘をつくって、夫婦で歌人|大隈言道《おおくまことみち》に入門、風流三昧の生活を送っていた。  言道は、 「われは市井の商人なれば、商人の歌をよまん、商人にして衣冠束帯せる公卿の歌をよむは本意にあらず」 といった人で、いわば�生活派歌人�の先駆者だ。  ところが、安政以後、時勢が急変し、勤皇僧|月照《げつしよう》が幕吏に追われて筑前に逃げこみ、これを世話したのが、薩摩から亡命してきた島津斉彬《しまづなりあきら》擁立派であったりして、山荘にすむこの未亡人をも、こういった時代のアラシのなかにまきこんでしまったのである。一つには、貞貫が隠居する前、藩の足軽頭をつとめていて、足軽出身で福岡藩勤皇派を代表する人物となった平野国臣《ひらのくにおみ》などが、早くから野村家に出入りしたからでもあろう。かくて彼女は、勤皇派の有力なシンパとなり、その山荘は、地下活動をつづける志士たちの密会所、かくれ家、アジトとして利用されたのである。  それとともに、彼女のよむ歌にも、政治性が強く出てきた。   くれないの大和錦もいろいろの        糸まじえてぞ彩《あや》は織りける という彼女の歌は、勤皇派志士たちの団結をうながしたものとして知られている。高杉が西郷隆盛《さいごうたかもり》とおちあったのもこの山荘で、これが薩長連合のいとぐちとなった。そのさい、この歌がよまれたのだともいわれているが、当時西郷は芸州にいて、筑前にはきていないから、これは事実無根である。  翌慶応元年六月、福岡藩でも政変があって、勤皇派がほとんど失脚したため、望東尼も、月形洗蔵などとともに捕えられた。そして月形らは切腹を命じられ、彼女は姫島に流された。この姫島は、前に書いた瀬戸内海にあるのとは別の島で、現在福岡県糸島郡に属する玄海の孤島である。  日本でも九州は、伝統的に皇室中心的もしくは右翼的傾向が強く、とくに福岡からは、「玄洋社」の平岡浩太郎《ひらおかこうたろう》、頭山満《とうやまみつる》、「黒竜会」の内田良平《うちだりようへい》(平岡の甥)、「東方会」の中野正剛《なかのせいごう》など、右翼陣営の大物はたいていこの地方から出ているが、かれらは望東尼とどこかでつながっていることはいうまでもない。  平尾山荘は、現在、福岡市の高級住宅街のなかに、簡素な茶室のような形でのこっている。  [#小見出し]逃避行で悟った藩長連合  長州出身の人物評論家で、大正時代に活躍した横山健堂《よこやまけんどう》は、高杉の九州亡命について、 「たとえば、撃剣において、敵のうちこんでくる刀にたいし、体をかわすようなものである。一時、敵の鋭鋒《えいほう》をさけて、すぐとってかえし、敵のふところに切りこむ覚悟であった」 と、語っている。高杉自身も、福岡にわたる船のなかでよんだ詩のなかで、 「蠖《かく》(しゃくとりむし)の屈し、竜の伸ぶるは、丈夫の志、奴とつくり、僕となる、またなにを辞せんや」 と、うたっている。大目的を遂行するためには、どんないやしい姿に身をやつすことも平気だということだ。  しかし、高杉のこの亡命を、その後に彼が敢行したクーデターにそなえて、一時難をさけただけだと見るのはまちがいである。尊皇・討幕という�回天の大事業�は長州単独でできるものでない、ということを彼はこの逃避行で悟った。これはなによりも大きな収穫であった。共産党のインターナショナルに似た�インター藩�の思想が芽ばえたのである。経済的な面では、�藩際貿易�という形で、長州藩ではすでに実行してきたのであるが、これを政治的、軍事的な面におしひろげるイニシアチブをとったのは、薩摩の西郷隆盛で、その仲介をしたのは、主として土佐の坂本龍馬《さかもとりようま》、中岡慎太郎ということになっているが、こういったムードをつくる上に、福岡藩の演じた役割を無視することはできない。  ただし、明治維新の直前、福岡藩では、勤皇派の大量粛清をおこなったため、藩としては人材不足におちいり、なんら積極的な態度をとることができないで、維新のバスにのりおくれてしまった。そのため、明治の官界・政界において、福岡県出身者の多くは、いつも反主流派的立場をとらざるをえなかった。それが�万年右翼�という形であらわれたのだ。  その点は水戸藩の場合とよく似ている。しかし、�同じ右翼�でも、�福岡右翼�は�水戸右翼�に比して、スケールが大きく、�汎アジア�的傾向が強い。これにはいろいろ原因もあるが、地理的に、シナ大陸や朝鮮半島に近いということが大きく作用していることは争えない。  こういった見地から、望東尼の演じた役割、その歴史的意義について、再検討、再評価さるべきではなかろうか。  望東尼の流刑生活は、慶応元年の冬から翌二年の秋におよんだ。彼女の救い出しを計画したのは、福岡藩から長州へ亡命していた藤四郎《ふじしろう》である。  藤は名うての�勤皇左派�で、自分も前に二度まで流刑に処せられたことがある。文久三年八月の「生野の変」に参加したが、これが失敗し、�七卿�の一人でこの反乱の盟主にかつがれた沢宣嘉《さわのぶよし》を背負って長州にのがれ、「奇兵隊」に属していた。彼が望東尼救い出しについて、高杉に相談すると、高杉は大賛成で、船を出してくれることになった。  そこで、さっそく、長州人一名、筑前人二名、対馬人三名によって「望東尼救出団」が編成された。これは小型ながら一種の�国際軍�いや、�藩際軍�である。高杉のつくった「奇兵隊」についても、そのなかには、他藩からの亡命者を多数ふくんでいたのだから、形の上からいうと、フランスがモロッコでつくった�外人部隊�のようなものだった。  かくて、救い出された望東尼は、長州につれてこられたが、からだはすっかり衰弱していた。毛利藩主は特別の医者や看護人をつけて、体力の回復をはかった。  翌慶応三年十一月六日、望東尼は、薩長の討幕連合軍出動の評議がまとまったことをきいて大いに喜び、その出陣を見送ろうと、三田尻まで出てきて、そこでなくなった。ときに六十一歳であった。  話はもとへもどって、高杉は望東尼の山荘にのんびりと滞在していたわけではなかった。絶えず長州との連絡をとって、長藩の情勢を見守っていたところ、月形洗蔵のほうから、つぎのような情報がはいった。  一、長藩では、益田右衛《ますだうえ》門介《もんのすけ》、福原越後《ふくはらえちご》、国司信濃《くにししなの》の三家老の首を幕府に献じて、�謝罪降伏�をした。  一、入牢中の宍戸左馬之介《ししどさまのすけ》、竹内庄兵衛《たけうちしようべえ》、中村九郎、佐久間佐兵衛の四参謀は打ち首になった。  一、毛利登人、前田孫右衛門、山田右衛門、渡辺内蔵太、|楢崎弥八郎《ならざきやはちろう》などの前政府員はすべて獄に下された。  その上で幕府は、つぎの三条件を長藩におしつけてきた。  第一、五卿(�長州落ち�した�七卿�のうち、二人はすでに死亡)を九州の五藩に引きわたすこと。  第二、山口城を破棄すること。  第三、毛利藩父子は寺院に蟄居《ちつきよ》した上、自判の謝罪状を差出すこと。  これでは、無条件降伏どころか、ほとんど亡国に近い。高杉は大急ぎで長州にかえり、彼の生涯の最大のヤマバともいうべきクーデターの計画をたてた。  [#小見出し]�回天�の大バクチをうつ �革命�と�クーデター�は、同じようなものに考えられているが、どこがちがうかというと、異なった階級のあいだで、支配権の争奪がおこなわれた場合は�革命�で、同じ階級内でそれがなされた場合は�クーデター�ということになる。また�上からの変革�が�クーデター�で、�下からの変革�は�反乱�もしくは�武装蜂起�であって、それが成功した場合を�革命�という見方もある。  日本では、�革命�の成功した場合は少ないが、クーデターというものを単純に考えて、非合法的、武力的手段による奇襲というふうに解釈すると、その実例は少なくない。 �お家騒動�などと呼ばれているものもその一種である。  そのなかでも、元治元年十二月、高杉がわずかな兵力をもって蹶起し、いっきょに�俗論党�の政権を倒した。�回天の義挙�は、クーデターの見本みたいなものであった。高杉はクーデターの天才で、その生涯は、見方によっては、クーデターの連続だったともいえるが、その天才がみごとに発揮されたのはこのときである。  この挙兵の直接の動機となったものは、長藩に保護されている�五卿�を九州の五藩に引きわたせという幕府の強請である。これら�五卿�を守っていたのは、高杉のつくった�奇兵隊�その他の諸隊であるが、こんどは幕府はこれら諸隊の解散を要求してきた。  こうなっては、もう絶体絶命で、�死中活�を求めるよりない。しかし、だれに相談しても、かれらの計画は無謀であり、暴挙であって、勝算はないといわれた。高杉にかわって�奇兵隊�をひきいていた山県狂介も、はじめはのり気でなかった。  もともとクーデターというものは、一種の投機であり、バクチである。その成否は、客観的条件や公算よりは、これをひっぱってゆく個性の強さ、独創性、猪突的《ちよとつてき》勇気にかかっている場合が多い。これには、高杉はうってつけである。  ある夜、諸隊長が集会しているところへ、乱酔してのりこんだ高杉は、   ままよ一升徳利横ちょにさげて      破れかぶれのほほかむり と、歌いながら、ためらうかれらをののしった。しかし、高杉と行動を共にしようというものはなかった。  かれらに見きりをつけた高杉は、下関に行って伊藤俊輔に会って、この計画をうちあけた。当時、伊藤は�力士隊�の隊長で、六十人ばかりの力士をひきいていたが、そのなかには江戸相撲で鳴らした「山分《やまわけ》」とか「菊ケ浜」などというものもいた。これが高杉の計画に参加することになった。ついで、石川小五郎《いしかわこごろう》を隊長とし、前に井上聞多の傷を治療した所郁太郎を参謀とする�遊撃隊�に談じこんだところ、これも賛成してくれた。といっても、この隊員は二十四人で、力士隊を合わせても八十四人にすぎない。  現在、世界でクーデターのもっともひんぱんにおこなわれているのは、中米と中近東で、クーデターは、これらの地方の�政治的風土病�といっていいくらいである。こういった地域の国々は、�独立国�ということになってはいるが、独立性は弱く、国家としてのスケールは、徳川時代の日本の�藩�と大してちがいはない。とくに中米のグアテマラ、ホンジュラス、サルバドル、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、それから中近東のシリア、イラク、ヨルダンなどは、日本の�藩�でいうと、五万石からせいぜい二十万石程度のものである。  先年、わたくしがグアテマラを訪問したときにおこった�バナナ革命�と呼ばれているクーデターでは、三千人ばかり動員されたというが、のちにカストロのため国外へ追放されたキューバのバチスタは、たった十六人の手兵をもって、一夜にして政権を奪取した。  これらに比べると、三十六万石の長藩は大国ではあるが、百人足らずでも、指導さえしっかりしておれば、クーデターが成功しないでもない。 「ヒツジの群れも、トラが指揮すると強くなり、トラの群れも、ヒツジが指揮すると弱くなる」 というのは、ナポレオンのことばだが、クーデターの場合は、とくに指揮者の能力に依存する点が多い。  いよいよクーデター決行ときまると、高杉は幹部連とともに、�五卿�の宿舎になっていた長府の功山寺にかけつけた。十二月十五日の夜で、雪がはげしく降っていた。元禄十五年、赤穂浪士が吉良家に討ち入りしてから百六十二年目である。  そのときの高杉の扮装《いでたち》は、紺糸おどしの小具足をつけ、桃型のカブトをかぶっていたというから、芝居がかっている点では、にわかづくりの家老に仕立てられ、連合艦隊へ講和談判に出かけた場合と同じである。人間と扮装と仕事が切りはなせない一例といえよう。  [#小見出し]遺書に蕩児の面目  時刻は、夜中の十二時ごろであったが、功山寺の山門をたたくと、従者の土方楠左衛門《ひじかたくすざえもん》(のちに久元、伯爵)が起きてきて高杉を五卿の室に案内した。  そこで、ありあわせの冷酒と重箱の煮豆をもって、別れの杯がかわされた。外へ出ると、雪がやんで、十五夜の月が出ていた。  高杉は、�奇兵隊�からもらってきた馬にまたがり、�力士隊�や�遊撃隊�につづけと命令、それから日本史上まれに見る驚天動地の大活躍がはじまるのである。  たった十八人で、三田尻の「海軍局」へのりこみ、藩船「癸亥丸《きがいまる》」「庚申丸《こうしんまる》」「丙辰丸《へいしんまる》」の三隻を素手でうばいとるという放れわざをやってのけた。  当時、�奇兵隊�をひきいていた山県狂介は、はじめこの挙兵に反対であったが、のちにはこれに参加して、高杉を助けた。   わしとお前は焼山かずら      うらは切れても根は切れぬ という歌は、高杉から山県へおくった手紙のなかに書きこんだものであるが、このときの二人の微妙な関係や気持がよく出ている。  けっきょく、このクーデターは、翌慶応元年までつづいて、そのあいだに高杉は藩の大勢をくつがえし、�君側の奸�をのぞくことに成功した。  椋木藤太《むくきとうた》その他�俗論党�幹部は、すばやく石州路に脱出したのであるが、津和野でつかまった。というのは、その前から、長州藩から脱走するものが多いので、脱走者は片っぱしからつかまえてくれとたのんでおいたのが、自縄自縛となったのだ。かれらは長州藩に護送されてきて、新政府の手で処刑されたことはいうまでもない。このようにクーデターには、いつでも粛清と逆粛清がつきものである。その点で、クーデターはもっとも生命を粗末にする危険なギャンブルだといえよう。  高杉は、蹶起の直前、下関の豪商白石正一郎の実弟大庭伝七あてに、遺書とも見られる手紙をおくっているが、これには、  一、筑前へいっしょに行った野々村から金五両借りてまだ返していない  一、陣中の楽しみに、大庭家で珍蔵している頼山陽《らいさんよう》の書をぬすみ出してきた  一、自分は死んでも、天満宮と同じように、赤間関(下関)の鎮守となるつもりである  一、死後は墓前に芸妓をあつめ、三味線などをひいてお祭り願いたい  そして墓の表には   故奇兵隊|開闢《かいびやく》総督 高杉晋作、則西海一狂生東行墓、遊撃将軍谷梅之助也  また裏には   毛利家恩顧臣高杉某嫡子也     月 日  そして、おしまいは   死して忠義の鬼となる。愉快々々 ということばでおわっている。これほど死をもてあそび、遊戯化した人物は珍しいといえよう。死後は�赤間関の鎮守�になるとか、�忠義の鬼�になるとか、いいながら、墓前に芸者をあつめてドンチャンさわぎをやってくれ、などという蕩児的な面を大胆に示しているところに興味がある。�忠誠心�がこういう逆説的な行動や表現と同居しているところに、高杉の面目躍如たるものがある。維新の�志士�のなかで、高杉に大衆的人気があつまっている理由はここにある。大衆というものは、逆説を愛するというよりも、逆説的な行動、すなわちある程度の矛盾を身につけた人物が好きなのである。そこに救いを求めているのだ。  もう一つ、見のがすことのできない点は、ふだん�尊皇�が口ぐせのようになっていた高杉においても、�毛利家恩顧臣�として死のうとしていることで、その遺書というべきものに、皇室への関心がまったく示されていないことである。まさか�攘夷�をすてて�開国�に転じたため、�尊皇�をやめて�討幕一辺倒�になったわけでもあるまい。  これでわかることは、この時代の�勤皇の志士�たちにおいては、まだまだ藩主への�忠誠心�が、皇室への�忠誠心�よりも、深く根をおろしていたということである。それとともに、�赤間関の鎮守�となりたいといっているのは、彼の関心の範囲が地域的に限定されていることを示すものだ。全日本はおろか、防長二州よりも�赤間関�を守ろうとする意識が強く出ている。ということは、彼の頭のなかに国家意識、民族主義というものが、やっと芽をふき出したばかりで、まだ発育していなかったということだ。  もっともナショナリズムやインターナショナリズムが、人間の大きな危険に直面した瞬間には、もっと小さな対象が強烈な圧力をもってせまってくる例は少なくない。戦場で兵士が息を引きとろうとするとき、 「お母さん!」 と叫ぶものが多いというのは、その一例である。こういう場合にのぞむと、国家、民族、家庭よりも、母のほうが強い、いや、�母�がこれらを代表することになるのであろう。 [#改ページ] [#中見出し]志士のパトロンたち   ——強引だった�憂国の志士�たちの旅費・機密費等の調達——  [#小見出し]大きいクーデターの意義  社会に爆発的な変革のおこる場合、そのなかで各人の演ずる役割は、人によってずいぶんちがっている。ふだんもそうだが、大きな変革期には、そのちがいが、とくに大きい。  これを弾丸にたとえていうと、火薬に相当する部分、薬莢に相当する部分、弾頭に相当する部分など、いろいろとわかれているが、弾丸のなかでもっとも重要な部分は、いうまでもなく信管である。これはきわめて敏感で、高度の性能をそなえたものでなければならない。不完全だと弾丸そのものが不発におわるし、とりあつかいを誤ると、暴発の危険もある。  社会的な変革においても、この信管にあたる人物が必ず出てくるものだ。それがいなくては成功しないとともに、それで失敗する場合も少なくない。高杉はそういった信管的人物の典型である。  このときのクーデターは、ほとんど高杉個人の思いつきと指導によってなされたもので、これがなかったならば、維新の変革に相当大きな狂いを生じたであろう。長藩は幕府の攻勢におしきられ、藩主父子は自決させられないまでも、完全に発言権を喪失し、のちに維新の�元勲�となった�正義派�の大部分は粛清されて、水戸藩や筑前藩などと同じ運命をたどったかもしれない。その点で、このクーデターの意義は大きく、その主役を演じた高杉の役割は、吉田松陰に勝るとも劣るものではない。  だからといって、こういった変革が、�憂国の志士�たちの�憂国の志士�のみによって、清純な手段でなされたと見るのはまちがいである。かれらが藩命をおびて、ときには亡命の形で、�国事に奔走�するのに要した旅費、交際費、他藩の�同志�を手なずけたりする機密費、これに遊興費を加えると、相当な額に達したにちがいない。今のことばでいうと、�社用族�、いや、�藩用族�的な面を多分にもっていたことは明らかである。この資金は藩からも支出されたであろうが、各自がパトロンをもち、その援助をうけていたことも見のがせない。またその援助をうけるにしても、相当強引な、ときにはゆすりもしくは詐欺に近い手段をもってしたこともあったらしい。  現に、井上聞多がテロに見まわれて重傷を負ってから、その後任として「撫育局」通訳に任命された伊藤俊輔は、馬関に駐在したが、そこでのちに公爵夫人となった梅子と同居した。梅子は馬関の置き屋「いろは」の養女となっていた芸者で、伊藤と深い仲となったのであるが、この土地の慣習では、芸者が客に身をまかせたことがわかると、その客に落籍されるか、それとも他にうつって営業するほかはなく、ついに結婚するにいたったのだという。  そのころ、伊藤は藩用でときどき長崎へ出張したが、長崎で洋反物を仕入れてやるといって、「藤屋」という呉服屋から二百両借り出し、これを元手にして、梅子夫人に小間物屋をやらせた。  これは余談だが、梅子夫人の実兄に�木田亀《きだかめ》さん�と呼ばれているのがいた。仏さまにそなえる花を売り歩いてくらしをたてていたが、伊藤が明治政府で重きをなすにいたり、この�亀さん�が島根県の警察署長に任命された。彼は喜び勇んで赴任したが、ひと月もたたぬうちに、また馬関へまいもどってきた。そのわけをきくと、�亀さん�は頭をかきながら答えた。 「官員は性にあわぬ、花売りをしていたほうが柄にあっているので、役所のほうは、自分で自分をクビにしてきたのだ」  これは島田昇平《しまだしようへい》の『長州物語』に出ている話だが、明治の日本では、こういうことができたのだ。  しかし、長藩の�志士�たちのなかで、�機密費�をもっとも多くつかったのは、なんといっても高杉である。彼は�回天の義挙�を決行するにあたり、まず各地の会所、代官所などを急襲して、そこにあった現金や食糧を強奪しているが、それだけでは足りなくて、前から彼を支持していた豪商、豪農に訴えて、まとまった資金を手に入れている。下閏の白石正一郎をはじめ、小郡《おごおり》の林勇蔵《はやしゆうぞう》、宮市の岡本三《おかもとさん》右衛門《えもん》、生雲《いくも》の大谷長七《おおたにちようしち》、山口の吉富藤兵衛《よしとみとうべえ》など、高杉のシンパサイザーとして知られているものが幾人もいた。  元治元年の暮れ、長藩では政情不穏のため、モラトリアムがしかれ、商取り引きが中絶の状態にあったので、吉富が午睡《ひるね》をしているところへ、美弥軍太郎《みやぐんたろう》というのが訪ねてきた。高杉の密書を着物の襟のなかにぬいこみ、馬関から関所をさけて山路つたいにきたもので、吉富はこの密使に、手もとにあった金二百両をそっくりわたしている。  高杉ばかりでなく、この時代の�志士�にはたいていパトロン、もしくはスポンサーがついていた。「妻は病床に臥し、児は飢えに泣く」の詩で知られた梅田雲浜《うめだうんぴん》にしても、備中|連島《つれじま》の回船問屋で大地主の三宅高幸《みやけたかゆき》と�兄弟の契約�を結んでいた。  [#小見出し]志士の背後に豪商あり �勤皇派�の学者や�志士�たちのなかには、所属の藩の外に出て遊説したり、亡命したりするものが多かった。またかれらの同志、門下生、ファンなどの組織も、全国的な規模でつくられていった。  一方、国内の商品流通も、安政の開国にともなって活溌になり、閉鎖的な藩の外にハミ出してきた。�インター藩�の交易がさかんになっていくのをおさえることができなくなった。  これら二つの流れが、あちこちで重なりあった。そこから期せずして、勤皇の面ばかりでなく、商品流通の上でも、ブローカー的役割を果たす�志士�が出現するにいたった。その代表ともいうべきものが梅田雲浜である。  雲浜のこういった面の動きは、きわめて積極的であった。安政三年十一月、わざわざ萩を訪れて、長藩同志の奮起をうながしているが、その一方、長州の物資を上方へ送って交易することをすすめている。さらに、翌四年九月、雲浜はデシの行方仙三郎《なめかたせんざぶろう》を馬関の白石家へ派遣しているが、そのさい行方は、 「時に梅田は昔日の貧儒にあらず、大和と長州の物産交易をし、経済の途を開き、大いになすところあらんと欲し、門戸をはって天下の有志を待てり」 と書いている。  雲浜が幕吏に検挙されたのは、安政五年の九月だが、同年一月には、大和の木材を大阪に送って販売する計画を立て、毛利藩主を動かし、大阪町奉行の了解をえようとして、大和高田の豪商|村島長兵衛《むらしまちようべえ》を長州へ送りこんでいる。 「けだし、名を交易にかり、その実、互いに往来して、国事を密議せんためなり」 ということになっているのだが、これが成功すれば、かれらの運動費も出るわけで、一石二鳥をねらったものと見るべきであろう。現に雲浜が長州へ出かけるときには、三宅高幸から旅費として三十両もらっている。  また大和五条の儒者|森田節斎《もりたせつさい》というと、吉田松陰も師事した人で、母に遺伝梅毒の恐ろしさを教えられ、四十歳すぎまで女性を近づけなかったというので知られているが、彼も五条の木綿問屋|下辻又七《しもつじまたしち》の取り引きに関係している。  馬関の白石家と長藩志士、とくに高杉とのつながりは、すでになんどもふれた通りである。福岡藩の代表的な勤皇家で、のちに「生野の変」に参加して処刑された平野次郎(国臣)のごときも�宮崎司�と名をかえて、白石家に身をよせながら、筑前物産の販路拡張をはかっていた。  かように、勤皇派の�志士�とか、かれらのつくった新しい軍事組織とかの背後には、新しく頭をもたげてきた豪商、豪農がいたのであって、封建的な殻をつき破ろうと強い意欲にもえていたという点では、共通の基盤の上に立っていたのである。長州の諸隊のなかには、たとえば小郡の農兵司令|桜井慎平《さくらいしんぺい》の組織した�集義隊�のように、豪農とはかってつくられたものもあった。  むろん、こういった豪商、豪農にしても、はじめは�志士�たちから�地下有徳《ちげうとく》のもの�などとおだてられたりして、ひそかに経済的援助を与えていたのが、のちには深入りして�同志�的な意識をもち、討幕の挙兵に参加するところまでいっている。正一郎の弟|廉作《れんさく》のごときは、高杉の�奇兵隊�にも加わり、「生野の変」には�七卿�の一人の沢宣嘉を擁してはせ参じたが、こと敗れて自刃している。このように商人でいて、一族一家をあげて勤皇に殉じたという例は珍しい。  この時代に、こういった軍事組織にまとまって参加したのは、山伏、猟師、力士のたぐいであった。この種の職業がなりたたなくなったからで、失業者が集団的に転業したようなものだ。そこへいくと、農民や商人出身の志望者は個人的で、その数も少なかった。なにかの機会で�勤皇�思想をいだくようになったものとか、自分の職業や生活環境に不満をもつ野心的な若者とかが、そこから脱出して、武士階級へ飛躍しようとしたのであるが、これらのなかで、とくにとりたてられて士分の待遇をうけたのは、特別の才能、学識、勇気を示したものに限られていた。かつての日本の軍隊についていえば、下士官から将校に昇進したようなものであって、各隊の指導権は、たいてい武士階級出身者の手でにぎられていた。  そのなかで例外ともいうべきものが、赤根武人《あかねたけと》である。�奇兵隊�の私闘事件で高杉が退いたあと、総督の地位についたのであるが、彼は武士出身ではない。  赤根の出身地は、周防国大島郡柱島(一説には桂島ともいう)で、医師|松崎三宅《まつざきみやけ》の子となっているが、高杉にいわせると、赤根は「大島の土百姓のセガレ」となっている。  当時、周防には月性《げつしよう》という奇僧がいた。   男児志を立てて郷関を出づ 学もしならずんば死すともかえらず   骨を埋む何ぞ墳墓の地を期せんや   人間いたるところ青山あり という有名な詩は、月性が十五歳のとき、学問を志して郷里を出るとき、家の壁に書きのこしたものだという。その後、彼はオランダがジャワをとったいきさつを知って大いに発奮し、海岸防備の必要を説いて歩いたので、�海防僧�という異名をとった。  赤根は早くからこの月性について学び、さらに京都に出て梅田雲浜の門にはいり、江戸では斎藤弥九郎《さいとうやくろう》について、文武の業を修めた。品川御殿山の英国公使館焼き打ちには赤根も参加しているが、のちに高杉のライバルとなったのだ。  [#小見出し]根強く残る�階級意識�  高杉が�奇兵隊�を組織したとき、三角印の記章をつくって隊員につけさせた。今はやりのワッペンである。  これは皇室、国家、長藩をあらわしたもの、つまり、三つの�忠誠心�の対象を象徴したものだということになっている。しかし、当時の高杉の頭のなかに、三種の�忠誠心�がこのような明確な形をとっていたとは思えない。したがって、この記章は、隊員を出身別に、士分、准士分、平民の三つにわけたものだと見るほうが正しいようである。  高杉という男は、独創性に富んではいたが、身分意職が強く、前にあげた大庭伝七あての遣書のなかでも、 「弟《てい》(自分)ことも、毛利氏恩顧の士にて、今日にいたり、土民同様の心底は、寸分もこれなく候間、その段かねてご存じの儀と心知奉り候」 と書いている。隊員の服装も、武士出身と庶民出身は、はっきりと区別している。  それよりも興味あるのは、有名な「奇兵隊日記」のなかで、もっとも大切な部分が欠けていることである。この日記は、文久三年六月八日の�奇兵隊�結成から、明治二年十一月二十七日解散にいたるまでの活動状況をたんねんに記した貴重な文献で、原本は毛利元公爵家と京都の尊攘堂に保存されているが、そのなかで元治元年八月五日から九日までの五日間が、完全な空白となっている。これはどういうわけか。  この五日間は、長藩が英・仏・米・蘭の連合艦隊を相手に戦ったときで、この戦闘で主力をなしていたのは、いうまでもなく�奇兵隊�であった。だが、このとき、高杉はすでに戦列からはなれていて、赤根武人がかわって総督となり、その下に山県狂介が軍監として参謀長の地位についていた。  この�攘夷戦�は、けっきょく、長藩の敗北におわったが、赤根の指揮、奮戦ぶりは見上げたものだったらしい。白石正一郎の日記にも、�奇兵隊�が総くずれとなったなかで、「総督赤根ふみとどまり」などと、赤根の勇敢なふるまいをたたえるような記事がでている。  だが、その後、高杉挙兵のことは、「奇兵隊日記」にもくわしく出ているが、赤根の消息はぜんぜん伝えられていない。辛うじて白石の日記の元治元年十二月二十八日のところに、 「高杉来る、赤根行くえ相知れず故なり」 と出ているだけだ。ということは、赤根が高杉の挙兵に反対して、�奇兵隊�を去ったか、追われたか、どっちかである。その前、高杉が藩船を奪取するため、三田尻へいったあとで、赤根は伊藤俊輔に、 「高杉という男は、事をともにすべき人物ではない」 と語っている。赤根の意見は、外国と講和が成立しても、まだ幕府という大敵をひかえているのだから、内争をやめて、挙藩一致の体制をとるべきだというのであるが、高杉からみれば、これは�俗論党�への降服、今のことばでいうと、�修正主義�ということになる。  その結果、赤根はついに�裏切り者�として捕えられ、処刑されるにいたったのであるが、怪しまれる点がないでもなかった。前に彼は二度も幕府につかまり、二度とも釈放されている。一度は、安政五年の尊攘派いっせい検挙のさい、梅田雲浜のグループに属するものと見られたのであるが、このときは証拠を完全にインメツしてまぬかれた。二度目は、高杉の挙兵後、赤根は筑前から大阪に亡命してつかまり、京都の獄に入れられたが、自分は�恭順�のためにはたらいているものだという意味の上申書を幕府に出して釈放された。そのため�売国奴�ということで、切腹さえも認められず、斬罪になった上、その首をさらされた。  長府藩主毛利|元周《もとちか》は、赤根の人柄や功績を認めて、なんとかして救ってやりたいと思ったけれど、どうにもならなかったらしい。  権力闘争に対立と粛清はつきもので、スターリンとトロツキーの場合がそのいい例である。赤根の行動にも疑われてもしかたのない面がいろいろあったと思うが、そこまで彼を追いこんだものはなんであったかということも考えてみる必要がある。長藩革新陣営の行動隊にあって、士分出身の首領が高杉だったとすれば、庶民階級出身で最高の地位についたのが赤根である。この二人は同年輩であり、学識、教養、武芸の点でも伯仲していて、ことごとに競争の立場におかれた、というよりも、赤根は庶民出身としては力量、才能が豊かで、出世しすぎたのがわざわいしたのであろう。  かつてのプロレタリア運動において、有能な闘士でも、旧貴族もしくはブルジョア階級出身だということで、ちょっとした失敗、過失、誤解から、苛酷な粛清の対象になった例が珍しくない。赤根の場合は、これを裏がえしにしたものともいえよう。  [#小見出し]活躍した�死の商人�  高杉のクーデター後、毛利藩も�武備恭順�という形で、新しい体制をととのえた。藩主を守る�御親兵�の本営を萩におき、総督に家老の福原芳山《ふくはらほうざん》、頭取に佐世八十郎《させはちじゆうろう》(のちの前原一誠)が任命された。 「奇兵隊」その他の十隊は整理統合して、総兵員も約千五百人にへらした。そしてその総奉行には、各隊の推薦で、高杉が就任し、馬関で勤務することになった。  これで幕府が攻めてきても、二、三年は防ぐことができるし、そのあいだに内外の情勢もかわり、なんとかなるであろうという見通しがついた。  ところが、高杉という男は、「困難を共にするのにはいいが、富貴を共にできない」という型の人物である。したがって、彼は維新後まで生きのこったとしても、山県や伊藤のように、長く権力の座にとどまっていることができなくなって、なにかの機会に、すぐ謀反をおこしたにちがいない。  このとき、高杉は、�沈滅の人�になりたいといっている。イチかバチかの大バクチをやってのけたあとで、しばらく気分を沈潜させたいというのであろう。そこで、まず彼の頭に浮かんだのは、外国に出かけることである。前に高杉は上海へ、伊藤はロンドンまで行った経験があるので、この機会に、二人でまた出かけようじゃないか、ということになった。あわよくば、英国政府にわたりをつけて、外から毛利家を助ける方法を講じたいという考えもあったと、後年、伊藤自身が語っている。佐世と井上聞多の尽力で、新政府から、 「英学修業を兼ね、海外事情研究のため横浜に派遣する」 という辞令とともに、族費として金三千両支給された。�俗論党�を倒した論功行賞かもしれない。  高杉と伊藤は、まず長崎に行った。そして前から知っているイギリスの商人グラバーをたずねた。  グラバーのフル・ネームは、トーマス・ブレーク・グラバー Thomas Blake Glover といって、安政六年(一八五九年)九月日本に渡来、フランク・グルームとともに、「グラバー商会」をつくった。はじめは大したことはなかったが、まもなくぐんぐん頭角をあらわし、慶応から明治初年にかけては、長崎の貿易の大半をにぎる存在となった。前に伊藤や井上をイギリスに送った横浜の「ジャーディン・マディソン商会」と姉妹関係になっていたが、これらの商社が大いに伸びたのは、イギリスの出先官憲と密接につながり、薩摩、長州、佐賀、土佐など、日本の有力な藩の積極的な分子をうまくだきこんで、ヨーロッパの商品、とくに新鋭の武器を大量に売りこむことに成功したからである。当時の典型的な�政商�であり、�死の商人�であった。  今も長崎の南山手、海を見おろす高台に、四つ葉のクローバーのような形をした「グラバー邸」というのがのこっている。これが歌劇「マダム・バタフライ」(蝶々夫人)のゆかりの家として、長崎名所の一つとなっているが、この歌劇とグラバーとは直接の関係はない。 「マダム・バタフライ」は、フィラデルフィアで弁護士をしていたジョン・ルーサー・ロングの書いた小説をもとに、ベラスコが脚色してロンドンで上演、さらにイタリアの作曲家プッチーニがこれをオペラに仕組んで、世界的名声を博するにいたったものである。そのモデルになった日本人の女性が、長崎の郷土史家のあいだで問題になり、グラバーが遊女ツルを落籍して同居し、そのあいだにトムというこどもが生まれたりしたことから、これら二つのケースが結びつけられたのだ。このほかにも、フランスの作家ピエル・ロチの「お菊さん」など、当時の長崎には、これに似たケースがいろいろあったにちがいない。「マダム・バタフライ」の場合には、原作者ロングの姉のアービン・コレールというのが、青山学院の創立者コレール博士の夫人で、明治三十年ごろ、鎮西学院設立のため長崎にきて、出入りの商人からきいた話を弟に伝えたものだという。  日本で「マダム・バタフライ」が上演されたのは、大正三年(一九一四年)一月、帝国劇場で、アメリカがえりの高折寿美子《たかおりすみこ》が主演したのがはじめで、その後|三浦環《みうらたまき》が二十年間にわたり、欧米各地で約二千回も上演している。  グラバーは貿易の面ばかりでなく、佐賀藩と共同で高島炭鉱を開発したり、薩摩の五代友厚《ごだいともあつ》や小松帯刀《こまつたてわき》と組んでドックをつくったり、製茶工場をもうけたり、造幣局の開設を手伝ったり、産業・経済の面でも、重要な役割を果たしている。  日本にはじめて蒸気機関車を輸入したのもグラバーである。もっとも、これは交通機関というよりは、見せものの一種で、上海の博覧会に出したものを長崎にはこんできて、大浦海岸で走らせて見せたのであるが、新橋・横浜間に日本最初の鉄道が開通したのは明治五年だから、それより七年も前のことだ。  グラバーのむすこのトムは、倉場富三郎《くらばとみさぶろう》と名のり、日本人になりきっていたが、戦争中にスパイあつかいをうけて、すっかりノイローゼにかかり、終戦直前にピストル自殺をとげた。  [#小見出し]下関開港に失敗 �攘夷�のさきがけをした長州藩でも、高杉、伊藤、井上らは、早くから開港派に転向していた。自分の目で外国を見たことのあるものにとって、そうなるのが当然であった。しかし、かれらの開国論は、単純なものではなくて、�攘夷�をおこなうためには、日本がまず富国強兵策を講じなければならぬというのだ。それには日本が挙国一致体制をとるべきで、これをさまたげているのは幕府だから、王政復古こそ先決問題だということになり、重点が�攘夷�から�討幕�にむけられていったのである。  長藩�攘夷派�の急先鋒で、のちに�俗論党�のため切腹させられた清水清太郎《しみずせいたろう》というのが、伊藤に説得されて、�開国�に同意したさい、 「おれも日本人だから、攘夷論をまるでやめてしまうというわけにはいかないが、向こう五十年間、腹の底へ納めてしまうだけのことだ」 といっている。これは元治元年(一八六四年)のことで、それから五十年後というと、大正三年(一九一四年)すなわち第一次世界大戦のおこった年である。これは日本が勝って�五大国�の仲間入りをしたのだ。むろん、これは偶然であるが、こういう角度から歴史をながめると、別な興味がわいてくる。  それはさておいて、当時長崎のイギリス領事館には、ラウダという男がいて、高杉や伊藤はこれに英語を教わっているうちに、こんなことをいわれた。 「君たちは今、洋行すべき時機ではない。それよりもいっそのこと、長州を独立させ、馬関の開港をはかったほうが、はるかに賢明である。こんどオールコックにかわって、日本公使として赴任してくるパークスというのは、なかなかの傑物で、本国政府の信用も厚いから、万事うまくやってくれるだろう」  高杉も伊藤も、その気になった。近くパークスをのせた船が長崎に寄港するときき、二人はパークスあての意見書をしたため、グラバーに託して下関へ引きかえした。そしてさっそく、藩論をそのほうへもっていく工作にとりかかったが、そのころ藩首脳部には、かれらの仲間が勢力を占めていたから、その点は容易だった。  徳川の封建制度のもとにおける各藩のありかたは、幕府を中心とする連邦組織のようなものだが、そのなかで�攘夷�のトップをきってきた長藩が、その組織から分離し、単独で開港にのり出そうというのだ。その少し前に、長州は外国船をうち払って、朝廷からお褒めのことばを頂いたばかりである。恐らく改めて朝廷に開国を願い出ても、勅許が出るはずはない。これは大転向というよりも、大きな矛盾である。しかもこの矛盾が長州藩、ひいては明治政府の基本的な性格をなすものである。  徳川政府が鎖国にふみきったあと、いちはやく開国論を唱え出したのは、工藤平助《くどうへいすけ》、本多利明《ほんだとしあき》、佐藤信淵《さとうのぶひろ》などであるが、いずれも時流をぬきんでた才能と識見をもっていたという点で、天才たちであった。  工藤は万光《ばんこう》ともいって、もともと医者だが、今の弁護士のようなことが得意で、彼が口をきいた訴訟事件はたいてい勝った。�寛政の三奇人�といわれた林子平のパトロンで、子平が幕府の忌諱にふれてつかまっても平気だった。本多は算数、天文、航海術の第一人者で、人口と貿易の関係を論じ、�日本のマルサス�ともいわれている。その門下からは銭屋五兵衛《ぜにやごへえ》などが出て、彼の説を実行している。緯度からいうと、ロンドンは北緯五十一度、アムステルダムは五十三度にあって、すばらしい繁栄を示しているから、日本の首都もカムチャツカにうつすべきだなどという、とんでもないことをいい出しているが、間宮海峡(タタール海峡)の発見者|間宮林蔵《まみやりんぞう》も、本多に負うところが大きかった。佐藤も独創性に富んだ農政学者で、著書三百余種、その門下から多くの逸才を出していることは、改めていうまでもない。  とにかく、時世が一回転して、過激な�攘夷派�のなかから、こういった積極的な開国論者が出てきたところがおもしろい。  ところが、いよいよ下関の開港を断行するとなると、面倒な問題がおこってきた。というのは、この下関地区には、毛利の支藩である長府藩、清末藩の領土が介在していて、防衛の上からいっても、経済的な面からいっても、萩本藩の管轄に統一する必要があるというので、本藩から両支藩に交渉がすすめられているところへ、突然開港論が表面化してきたからである。  一方、このウワサが幕府につたわると、幕府はいよいよ長州再征のハラをきめるし、長州でも�攘夷派�がまた頭をもたげてきた。前に四国連合艦隊との戦闘は、短期間に終結して、あっさりと降服し、講和が成立してしまったので、負けたという実感をもたないものが多かったのである。�太平洋戦争�の場合でも、米軍の全国主要都市爆撃、広島・長崎の原爆攻撃がなかったならば、国民大衆は敗戦の実感をもたなかったにちがいない。  それに、長府・清末両藩の宝蔵ともいうべき下関を本藩にとりあげられてはたいへんだというので、�ハチの巣城事件�と同じようなさわぎがおこった。適当な代地を与えるという案を高杉はもち出したけれど、両藩ではうけつけなかった。  そこで、本藩でも折れて出て、開港はしないということに決定した。それとともに開国派の高杉、井上、伊藤の三人は、長府藩の刺客にねらわれ、またも亡命せざるをえなくなった。  [#小見出し]潜行は女づれに限る  長府藩の刺客をさけて逃げまわっているあいだ、井上聞多は春山花太郎《はるやまはなたろう》、伊藤俊輔は花山春太郎《はなやまはるたろう》という変名を用いた。どっちもふざけた名前で、戦前、宿帳にこんな名前を書こうものなら、すぐ怪しまれたろう。  この機会に、井上は全身に数十か所も浴びた傷の療養を兼ねて別府へ出かけることになった。そのさい、赤間関(下関)稲荷町の芸者で、かねてなじんでいたお静《しず》というのをつれていくことにした。高杉や伊藤にしても、たいてい馬関の遊廓になじみの女をもっていたが、それは主として芸者であった。のちには、娼妓よりも芸者の格が高くなったけれど、明治以前は逆で、芸者は娼妓に従属していた。とくに赤間関稲荷町の遊廓では、娼妓の地位が高かった。『赤間宮由緒記』によると、文治元年(一一八五年)、平家が壇ノ浦でほろぼされたとき、建礼門院《けんれいもんいん》(高倉天皇の皇后、安徳天皇の生母)は安徳天皇をいだいて入水し、彼女は救われて京都にかえり、寂光院で余生をおくったけれど、海辺にのこされた官女たちは、近くの山野から草木の花をとってきて、これを売って露命をつないだ。しかし、それも長つづきしなくて、けっきょく、操を売って生きのびたのが、ここの遊女のはじまりということになっている。一般に娼妓は、タビをはくことをゆるされていなかったが、ここでは古くからそれがゆるされていたばかりでなく、客よりも上座につくし、�女郎�と書くところをここでは�女臈�と書く習慣がのこっていた。  十返舎一九《じつぺんしやいつく》も、文政七年(一八二四年)長崎からの帰途、この遊廓に立ちよっているが、ここの遊女は、しとやかで、衣裳も古式、大阪の女に比べてすぐれていると書いている。  別に、北陸・奥羽地方から下ってくる「北前船」、九州方面から上ってくる「上り船」の下級船員を相手にする女がいて、これを�惣嫁《そうか》�とか�沖女郎�とかいった。  ところで、井上が別府に出かけるときの姿は、印バンテンにモモヒキをはき、土方《どかた》ふうに変装していた。これを見て村田蔵六(大村益次郎)が、 「芸妓《げいこ》づれの土方はおかしいじゃないか。それに、足手まといになって困りはしないか」 と忠告したところ、井上はいった。 「いや、潜行は女づれに限る」  これは非合法時代の日本共産党員なども、よくつかった手だ。  さて、別府につくと、井上は「若松屋」という旅館におちついたが、主人の彦七《ひこしち》は、ひとめみて井上の正体を見ぬいた。人相、風態、ことばづかいなど、土方らしいところはちっともないし、下関からきたというからには、こんどの戦争で傷をうけた隊長か何かが湯治にきたにちがいないと考え、鄭重にもてなした。  しかし、井上が湯にはいると、彼の傷だらけのからだが誰の目にもついて、すぐ浴客たちの評判になった。そこで、彦七は井上にそれとなく、注意していった。 「お客人、こう評判が高くなっては、どんなことがおこらないとも限りません。身をおかくしになるなら、いっそのこと、土方よりはゴロツキの仲間におはいりになったほうが、安全なのではないでしょうか。そうすれば、万一の場合には、親分や仲間が助けてくれますからね」 というわけで彦七は灘亀《なだかめ》という土地の侠客に井上を紹介した。温泉地など、遊覧客が多くあつまってくるところでは、どこでもバクチがさかんで、ケンカ出入りも多い。別府は古くから有名で、戦後も火野葦平《ひのあしへい》が小説に書いているような暴動事件までおこしている。  井上も彦七を通じて、灘亀にいくらか身分をあかし、杯をかわして、客分のような形になった。お静は馬関へかえした。  別に、これといってすることのない井上は、毎日、灘亀かたへ出入りしているうちに、バクチをおぼえた。馬関を出るときにもってきた五十両の金も、たちまちすっかりとられてしまって、タバコ銭にもことかくようになった。これを見て義侠心に富んだ彦七は、毎日、天保銭を一枚ずつ出してくれた。  ある日、妻と娘をつれて湯治にきた一人の武士が、井上の傷についてきいた。土方稼業でケガをしたのだといっても、刀傷であることを見ぬかれた。 「実を申しますと、友だちのカカアと深い仲となり、それがとうとう見つかって、こういう目にあったのです」 といったような身の上話をして、井上はごまかした。この武士とすっかり懇意になった。そしてこの一家が三里ばかりはなれた鉄輪《かんなわ》のほうへ転湯するときには、お供に雇われ、重い荷物をかつがされ、すっかりへたばった。  そこへ馬関の伊藤から使者がきて、「蛤御門の変」のあと、但馬に身をかくしていた桂小五郎が長州へかえってきて、急に相談したいことができたから、すぐ引き揚げてこいということになった。  [#小見出し]遊女が重要な役割  井上聞多が別府へ逃げる二日前、高杉も大阪へ逃げた。|おうの《ヽヽヽ》という愛妾と、それから�奇兵隊�出入りの商人で可愛がっていた紅屋木助《べにやきすけ》というのもいっしょで、旅行用の折りだたみ三味線までさげての逃避行である。自分の名前も、�備後屋助次郎《びんごやすけじろう》�と改め、すっかり道楽者の商人にバケたつもりだったが、高杉には、それがイタについている面がないでもなかった。  吉田松陰は、酒もタバコものまなかった。高杉はタバコを禁じていたけれども、酒はよくのんだ。それに、彼の身辺には必ず女がいた。  江戸、京都、大阪、馬関その他高杉のいるところには、いつでも、どこでも女がついてまわった。上海に行く前には、新橋の「伊豆家」の小三《こさん》というのと深くなじんでいたが、有名なのは、なんといっても馬関の|おうの《ヽヽヽ》である。  むかしから�妾に美人は少ない�といわれているが、|おうの《ヽヽヽ》も大して美人でないばかりか、平凡で、無口で、正直で、どっちかというと、うすのろと見られるくらいお人よしの女であった。運命に従順で、ひとたび高杉と結ばれると、ひたむきな愛情をささげていた。高杉が傍若無人のふるまいをしても、おとなしくついてくるし、どんな困難な事態に直面しても、決してヘコタレなかった。高杉が歌えば|おうの《ヽヽヽ》がひき、|おうの《ヽヽヽ》が歌えば高杉がひくというふうで、はりつめた生活のなかから、くつろぎをそこから求めたのだ。それに彼女は、政治的な面には、絶対に口出しをしないし、面倒なことはなにひとつ知ろうとしなかったから、高杉も彼女を前にして、安心して同志たちと事をはかることができた。  井上の語ったところによると、前に品川のイギリス公使館の焼き打ちをして引きあげたとき、そのころ高杉となじんでいた女が、 「これでさぞ、ご本望でございましょう」 といったのをきいて、高杉はそれっきり、その女とキッパリと縁をきったという。これは日本の男性の封建的な女性観を代表するものだ。  高杉は六尺に近い大男だったが、|おうの《ヽヽヽ》をつれて、大ぴらに馬関の町を散歩した。ときには陣中にまで彼女をつれていったという。  |おうの《ヽヽヽ》には、大阪なまりがあったところから、大阪生まれだろうといわれているだけで、両親も本名も育ちもわからず、もの心ついたときには萩の呉服町紅屋の養女になっていた。水戸の浪士が京阪地方をわたり歩いているときに、どこかの女に生ませたのだともいわれている。  高杉とのなれそめについては、こんな話も伝えられている。前にのべた�海防僧�の月性が、近く外国から日本に攻めてくるというのに、日本には大砲や鉄砲が足りない、これをつくるにも銅銭が不足している。外国から買うには金銀が必要である、そこで家々のなかにあるナベ・カマ・ヒバシ・手鏡はもちろん、金銀サンゴの類もみなもち出して、お国のご用にあてねばならぬと説いて歩いた。戦時中におこなわれた金物や貴金属の�供出運動�を単独でやってのけたのだ。  この月性の熱弁にうたれた|おうの《ヽヽヽ》は、養母が大切にしているカンザシなどをこっそりと盗み出して月性のところへもちこんだ。これを知った養母は、|おうの《ヽヽヽ》をはだかにして庭の松の木にしばりつけ、焼けヒバシでせっかんした。そこへ通りがかったのが高杉で、事情をきいて、養母をなだめ、|おうの《ヽヽヽ》の縄をといてやった。これがもとで、二人は結ばれたというのである。  むろん、この話は、安っぽい芝居の筋書きみたいで、マユツバものであることはいうまでもない。|おうの《ヽヽヽ》の養父となっていた紅屋木助というのが、高杉にとりいって身のまわりの用を弁じていたところから、これと、月性を結びつけて、こういう伝説をデッチあげたものと思われる。  それはさておいて、|おうの《ヽヽヽ》が馬関の裏町の芸者屋|堺屋新蔵《さかいやしんぞう》かたに売られてきたのは、彼女が十一、二歳のときであった。当時の遊廓の習慣では、普通の年期奉公だと、十年で年期があけて自前となり、あと二、三年お礼奉公すればいいのであるが、養女としてもらいうけたものは、�子飼い�といって、食費、衣料費から、芸ごとの仕こみまで、すべて養父の負担だから、一生涯養父に奉分することになっていた。  |おうの《ヽヽヽ》が�この糸�と名のって芸者に出たのは安政五年、彼女が十五歳のときである。この名は�紫�という字を二つにわけて�此糸�としたものだ。彼女が高杉に身うけされたのは、彼女が十七歳のときだというのだから、万延二年で、高杉が上海に行く前々年、かぞえ年でやっと二十二歳だった。  当時、井上や伊藤も、この馬関の裏町でよく遊んだもので、「林亀」という芸者屋のタンスの裏板には、かれらの楽書きがのこっていたという。  古くは木曾義仲《きそよしなか》、源為朝《みなもとのためとも》など、日本史上に活躍した人物のなかには、遊女を母にしたものが少なくない。また平清盛《たいらのきよもり》から維新の元勲たちにいたるまで、遊女と深くまじわったり、正妻に迎えたりした権力者が多く、遊女というものが日本史上に特殊な地位を占め、重要な役割を果たしていることは見のがせない。  [#小見出し]金毘羅船へ逃げこむ  話かわって、高杉たちをのせた船は、大阪の安治川についた。  船を出た高杉は、船頭の姿をして、市内を見物して歩いていると、心斎橋通りに出た。本屋が目についたので、なんの気なしになかへはいって、 「�徒然草《つれづれぐさ》�がありますか」 ときいた。店主は、さっそく、これをもち出してきたものの、船頭がこんなものをほしがるということに疑惑をいだいたらしく、改めて高杉をジロジロとながめた。  そのころ、京阪地方には、勤皇派の志士が大勢はいりこんで、さまざまな策動や陰謀をめぐらしている一方、幕府のほうでも、多くの隠密をおくりこみ、警戒網をはっていた。とくに知識人の出入りが多い書店などには、店主に命じて、怪しいものがきたらすぐとどけて出るようにいいわたしてあった。  機敏な高杉は、そういった空気をすぐ見てとって、 「この本はあたしが読むのではなく、人からたのまれてまいりまして——」 と弁解したが、それでかえって怪しまれた。店主は、高杉の足をそこにとめておきたいと思ったらしく、 「実は手前どもの裏座敷に宿をとっておられる客人が、あなたのようなかたがおみえになったら、お茶でもさしあげたいので、ぜひともお通しするようにといわれておりまして——。ただいまちょっと外出中ですが、すぐ呼んでまいりますから」 といった。  高杉のほうでも好奇心をおこして、試みにその客人の名前をきいてみると、その人物は前に湯島の聖堂で塾頭をしていたこともあり、幕吏のなかでも腕ききとして知られている男だということがわかった。そこで高杉は、さあらぬていで、 「そういう大身なかたに、こんな姿でおめにかかるのは失礼にあたるでしょう。船にもどれば、ボロ羽織が一枚ありますから、それをきてもう一度おうかがいすることにいたしましょう」 といって、大急ぎで船にもどった。川口に非常線をはられたり、船内の臨検をはじめられてはたいへんだというので、いちばん早く出る金毘羅船《こんぴらぶね》に乗りうつり、四国へわたることにした。  レジャーブームというのは、社会が安定しているときよりも、社会不安の増大するキザシのみえてきたとき、いっそうさかんになるのが普通である。かつての日本では、いつでもそれが�信仰�とつながっていた。徳川政府が遊楽や無用の旅行をおさえる方針をとったから、それが�信仰�の名においてなされたのだ。この風潮は、�黒船�渡来後、とくに顕著になっていた。  この�信仰�という名の遊楽の対象になったものは、日本全国いたるところにあったが、その横綱格はなんといっても讃岐の�金毘羅さま�である。この神社の主神は�大物《おおもの》主神《ぬしのかみ》�いうことになっているが、実は「コンピラ」はサンスクリットのクンビーラ(Kumbhira)で、インドのガンジス川のワニを神格化したものだという。この神社の名称も、琴平社、金毘羅大権現、琴平神社、事比羅宮、金刀比羅宮など、いろいろとかわってきている。  十返舎一九が文化七年(一八一○年)に書いた『金毘羅詣続膝栗毛』によると、 「霊験あらたかにましまして、およそこの日本にこれを信念拝仰せざるはなく、唐人も降神観といえる額を奉りし、倭漢普通神力妙用のおん神なり」 となっていて、年々おびただしい参拝者が全国からおしよせたのであるが、江戸、東海道、中仙道、奥羽、北陸など、近畿以北のものは、いちおう大阪まできて、そこから海路丸亀にむかうのが普通のコースになっていた。かれらをはこぶ船を�金毘羅船�といった。  そのため、大阪の道頓堀、日本橋、淀屋橋、土佐堀などには、金毘羅もうでをあつかう旅館が軒をつらねていた。その服装も、もとは白衣に手甲《てつこう》、脚絆《きやはん》をつけ、背に笈《おい》を負うていた。この笈には天狗《てんぐ》の面をつけたもので、「檜山騒動」のヒーロー相馬大作が津軽の殿さまをねらったときにも、こういう姿をしているが、これだと人に疑われずにすんだのであろう。また明恰の終わりころまでは、赤《あか》毛布《ゲット》をかむるのが、金毘羅もうでの風俗として流行していた。  金毘羅船は、大阪の安治川口を出て、淡路沖を通過し、播州灘をぬけて、丸亀まで海路五十里を三日三晩、おそくとも五日かかればついた。船賃は一人あたり十九匁が相場で、逆風か何かで長くかかったばあいには、船主の損ということになっていた。ただし、金毘羅船に限り、途中で遭難することは絶対にないといわれていた。船中では、ドンチャンさわぎ、今のヘルスセンターにおける�ノド自慢�のようなことはもちろん、バクチもさかんにおこなわれたものだ。  この金毘羅船に高杉がのりこんだのは、そこに安全を求めたからではあるが、そればかりでなく、琴平には�勤皇博徒�として知られた日柳燕石《くさなぎえんせき》がいたので、これに身をよせようとしたのである。 [#改ページ] [#中見出し]勤皇博徒・日柳燕石   ——勤王・詩人・博徒という三つの要素が化合した希有の例——  [#小見出し]新体制を支持する  時代が大きく渦まいて、古い勢力と新しい勢力が争っているときに、そのどっちかに味方するということは、見方によっては大きな賭けである。  尊皇、攘夷、討幕、公武合体などというものも、結果からいうと、時代の動く方向にたいする大きな賭けであった。諸藩、公卿をはじめ、各藩士、その一人一人が、多かれ少なかれ、この賭けに参加したのである。町人階級、とくに豪商と呼ばれるようなもののなかからも、下関の白石家、連島《つれじま》の三宅家などのように、資産の大きな部分をこれに投じるような危険をあえてするものが、発生しつつあったことは前にのべた。  こうした時代の動きにたいする賭けの先頭をきるものは、いつの時代においても知識人である。その出身を洗えば、当時の指導層である武士階級に属するものが多かったけれど、学者、文人、医者、その他庶民階級出身で、鋭敏な時代感覚を身につけたもののあいだからも、これに参加するものが少なからず発生した。  かれらのなかで、古い勢力を見すてて、新しい勢力に味方したものを�志士�と称した。かれらは相当の犠牲、ときには生命の危険をもかえりみなかった。しかもなお、それをあえてすることを�志�といい、その�志�を身につけたものを�志士�といったのだ。  本来、博徒というものは、非合法的な生活手段によるもので、取り締まりの対象に存在したのであるが、支配階級のほうでは、毒をもって毒を制する政策から、警察の補助機関としてこれを利用する場合が多かった。いきおい、博徒は原則として旧体制を保持する側に立つものであって、新体制の支持者となる例は珍しい。その珍しい例が日柳燕石である。  博徒に二種類ある。一つは貧しい環境に育ったものが、生活の手段としてこの道をえらび、子分からたたきあげて、これが職業化するにいたったものである。一つは、はじめは賭けごと好きのダンナだったのが、つい深入りして足がぬけなくなったもの、ノン・プロから出発して完全なプロになってしまったものである。大前田英五郎《おおまえだえいごろう》、笹川《ささがわ》の繁蔵《しげぞう》、小金井《こがねい》の小次郎《こじろう》などが後者の代表で、会津《あいづ》の小鉄《こてつ》、飯岡《いいおか》の助五郎《すけごろう》などは前者の代表といえよう。清水《しみず》の次郎長《じろちよう》にしても、父は船のりだったが、そう貧しいほうではなかった。  いずれにしても、思想的な挺身も一種の賭けだと見るならば、博徒から�勤皇家�が出ても、別に不思議ではない。  日柳燕石は�ダンナ博徒�、�インテリ博徒�の典型ともいうべきものである。彼の生地は、今は琴平町に編入されている榎井村《えないむら》で、父は加島屋惣兵衛《かしまやそうべえ》といって、大地主で質屋をいとなんでいた。土蔵も七つくらいあって、近郷きってのものもちだった。もとの姓は�草薙�といったが、これは三種の神器の�草《くさ》薙剣《なぎのつるぎ》�を連想させるから恐れ多いというので、�日柳�と改めたという。現に香川県立高松図書館長で燕石研究家として知られている草薙金四郎《くさなぎきんしろう》は、この土地の人だが、ずっと草薙姓を名のっている。これで見ると、燕石の勤皇精神は、父の代からタネがまかれていたことがわかる。  土豪の一人むすことして、したい放題に育てられた燕石は、幼名を長次郎といった。文化十四年(一八一七年)の生まれで、十四歳にして一人前のあつかいをうけ、十六歳で酒と女の味を知ったという。  その一方、長次郎は十四歳のころから琴平の医者|三井雪航《みついせつこう》について学び、詩、書、画などの面にも、大いにその才能を発揮した。  天保五年というと、水野忠邦《みずのただくに》の時代だが、讃岐地方は大凶作で、米価が暴騰し、米騒動がおこった。このとき、暴動の策源地となったのが榎井村で、ここから暴徒が琴平におしかけた。これをけしかけた容疑者の一人として、当時十八歳の長次郎が検挙された。  わたくしの少年時代にも米騒動がおこった。大正七年で、当時わたくしは中学生だった。検挙されるところまではいかなかったけれど、これについて村の小学校で演説したことがたたり、ついに中学校を退校させられた。そのあと、わたくしは神戸のスラム街で伝道していた賀川豊彦《かがわとよひこ》をたずねてその門下生となった。そのときの仲間に、水谷長三郎《みずたにちようざぶろう》、馬島《まじまかん》などがいる。西尾末広《にしおすえひろ》、杉山元治郎《すぎやまもとじろう》なども、当時、賀川の仕事を助けた人たちである。  さらに、天保八年日柳家をたずねた広瀬淡窓《ひろせたんそう》の書いたものによると、燕石は土蔵の米をもち出して、貧しい家八百余戸を救ったということになっている。淡窓は、豊後日田の学者で、その塾に、全国各地からあつまった学徒の数は四千人、さながら今の総合大学の観を呈していたというが、この�八百戸�という数字には誇張がありそうだ。淡窓も日柳家でごちそうになって、少々筆が走りすぎたのかもしれない。  このあと、安政元年、讃岐の満濃池《まんのういけ》が決壊したときにも、日柳家では、三日間炊き出しをして村民を救っている。  そんなことから、長次郎に人気があつまり、ついに土地の大親分にまつりあげられたのであろう。  [#小見出し]任侠からナショナリズムへ  幕末人物誌のなかでも、ほかに類のない�勤皇博徒�の日柳燕石が、讃岐の琴平在に出たということは、この土地の特殊性と切りはなすことができない。  金毘羅神社は社領三千三百石で、寺社奉行の支配下にあったが、これにつながる榎井村は天領で、代官所は瀬戸内海をへだてた備中倉敷にあった。  代官にもいろいろあるが、江戸から遠くはなれた天領の代官職は、利権の一種としてあつかわれ、売買の対象になっていた。�長崎奉行三千両、代官千両�が通り相場といわれ、それくらいの運動費をつかわないと、この職につけなかった。それだけに、この投資額を在職中に回収する必要があって、ある程度の汚職は公然の秘密となっていた。そして任地にはたいてい代人をおいて、本人はおもに江戸でくらし、年に一回か二回任地へ顔出しするだけであった。統治者が名目だけにおわり、責任を負わないような形になっている点で、社領も天領も同じであった。  観光地というのは、人情風俗のあまりよくないのが普通である。これという生産がなくて、住民の大多数が観光客のおとす金にたよって生活しているところへ、観光客を食いものにしようとする悪徳商人、香具師、博徒、ならずもの、凶状もちの類が、どしどし流れこんでくるからだ。とくに琴平のような全国的な名所ともなると、これが多かった。  そればかりではない。ブームを追って、有名無名の美術家、芸能人、職人などが続々やってきて、なにか仕事を見つけては長逗留をする。琴平のばあいでいうと、神社や一流の旅館などには、円山応挙《まるやまおうきよ》とか左甚五郎《ひだりじんごろう》の作とかいったようなものがやたらにのこっている。宿帳にちゃんと出ている有名人のなかにも、ニセモノが多かったにちがいない。  むろん、売春防止法の出る前には、娼家が軒をつらねていた。天保七年には、南海一といわれる大劇場「金丸座」が琴平につくられて、大阪以西で千両役者の出る大芝居の見られるのはここだけだといわれた。これを�金毘羅大芝居�と称し、このためにも、多くの参拝客があつまってきたものだ。オーストリアのウィーン、ザルツブルクなどでは、毎年おこなわれる�音楽祭�が名物になっていて、世界中の観光客をあつめているが、観光地の考えることはたいていどこも同じである。ただ琴平には、ベートーベンの住んでいた家とか、モーツァルトの生家とかいうものがないだけだ。  琴平およびその周辺では、バクチもさかんなもので、バクチをうたないのは、金毘羅さまの鳥居だけだともいわれた。その中心になっていたのは、天領の榎井村である。ここでは支配者があってないようなもので、ほとんど無警察に近い状態だった。終戦後、日本の警察制度が、アメリカにならって、自治体本位に分割され、大事件がおこると予算がなくて、能率がガタおちになったものだが、江戸時代の天領はそれに似ていた。それに、天領の人民は、私領のものをバカにしていた。  前にあげた十返舎一九の『金毘羅詣続膝栗毛』のなかで、榎井のことをつぎのように描いている。 [#この行1字下げ] かくてしばし行けば、榎井村とて、旅籠《はたご》、茶屋など多きところにいたる。途中に大なる唐金《からかね》の鳥居あり。これは東都の人のたてる由記しあり。   北八「なんとここでちょっと休んでゆこう」   弥次「酒屋はごめんだ、モチにしよう」  ひとくちにいって、この地方は、瀬戸内海のモナコ、ニースといったようなところである。  日柳燕石は、こういう土地に生まれ、育ったのである。早熟で、この地方の大ボスになったのはうなずけるが、勤皇思想をいだくようになったのは、どういうわけか。 �任侠�というのは、「弱きをたすけ、強きをくじく」気性、すなわちレジスタンスの精神と、もう一つは�義理人情�すなわち「一宿一飯の恩義」に感じて、生命をも投げ出すという封建的な報恩精神、これら二つの部分から成り立っていると思うが、どっちも人間関係に重点をおき、これを空想的にまで高めたものである。  この心理状態を表現するのにもっとも適しているのが浪花節で、これは「赤穂義士伝」などとつながっている。赤穂浪士の仇討ちは、�任侠�の精神を組織化し、集大成したものであるとともに、その象徴ともいえる。この�任侠�精神の近代版ともいうべき尾崎士郎の『人生劇場』が、赤穂浪士の敵役になっている吉良上野《きらこうずけ》の旧領、しかもいまだに吉良を尊敬し、�義士もの�をうけつけないという地方が背景になっているのは、皮肉といえば皮肉である。近ごろになってこれが復活してきたのは、戦後の日本を支配したアメリカ的合理主義への反撥であることはいうまでもない。  それにしても、�任侠�的行動の基盤になっているのは、親分への絶対的な忠誠心である。のちにこれが皇室への忠誠心と結びつき、強烈ではあるが前近代的性格の強い日本的民族主義、明治的ナショナリズムに転化していったのであるが、その萌芽が燕石に見出されるという点で、彼は大いに研究に値する特異な人物である。  [#小見出し]金と度胸で勝負する  金毘羅の神殿の裏側の山は、遠くから見ると、象の頭のようにみえるので、�象頭山《ぞうずさん》�と呼ばれている。  日柳燕石の別宅は、琴平と榎井の境にあって、�呑象楼�と名づけられている。ここの二階でのんでいると、杯に象頭山が映って、この山をのんでいるような気分になるという意味から出たものである。それもあるが、ここは高松方面から琴平にむかう往来に面し、見通しがよくきいて、捕吏その他怪しい人物が近づいてきた場合に、先手をうって臨機応変の処置をとるのに都合のいい位置にあった。  先年、わたくしがわざわざたずねて行ったのは、むかしのままの�呑象楼�ではなく、のちに再建されたものであったが、家の構造にかわりはなかった。そう大きくない二階建てだが、壁の一部がドンデンがえしになっていたり、床の掛け軸の裏にぬけ穴があったり、二階へ上る階段などにも、特別のしかけがつくられていた。 �燕石�というのは、『山海経』という中国古代の地理書に出てくることばで、燕山という山では宝石に似たものがたくさんとれるが、みんなニセモノで値うちがないという意味である。学者、詩人としての自分をこれにたとえたもので、彼らしい偽悪趣味が出ていておもしろい。  彼はまた�三楽�とも号した。讃岐では、�三白�すなわち米、塩、砂糖の三つがお国じまんとなっているが、燕石はその向こうをはって、�飲む、打つ、買う�の�三道楽�に生きがいを感じるものだという気持を表白したものである。  彼の師匠や友人が、彼の才能を惜しみ、バクチをやめるようにと忠告すると、彼の答えはいつもきまっていた。 「学者、詩人がバクチをうつといえば悪かろうが、バクチうちが学問をしたり、詩をつくったりすると思えば、別に差しつかえないじゃないか。もともとおれは南海のバクチうちだ。そんな堅苦しい話はやめて、まず一杯」 といった調子で、自他ともにごまかしてしまうのであった。  この地方には、燕石以外の親分が幾人もいた。燕石直属の子分は二、三十人程度で、兄弟分や臨時にワラジをぬいだものを加えても、百人はこえなかったであろうと見られている。  むろん、親分になってからの燕石一家はテラ銭で生活していたのであるが、燕石自身は直接勝負に手出しをしなかった。賭場の片隅で、テラ銭箱にもたれて書物を読んでいたという。  それでいて親分としての地位を保つことができたのは、度胸がよかったからである。あるとき、他の親分から恨みをうけ、果たしあいを申しこまれたが、燕石はたったひとり、指定された川原のまんなかに、フンドシ一つで出かけて行って、 「長次郎(燕石の本名)のからだには筋金が通っている。殺せるものなら殺してみろ」 といった。この大胆不敵なふるまいに、相手の親分は、はやり立つ子分を制し、燕石の前に手をついて、 「おれたちが悪かった。どうか思う存分にしてくれ」 とあやまった。そのあと、この親分は、燕石から杯を頂戴し、その子分をひきいて燕石の身うちになった——ということでおわれば、ありふれた筋書き通りになるところだが、彼のばあいは少しちがっていた。  燕石にいわせると、賭場は�小さな戦場�である。そこで一方の旗がしらになるには、人なみ以上の度胸を必要とすることは明らかだが、彼の場合は、ケンカ出入りの話はほとんど伝えられていない。学問は好きだったが、剣道はそれほど得意でなかったらしい。そこで、やっかいな問題や事件がおこったりすると、たいてい金で解決したのである。豪家の一人むすこに生まれて、若くして財産を相続したので、それができたのだ。川原で血の雨がふりそうになったとき、単身裸でのりこみ、相手の親分を恐れ入らせたというのも、前もって金銭上の取り引きがすみ、ちゃんと話がついていて、子分たちの手前、大芝居をうったものと見られないこともない。  それに燕石の人柄も、どっちかというと貧弱な小男であった。顔にうすいアバタがあり、一見平凡な田舎者で、風采もあまりあがらず、�豪胆�といったような感じを与えなかったようである。  燕石はバクチをやめない理由について、つぎの四つの点をあげている。  第一、自分は早く父母を失って孤児になり、財産もなくしてしまったので、友人がたずねてきても、もてなす金の出所がほかにない。  第二、自分は坊ちゃん育ちで、身にはなに一つ技能をつけていない。  第三、幼少時代から人に頭をさげられないというクセがついている。  第四、いざという場合には、ふだんから養っている子分をひきいて国家のためにつくそうと思っている。  [#小見出し]勤皇家・詩人・博徒の燕石 「太平洋戦争」の始まるころ、�燕石ブーム�といったようなものがおこった。  放送では、燕石を主人公にした「ラジオ小説」「詩吟物語」のたぐいが、しばしばNHKから全国に流された。原作はたいてい前にあげた草薙金四郎で、脚色|鷲尾雨工《わしおうこう》、山本礼三郎《やまもとれいざぶろう》一座などが出演した。  燕石ものは舞台でもいくたびか上演された。「明治座」の場合は、村山知義《むらやまともよし》の演出で、井上正夫《いのうえまさお》、水谷八重子《みずたにやえこ》、小堀誠《こぼりまこと》などが出ている。大阪の「歌舞伎座」では坂東寿三郎《ばんどうじゆさぶろう》、曾我廼家五郎《そがのやごろう》一座もとりあげている。  映画化も、大都映画で、木村毅《きむらき》原作の「南海英傑日柳燕石」をはじめ、いろいろと試みられた。  このような�燕石ブーム�がどうしておこったか。  草薙金四郎著『随筆日柳燕石』(昭和十六年四月発行)の自序のなかに、つぎのようなことばが出ている。 「燕石の�娑婆歌三解�の尊皇々々また尊皇、攘夷々々また攘夷、報国々々また報国という三大スローガンは、とりもなおさず現内閣の不動方針で、いわゆる�近衛声明�そっくりではないか」 というわけだ。近衛内閣の生まれたころ、全日本を包んでいたムードと結びつけて、これはつぎのように解釈されている。 「燕石の尊皇、攘夷、報国の思想は、今いう皇室中心主義、高度国防国家建設、滅私報国運動と一致し、われら一億の日本人が抱く固い信念と符節を合わすことになる」  燕石が勤皇思想を抱きはじめたのは、二十歳前後であるが、近衛内閣のもとで「大政翼賛会」ができて、�大東亜戦争�にふみきったのは、それからおよそ百年後のことである。ここでも日本歴史は一つの周期をつくっていることがわかる。  燕石時代の尊皇、攘夷、報国の三大スローガンと、近衛内閣時代の皇室中心主義、高度国防国家、滅私報国の三大スローガンを比べると、たしかに「符節を合わした」ように似ている点もあるが、その内容は必ずしも同じではない。似ているのは、スローガンそのものではなくて、これらのスローガンが一つにとけこんでつくり出すムードであり、それにあおられてある種の行動に駆りたてられる人間が多く出ているということである。  現にたとえば、燕石劇が「明治座」で上演されたとき、その演出を担当した村山知義は、左翼劇壇の最高指導者の一人で、日本の敗戦後は、またもとの左翼劇壇にかえっている。  もっとも、燕石には、�勤皇家��詩人��博徒�という三つのことばで代表される面があったが、このなかで、�勤皇家�と�詩人�は、水素と酸素が化合して水ができるようなものだけれど、�博徒�となると、そうはいかない。容易にくっつきそうもないこれら三つの要素が、燕石という一つの人格のなかで、珍しい化学反応を呈したところに、大きな魅力があった。すでに幕末時代�勤皇博徒�としての燕石の存在は、相当ひろく知れわたっていた。  それに�勤皇家�と�博徒�という二つの概念にしても、ぜんぜんくっつかないものでもない。というのは、現存秩序にたいする反逆、抵抗という点で、相通じるところがあるからだ。燕石劇を演出した村山が、燕石の勤皇精神をそのまま肯定し、共鳴したとは思えないが、燕石の�勤皇�は幕府を中心とする当時の社会体制の否定であり、一種の革命もしくは革新の思想であると解釈すれば、村山の燕石劇演出は、単なる身すぎ、世すぎのためばかりではないということにもなる。  ところで燕石の人間形成の過程を見るに、少年時代から詩文を愛し、特異な才能を示したというのは、琴平には全国から優秀な学者、美術家、芸能人、職人などが多くあつまってきて、小型ながら一種の�文化都市�を形成していたという土地柄とつながっている。そういう土地の分限者の家に生まれた燕石は、早くから師について、比較的進んだ教養を身につけることができたのである。同じ土地柄がまた、悪い半面ももっていて、彼に悪い影響をおよぼした。それがトバク癖で、ついに彼を職業的なバクチうちにしてしまったことは、前にのべた通りである。いずれにしても彼の人格のなかで、�勤皇家��詩人��博徒�という、ほかの土地では見られない奇妙なコンビネーションが生まれたわけだ。そのなかにあって、この�勤皇思想�は、どういう過程を経て、燕石の頭にうえつけられたのであろうか。  全国から多くの人間があつまるところは、同時に新しい情報の流れこんでくるところでもある。いつも多くの参拝者でにぎわっている琴平には、バクチうちやヤクザや凶状もちとともに、政治的亡命者も続々やってきて、いろんな情報を流したにちがいない。黒船渡来以後の日本におこった新しい政治的、思想的対立は、こういう土地に育った多感な青年の敏感な頭をゆさぶらずにはおかなかったのであろう。  [#小見出し]『日本外史』に見る反幕府的思想  燕石の勤皇思想は、頼山陽《らいさんよう》とつながっている。  燕石の師事したのは、金毘羅宮医の三井雪航、つづいて同じ土地の奈良松荘《ならしようそう》であるが、どっちも備後の神辺《かんなべ》で「黄葉夕陽村舎」という塾を開いていた菅茶山《かんさざん》の門人である。茶山は江戸後期朱子学の関西における重鎮で、詩人としても全国的な名声を博し、交友も広かったが、とくに強い勤皇思想の持主ではなかった。  松荘は、本居宣長《もとおりのりなが》の流れをくむ国学者で、燕石の頭へ最初に勤皇思想を吹っこんだ人物である。しかし、燕石を勤皇家たらしめる上に、決定的な影響力をもったのは、なんといっても頼山陽の『日本外史』で、燕石は『日本外史』を借りてきて手写したくらいである。  山陽も菅茶山の門下生で、一時は塾頭にえらばれ、養子になってくれとまでいわれたというから、頭はズバぬけてよかったのであろう。いずれにしても、雪航、松荘、山陽など、燕石に影響を与えた人物は、いずれも菅茶山の門下だから、燕石も間接には茶山の門下だということにもなる。  山陽自身も、文化十二年四月の末から五月にかけて、讃岐に来遊、燕石の家に数日間泊まっている。文化十二年というと、燕石の生まれる二年前で、父|惣兵衛《そうべえ》の時代である。当時の惣兵衛に勤皇思想があったわけではなく、山陽の名声もそれほど高まっていなかったが、訪ねてきたのでもてなしたのであろう。  山陽が生まれたのは安永九年(一七八○年)、生まれたところは大阪の江戸堀で、父|春水《しゆんすい》が広島から出てきて、そこで塾を開いていたのである。そう思って山陽の著作や人柄を見ると、大阪人的なものを多分に身につけていることがわかる。  父の春水が藩儒として芸州藩に迎えられたあと、山陽は菅茶山の塾の壁に、 「水凡、山俗、先生頑、弟子愚」 と書きのこして、大阪にとび出し、遊興の限りをつくして、無一物となり、おしまいには芝居の幕引きまでした。その前にも、誇大妄想か、精神分裂症か、とにかく異常と見られる点もあったので、広島の自宅へつれ戻され、藩法に基づいて、自宅に座敷牢をもうけて幽閉されていた。若き日の山陽は、島田清次郎《しまだせいじろう》を思わせるような早熟の�天才�であったらしいが、男女関係の面でも、まったくダラシがなかった。幸いにして本格的な狂人にはならなかったけれど、中年後の山陽の言動にも、どこか異常なものがあった。  山陽がその代表作『日本外史』の初稿を書きあげたのは文化四年で、彼が二十七歳のときである。史実という点からいうと、『日本外史』にはまちがいが多い。たとえば、�朝鮮出兵�の終戦処理で、明の使者が日本にきて秀吉を「日本国王となす」と書いた冊書を読みあげたとき、秀吉は大いに怒り、立ちどころにこれを破いたということになっているが、冊書というものは、厚い布でできていて、そうかんたんに破れるものではないのだ。  ほかにも俗説を無批判にとりいれたりした面があり、いろいろとまちがいも多いが、個人の著作で、蔵書も少なかったから、やむをえなかった。それに『日本外史』は、歴史書というよりは歴史小説に近い。いや、歴史を素材にした思想的宣伝書といったほうが正しい。その点で滝沢馬琴《たきざわばきん》の『八犬伝』に通じるものがある。『八犬伝』は儒教的な道徳精神をフィクション化したものであるが、『日本外史』は山陽流の皇室中心史観をノン・フィクションの形をとって表現したのである。『八犬伝』の第一輯が出たのは文化十一年(一八一四年)で、『日本外史』の初稿ができたときよりも七年おくれている。完成したのは天保十二年(一八四一年)で、かれこれ三十年間もかかっているが、そのころの日本には、新しい読者層が開拓されて、この種の読み物が歓迎される風潮が発生しつつあった。 『日本外史』は、日本歴史に名を借りて、反幕府的思想、今のことばでいうと�反体制�的思想を普及宣伝する上に大いに役立った。とくに「外史氏曰く」といった調子で、著者の意見をのべたところが、読者に大いにアピールし、明治維新の有力な原動力の一つとなった。  しかし、この書物が世に出たころは、ただの文学書のように見られた。討幕を直接示唆するようなところはなかったからだ。現に田沼意次《たぬまおきつぐ》時代の幕政の改革者として知られている松平定信《まつだいらさだのぶ》のごときは、『日本外史』を嘉納し、奨励金まで出している。  これよりも山陽のイデオロギーがもっとよく出ているのは、『日本政記』である。これは鎌倉幕府以来の武家政治を鋭く非難し、�大義名分�を明らかにしたもので、伊藤俊輔が井上聞多らとともに、イギリスへ密航したときにも、バイブルのように、これだけを大切にもって出かけて行ったものだ。山陽はメガネをかけてこのさいごの著作に筆を加えながら息をひきとったという。  [#小見出し]任侠道の�三人元祖�  日柳燕石という特異な存在を通じ、�反体制�ということで、�任侠�と�勤皇�が結びついたことは前にのべた。  明治維新以後においても、ときどき間歇的に�任侠ブーム�がわきおこっている。明治四十四年一月一日号の『日本及日本人』は、「現代諸家の侠的人物観」を特集し、全誌をあげてこの問題をあつかっている。これは明治天皇がなくなられ、乃木大将夫婦がそのあとを追ったちょうど一年前のことであるが、この現象は、そのころ日本をおおうていた危機感と関係があり、赤穂義士を中心とする�浪花節ブーム�ともつながる現象である。 �任侠道�というものは、日本特有のものであるという点で、当時の�識者�の意見はだいたい一致しているが、この道の元祖として三人の人物があげられている。  第一はスサノオノミコトで、これを唱えているのは、佐々木安五郎《ささきやすごろう》である。佐々木は「国民党」所属の代議士で、照山《しようざん》と号し、�蒙古王�とも呼ばれたシナ浪人だ。彼の説くところによると、スサノオノミコトの正しい名前は、タテハヤスサノオノミコト(建栄須佐之男命)というのであるが、このタテハヤの�タテ�は、�オトコタテ�の�タテ�で、日本の任侠道は、このミコトから始まっているというわけだ。これにつづくものが、タテミカツチノオノカミ(建御雷之男神)で、このミコトがアマテラスオオミカミ(天照大神)からオトコと見こまれて、トヨアシワラナカツクニ(豊葦原中津国)平定の使者として派遣されたということになっている。  このあとにも、タテミナカタノカミ(建御名方神)など、�タテ�のつく神がつづくのであるが、オトコダテの若い連中をイナセのアニイというのは、タテミナカタの住んでいた伊那佐(島根県大社の西方海岸)からきたもので、歌舞伎のスケロク(助六)も、実はシカラク(新羅)をさしたもので、新羅《しらぎ》の国祖となったスサノオノミコトを意味しているという。話もここまでくると、�信じようと信じまいと�読者の勝手ということになりそうだ。  おつぎは、侠客の開祖を文覚上人《もんがくしようにん》とするもので、これを説いているのは、東京文理科大学名誉教授|松本彦次郎《まつもとひこじろう》文学博士である。文覚は名うての�荒聖人�で、『源平盛衰記』によると、伊豆に流された|源 頼朝《みなもとのよりとも》を助け、父|義朝《よしとも》のドクロを首にかけ頼朝の挙兵をうながしたかと思うと、平家がほろびたあと、頼朝に乞うて重盛《しげもり》の孫の命を助けたりするところ、�侠気�の見本みたいになっている。  三番目は、侠客の元祖を大久保彦左衛門《おおくぼひこざえもん》とする説である。これを主張しているのは、�長閥陸軍�きってのヘソまがり三浦梧楼《みうらごろう》将軍だけにおもしろい。三浦にいわせると、 「彼奴(彦左衛門)の仕事は、家康という狸親爺とナレアイの狂言さ。天下をとれば、第一におこるのは、功臣の知行争いだ。家康はさすがに早くこれを察したから、その四天王にたいしても、大名にはとりたてたが、比較的小禄に安んぜしめたと同時に、元老たる大久保彦左衛門はさらに微禄をもって旗本の列に伍せしめた。当時功臣の随一の四天王すらかくのごとく、元老の彦左衛門すらかくのごとくとすれば、他の奴は不平をいうことができぬ」 というわけで、「小をもって大を制す」と、謀略につかわれたのが、大久保彦左衛門ということになる。しかるに、のちには逆に、「小をもって大をしのぐ」という風潮を生み、荒木又《あらきまた》右衛門《えもん》対|河合又五郎《かわいまたごろう》の仇討ちさわぎに見られるように、旗本対大名の争いにまで発展したのである。  さらに、�太平ムード�がつづくにつれて、�旗本八万騎�が堕落し、そのなかから�白柄組�などという別種のヤクザが発生し、ついに「大をもって小をしのぐ」にいたり、�町奴�のレジスタンスを刺激し、士道をいよいよ頽廃にみちびいた。  けっきょく、徳川三百年間に養われた�江戸っ子�気質というものは、ヤジ馬のなかにのみ存するということになった。交番や電車の焼き打ちもかれらの仕事で、さいごにのこったのは、 「なんでえ、べらんめえ」 という、利害得失の念をはなれた無内容のことばのみだ、というのが、三浦梧楼の「任侠論」の結論である。  しかしながら、任侠道の元祖といわれるスサノオノミコト、文覚上人、大久保彦左衛門の三人をくらべてみると、それぞれまったくちがった型の人物ではあるが、どこかに共通している面がないでもない。それはいずれも、権力にたいする抵抗の姿勢をとっている、少なくともそのようにうけとられているということだ。  これにたいして文学博士|井上哲次郎《いのうえてつじろう》は「任侠道は武士道の変形」だという断定をくだしている。わたくしにいわせれば、それは�変形�でなくて、�反射�である。平和があまり長くつづきすぎて、戦争のために生まれた�武士道�が停滞し、腐敗し、変質し、方向を見失っているうちに、これが町人のあいだに反射して、武士道の町人版、というよりも武士道の奇妙なイミテーションを生んだのだ。  [#小見出し]痛快な�侠客学校�の構想 『日本及日本人』の同じ号に、「侠客学校を起せ」と題する奇怪な、見方によっては痛快な論文が出ている。筆者は当時「東亜同文書院」の院長だった根津一《ねづはじめ》である。 「東亜同文書院」は、近衛文麿《このえふみまろ》の父|篤麿《あつまろ》を中心に、日中両国民のクサビとなる人物を養成しようという目的で、明治三十二年(一八九九年)南京に設立された大学で、のちに上海へうつり、昭和十四年大学令による大学として認可され、日本の敗戦までつづいていたものだ。  それよりも、根津という人物と彼の考えた�侠客学校�なるものの構想のほうが、この時代の空気を反映している点で興味がある。  根津は甲州の出身で、明治十八年陸軍大学校にはいったが、ドイツ人教授メッケルと衝突して論旨退学処分をうけた。メッケルというのは、普仏戦争がドイツの勝利におわってから、日本の陸軍に近代的編成をおこなうため、モルトケ将軍の推薦で、最高顧問として迎えられたもので、桂太郎《かつらたろう》も川上操六《かわかみそうろく》も、彼には頭があがらなかった。  これに盾ついたのだから、根津も相当の豪傑だったにちがいない。のちに彼は川上の世話で、予備役のあつかいをうけてシナにわたり、親友|荒尾精《あらおせい》らとともに、「日清貿易研究所」という看板をかかげて、もっぱら諜報活動に従事した。  荒尾も、根津と同じような人柄と経歴の人物で、参謀本部からシナに送りこまれ、当時上海で薬種商をいとなんでいた岸田吟香《きしだぎんこう》と結び、自分も漢口に「楽善堂」という薬屋を開業、二十数名の同志を日本からよびよせ、これにシナ服をきせて奥地へ送りこみ、きたるべき「日清戦争」にそなえた。  根津は、日清開戦の直前、危機一髪のところをのがれて帰国し、明治天皇をのせて広島の大本営にむかうお召し列車が名古屋駅を通過するさい、拝謁を仰せつかり、そのまま同じ列車で広島に行って、御前会議に参列、シナの国情や作戦について意見を言上した。  かくて、日清戦争には、第二軍参謀として大山巌《おおやまいわお》司令官について金州、旅順に転戦、北清事変、日露戦争にも、重要な役割を果たした。この間、「東亜同文書院」が設立されるとともに院長に迎えられ、大正十二年まで、二十年間もその地位にあった。  根津が�侠客学校�の創立を思いついたのは、陸軍を追われて京都にひっこんでいたときである。この学校をたてるには最低一万円の資金が必要なので、中江兆民《なかえちようみん》や平岡浩太郎《ひらおかこうたろう》に相談した。中江(本名|篤介《とくすけ》)はいうまでもなく、フランスじこみの自由思想家だが、平岡は頭山満らとともに「玄洋社」をつくり、その初代社長になった人物だ。当時は右も左も、こういうふうにつながっていたのである。  根津の郷里である甲州は、有名な親分|黒《くろ》駒勝蔵《こまのかつぞう》の出身地である。根津の書いているところによると、当時、東京には侠客らしい侠客がいなくなっているが、甲州と信州にはまだ相当強いのがいくらかいるから、それらをあつめて教育しようというのである。  この学校の監督には、そのころ、奇僧、怪僧もしくは傑僧として知られていた鉄眼《てつげん》和尚をもってくることを根津は考えた。鉄眼は磐城平の出身で、本名を甘田又五郎《あまだまたごろう》といい、天田|愚庵《ぐあん》と号した。戊辰(明治元年)の戦争で一家離散したため、写真師となり、身内を求めて日本全国を訪ねて歩いた。その間、山岡鉄舟《やまおかてつしゆう》、大岡育造《おおおかいくぞう》、陸羯南《くがかつなん》、清水次郎長などに助けられ、かれらと親しくまじわったが、のちに出家して�鉄眼�と名のった。  以上の顔ぶれを見てもわかるように、こういう特異な人物ばかりあつまって�侠客学校�をたてたとすれば、果たしてどういうものができたであろう。けっきょく、資金のつごうがつかなくて実現を見なかったのであるが、恐らく�任侠大学�実は大陸浪人養成所のようなものができあがったにちがいない。  それはさておいて、江戸最後の男達《おとこだて》として、日本任侠史上のしんがりを飾る花形として、この雑誌の上でも大いにたたえられているのは新門辰五郎《しんもんたつごろう》である。  同じ任侠の徒でも、辰五郎は火消しの頭で、バクチうちの親分ではなかった。信夫怒軒《しのぶじよけん》の書いたものによると、辰五郎自身は一生バクチをうったことがなく、アグラをかいたことさえもなかったという。といっても、地道な職業に従事していたわけではなく、浅草付近の地代や見世物の小屋料、鳶人足《とびにんそく》の下うけなどで大勢の子分をかかえ、ずいぶんぜいたくなくらしをしていた。  江戸に任侠の徒が発生したころ、�町奴�と�旗本奴�の代表として幡随院長兵衛《ばんずいいんちようべえ》と「白柄組」の水野十郎左衛門《みずのじゆうろうざえもん》の両派が大いにはりあったことは、あまりにも有名であるが、火消しのほうでも、�武家火消し�と�町火消し�がことごとに対立したもので、後者をひきいて立ったのが辰五郎である。明治末期の代表的な総合雑誌に、彼をたたえた記事が出ているというのは、江戸時代への郷愁が、そのころまだ江戸っ子の胸にくすぶっていたことを示すものである。  [#小見出し]気概の男新門辰五郎  信夫恕軒が新門辰五郎について書いたものによると、あるとき、子分が祭礼のお祝いに提灯をつくってもってきた。これには葵《あおい》の紋がついていたが、その上に日の丸が描かれていた。これを見て辰五郎は、大いに立腹し、葵を日の丸の下にするとは何事かといいながら、その提灯をバラバラに引きさいてしまったという。これは明治初年のことで、「辰五郎はこうした気概のある男であった」と、恕軒はほめている。  近ごろできる新しい国々では、憲法を制定する場合、たいていそのなかに国旗の規格もちゃんと書きこんでいるが、歴史の古い国では、国旗についてもむかしからの慣例をそのまま踏襲しているのが普通である。日の丸にしてもそうで、別に法律上の規定があるわけではなく、明治三年一月二十七日の「太政官布告」で、前から商船などにつかっていたものを採用することになっただけだ。  いずれにしても、明治初年に、国旗の概念が発生していたこと、ただし、将軍のお膝もとである江戸では、日の丸よりは葵のほうがまだ幅をきかせていたことがこれでわかる。少なくとも、辰五郎の場合は、同じ�任侠�の徒でも日柳燕石の逆で、幕府への郷愁が強く、今のことばでいうと�保守反動�の傾向が強かったのだ。  辰五郎は、錺職《かざりしよく》の長男として生まれたが、上野東叡山の衛士に可愛がられ、その女婿に迎えられた。たまたま舜仁准后《しゆんじんじゆんこう》が浅草寺に退隠して新たに一門をつくることになり、辰五郎がこれを守る役目を仰せつかったので�新門�と名のるにいたったのである。  当時、江戸の消防団は、「いろは四十七組」にわかれていたが、四番と七番は欠番になっていた。江戸っ子は�火�のヒとシを混同するため、これをきらったのである。各組の総取り締まりを�頭取�といい、その下に�頭《かしら》�がいた。辰五郎は「を組」の�頭�から�頭取�になったもので、六組七百三十一人の部下を支配していたという。  この「いろは四十七組」というのは、名奉行|大岡越《おおおかえち》前守《ぜんのかみ》忠相《ただすけ》が享保四年に考案したといわれているが、日本橋が�い�の一番になっていて、場末に近い浅草はビリのほうに属し、なにかあるごとに軽蔑された。辰五郎はそれがくやしくてならなかった。おまけに、彼の部下には浮浪人やならずものが多かった。それだけにいざという場合には勇敢でもあった。 �武家火消し�の中でもいちばん幅をきかせていたのは久留米侯お抱えのもので、�有馬火消し�と称し、�町火消し�をバカにしていた。これと辰五郎の部下が、火事の現場で衝突し、�武家火消し�のほうに十八名の死者を出した。  町奉行の取り調べの結果、辰五郎の側に同情があつまり、江戸市外へ追放という比較的軽い刑ですみ、辰五郎はたちまち江戸中の人気ものとなった。そして夜になれば、こっそりと市内の妻妾の家へまいもどっていた。これがわかると、奉行のほうでも、すててはおけず、辰五郎を逮捕して佃島《つくだじま》の監獄に入れた。  このとき、同囚のなかに、有名な小金井小次郎がいて、辰五郎と兄弟分の杯をかわし、小次郎が弟分となった。小次郎は本姓を関といって、小金井堤のサクラをうえたといわれる九代目|勘《かん》右衛門《えもん》の次男だが、天保十一年三月、武州二塚明神前の大ゲンカで売り出し、流浪しているうちにつかまったのだ。  ところが、弘化三年正月、本郷丸山町から火が出て京橋方面にまでもえひろがったとき、辰五郎は小次郎とともに、率先して消火に挺身し、佃島の貯油大倉庫に目ぬりをして、これに火のうつるのを防いだ。その功労が認められて、辰五郎も小次郎も放免となった。このときの奉行は、�遠山の金さん�という名で大衆文学によく登場する遠山左衛《とおやまさえ》門尉《もんのじょう》景元《かげもと》である。  遠山の父は景晋《かげくに》といって、昌平黌《しようへいこう》で大田南畝《おおたなんぽ》(蜀山人《しよくさんじん》)と首席を争った秀才だった。長崎奉行として、文化元年ロシアの使節が長崎にきたとき、これと折衝し、さらに同四年ロシア人がエゾにきたときにも、万延元年の遣米使節に副使として参加した村垣淡《むらがきあわ》路守《じのかみ》範正《のりまさ》などとともにこれを退去させている。  景晋の息子の景元は、若いころは金四郎《きんしろう》といった。遊興に身をもちくずし、無頼の徒とまじわって、腕にサクラの花のイレズミをしていた。のちに町奉行の地位についたが、真夏でもソデの長いシャツをきて、腕を決して人に見せなかったという。それだけに下情にも通じ、江戸の大衆のあいだには人気があった。  あるとき、吉原に盗難事件があって、容疑者の娼妓がヤリテの婆さんにつきそわれて法廷によび出された。そのさい、ヤリテは景元を見て、いかにも驚いたように、 「おや、まあ、遠山の金さん」 と呼びかけたところ、景元は微笑して、 「婆さん、久しぶりだのう、元気かい」 といった。このウワサがたちまち江戸中につたわって、景元はさらに人気を高め、�天下三奉行�の一人にかぞえられるようになったのだという。  [#小見出し]海舟の江戸焦土作戦  モスクワ最大の名所の一つに「レーニン丘」というのがある。もとは「雀が丘」といったところで、かつてナポレオンはここに立って炎上するモスクワ市街を見おろしたのである。今はモスクワでもっとも豪華な建て物の一つである「モスクワ大学」を背にして、眼下にモスクワ川が流れ、十万七千人をいれる大スタジアムを中心に、各種競技場、冬でも泳げる大プールなどができている。  ナポレオンがモスクワを占領したのは一八一二年(文化九年、十一代将軍|家斉《いえなり》時代)九月であるが、それから五十六年後の一八六八年(明治元年)、官軍が江戸にせまりつつあったとき、幕府側で陸事総裁の重職にあった勝海舟は、つぎのような詩をつくっている。   義軍|殺《さつ》をたしなむなかれ   殺をたしなめば全都空しからん   われに清野の策あり   魯にならって那翁をくじかん  この�清野の策�というのは、官軍を迎えうってみな殺しにしようというのではなく、江戸全都を焼野原にして、官軍が逃げ出さざるをえないようにする、つまり、ナポレオンを苦しめたロシア軍の故知に学ぼうというわけだ。  そのため、海舟は、東海道筋から関東いったいの侠客、博徒の親分たち三十余名をあつめて懇談し、命令一下、要所要所に放火させるとともに、房総地方の漁民を総動員し、ありったけの船を用意して、火の手があがると同時に、市民を安全地帯に避難させる計画を立てた。これには新門辰五郎、清水次郎長をはじめ、非人頭の金次郎《きんじろう》、吉原の元締|金兵衛《きんべえ》、踊りの花柳寿助《はなやぎじゆすけ》(のちに寿輔《じゆすけ》)から、有名な料亭の主人や年増芸者にいたるまで招いて、協力を求めている。  長州で高杉晋作が「奇兵隊」をつくったときにも、集団となってこれに応じたのは、力士、猟師、山伏などのたぐいであったが、ふだん肉体の力を発揮しているものは、準戦力として、非常事態にのぞみ、すぐに役立つと見られたのである。  一方、官軍のほうでも、東山道先鋒総督参謀の伊地知正治《いじちまさはる》が、江戸にはいる直前、同じような焦土作戦の計画を立てていたという。もっともその前に、西郷隆盛と海舟のあいだに話しあいがついて、江戸城の無血明けわたしとなり、どっちの計画も実現しなかったので、江戸市内は破壊されずにすんだ。伊地知は鹿児島藩士で、のちに修史館総裁、宮中顧問官となり、伯爵を授けられた。  海舟はまた、官軍がはいってからのちに江戸の秩序がみだされることを恐れて、いろいろな手をうっている。その一つに、自ら吉原にのりこみ、娼妓をことごとく召集してもらって、その前に両手をついていった。 「そこもとたちに折り入ってたのみがある。これから官軍の隊長や兵士たちがここへ遊びにくるだろうが、そのせつは日ごろの手練手管を発揮して、親切に、じゅうぶんに、もてなしてもらいたい。治安の維持は、この安房守(海舟)の責任となっているのだが、相手は勝ちほこる官軍で、力ずくでおさえることはむずかしい。江戸の全町民にふりかかる難儀をふせぐため安房守が切にお願いしたいのはこのことである」  これをきいて、遊女たちも大いに協力を誓ったという。それから七十七年たって、日本の無条件降服で、連合軍が進駐してきたときにも、同じようなことがおこなわれたときいている。  原敬《はらたかし》内閣の内相|床次竹二郎《とこなみたけじろう》が産婆役となって、「大日本国粋会」をつくったのは大正八年(一九一九年)十月で、明治維新からかぞえると五十一年たっている。  当時、日本国内における対立は、幕府対皇室もしくは薩長といったようなものではなかった。第一次世界大戦のあとをうけて、デモクラシー、マルキシズム、ソシアリズム、コミュニズム、アナーキズムなどから、ダダイズム、マボイズムにいたるまで、ありとあらゆる革新思想が、日本におしよせてきた。  これに対抗するために、�皇室中心主義�と�侠客道�が結びつき、「意気をもって立ち、任侠を本領とする集団」が誕生した。これが「大日本国粋会」で、名づけ親は杉浦重剛《すぎうらしげたけ》、総裁には前政友会総裁で元検事総長の鈴木喜三郎《すずききさぶろう》、以下各界の右翼系諸名士が名をつらねた。関東をはじめ、全国各地に半独立の支部をもち、労働運動や水平社運動を向こうにまわして大いにたたかい、ときには暴動に近いところまで行った。全盛期には会員が六十万に達したが、第二次大戦後に解散した。  床次は、鹿児島県出身の官僚政治家で、明治四十四年第二次西園寺内閣で、原敬内相のもとに内務次官となり、神道、仏教、キリスト教の合同を唱えたり、浪花節による民衆の教化を考えて、吉田奈良丸《よしだならまる》を鉄道院嘱託に迎えたりして、世間を驚かしたが、政治家としてはついに大成するにいたらなかった。 [#改ページ] [#中見出し]攘夷派の心理的条件   ——単純な攘夷から積極的国防思想にいたるまでの一つの公式——  [#小見出し]要領居士? 節斎  話はまた日柳燕石の時代にもどる。  燕石の勤皇思想が頼山陽につながっていることは前にのべたが、山陽の門下から森田節斎、節斎の門下から吉田松陰が出ている。松陰が外国へ密航を企てたとき、佐久間象山と節斎に相談したところ、象山は賛成し、節斎は反対した。このことは節斎、象山、松陰の人柄、その後のかれらの運命に関連している。松陰は刑死し、象山は暗殺され、節斎は明治まで生きのびた。  尊皇論者としても、節斎は松陰よりも視野が広く、攘夷よりは、むしろ開国に近い思想をもっていた。そのころ珍しい電気療法の機械を長崎で手に入れてつかっていたが、これは�ルバル�といった。 「中風などすべて痺《しび》れ外病を治し候器なり。右奇品ゆえ、買って知り候。医者これなど相用い候えば、大いに恐いものに候」  今でいうと、電気マッサージ器のようなものだったろう。  節斎はまた戯歌《ざれうた》を得意としたが、これは所々に伏せ字があって、判じものみたいだが、今でも週刊誌あたりで試みたら、うけそうである。クロス・ワード・パズルはアメリカの発明で、都知事選挙に立候補した阪本勝《さかもとまさる》が日本に輸入したものだが、これに似たものが百年も前から日本にあったのだ。しかも、文学的に見て、このほうがすぐれている。たとえば [#この行1字下げ] せいしよくが がいをせばせで てしりふく よこがじきして きりをしごする  これだけではなんのことだかわからないけれど、はぶかれた字を入れると、つぎのようになる。 [#この行1字下げ] 征夷大将軍が外夷を征伐せぬので、天子が立腹した、諸侯が上京して、禁裏を守護する  この時代の主な風潮を一首の歌にまとめて諷刺しながら、当局の忌諱にふれても、ちゃんといいのがれができるようになっている。戦前の出版物に多く見られた○○や××に類するもので、死んだ高田保《たかたたもつ》あたりにこういうものをつくらせたら、きっと傑作が生まれたにちがいない。  若いころ、節斎は前にのべたように梅毒遺伝のおそろしさを教えられ、絶対に女性を近づけなかったが、四十四歳になってやっと二十八歳の無絃《むげん》という女デシと結婚した。彼女は博学で、和歌、俳句にも長じ、�海内第一の女学士�といわれたが、顔中アバタだらけで、ひどい醜婦だった。  文久三年八月、中山忠光《なかやまただみつ》を盟主にして兵をあげた「天誅組」が、最初に襲撃したところは大和の五条で、ここの代官をまず血祭りにあげた。節斎はこの五条の町医者のむすこで、十津川の郷士をつのって訓練し、味方にひきいれることを提案したのは節斎である。それでいてこの事件がおこると、彼は髪をきって�愚庵《ぐあん》�と号し、世間に姿を見せなかった。したがって、浪士たちのあいだでは、さんざんな悪評で、「すみやかにさらしくびにすべし」ということになっているから、気をつけてくださいと、デシの一人が彼に手紙で知らせている。  その後、いよいよ戊辰の戦争がはじまって、朝廷と幕府の決戦体制となったときにも、節斎はついに姿を見せなかった。こういう人物の門下から、吉田松陰その他多くの革命家が出たのだから、ホンモノとニセモノの区別がいかにむずかしいかが、これでもわかる。ほんとのことは、多くの場合、死ななければわからないのではあるまいか。いや、死んでもわからないであろう。  節斎は倉敷にきて塾を開いていたので、燕石との交渉は古かった。二人がはじめて会ったのは天保十一年で、燕石は二十歳を出たばかり、学問好きの若主人であった。そのころ、大阪の歌舞伎俳優|中村歌六《なかむらかろく》(初代)が琴平にきて開演していたので、二人で見に行った。歌六は「鳴門白波」のお浪が一代の当たり役で、すごい人気だった。当時の燕石は景気がよく、席に数名の芸者をはべらせて、豪勢なもてなしをした。  それから十六年目の安政二年に、節斎がまた燕石をたずねてきた。二人は手をとりあって再会をよろこび、杯をかわして旧交をあたためたが、そのとき、節斎はふところから一冊の書物をとり出していった。 「これは市川|鰕蔵《えびぞう》という役者との問答を書きとめたものだが、序文をひとつ、君のような風流人にお願いしたい」  これをきいて燕石は怒った。 「わかれて三日たてば、刮目《かつもく》して待てと古人はいったが、今の燕石は十六年前の燕石ではない」  勤皇の志にもえている自分に、役者の書物の序文を書けとは何事ぞというわけだ。するど、節斎は笑って、 「君はイナカものだよ。なるほど、役者という職業そのものはいやしいかもしれないが、その扮するところは、忠臣、義士、貞女、侠客、その他どんな役でもやってのけるし、その影響力は大きい。これに反し、世間に豪傑、君子として通じているものでも、やっていることは役者とちっともかわらないのがなんと多いことか」  そこで、燕石もなるほどとうなずき、この序文を引きうけたという。  市川鰕蔵というのは、五代目市川|団十郎《だんじゆうろう》ののちの名で、父の四代目団十郎が「海老蔵」と称したとき、自分はザコのエビだと謙遜して�鰕蔵�と改めたのである。彼は当時の劇壇きってのインテリで、狂歌や俳句をよくし、『友なしの猿』その他の著書も多くのこしている。  [#小見出し]わが志は遊侠にあり……  清水次郎長の子分|森《もり》の石松《いしまつ》の「金毘羅代参」はあまりにも有名であるが、現在、琴平神社のどこにも、石松が参ったという確実な証拠になるようなものはのこっていない。  玉ガキや石ドウロウに彫りこまれた名前などからいって、新門辰五郎、それに角力の雷電《らいでん》、稲川《いながわ》などがここにもうでたことはたしかであるが、次郎長や石松にかんするものは見あたらない。  それでいて、石松が泊まったという宿屋が、現に琴平に三軒もある。そればかりか、石松が奉納した「五字忠吉の刀」と称するものが、宝物館に納められていたところ、先年、わたくしが参拝した直前、その刀が盗難にかかったというので、大さわぎをしていた。  いずれにしても、次郎長もしくは石松が、金毘羅もうでをしたことはまちがいないと見られている。というのは、次郎長は金毘羅を信仰していて、こんな話ものこっているからだ。  安政六年、次郎長が子分をつれて諸国を流浪中、上州から信濃、越後、加賀を経て越前に出ようとしたとき、行く先について子分たちと意見が対立した。  そこで次郎長は、このうえは神意にしたがうほかはないといって、西南の金毘羅の方角にむかって礼拝し、ツエを立てて、これが倒れた方向にむかうことにきめ、わざと敦賀のほうにむけて倒したという。石松に金毘羅代参を命じて刀|一口《ひとふり》を奉納させたというのは、翌万延元年四月ということになっている。  ところで、石松または次郎長が金毘羅もうでをしたとしても、この二人もしくはそのうちの一人が、日柳燕石と会ったであろうか。  それについて、「ことひら」という雑誌に、つぎのような話が出ている。  次郎長は、金毘羅もうでのかえりみち、かねて侠名をうたわれている日柳長次郎(燕石)をたずねたいと思い、道ばたで草を刈っていた農夫に、 「日柳長次郎さんの家はどこか」 ときいた。すると、その農夫は答えた。 「長次郎はおれだが、お前さんはだれかね」  次郎長が驚いて、よくみると、顔にうすいアバタがあって、ふうさいのあまりあがらぬ小男ではあったが、精力的な気が顔にあふれていた。次郎長はさっそくその場で仁義をきって、ひと勝負願いたいと申し出た。  すると、燕石は帯にしていた荒ナワをといて、長短二本をつくり、これで勝負しようといった。次郎長はただちにこれに応じ、ふところから百両出して賭けた。そのとき燕石のふところには一文の金もなかったけれど、負けたら命を投げ出すつもりだった。  この勝負、燕石の勝ちとなったが、さすがの次郎長も、燕石の大胆さに舌をまいて驚いたという。  だが、このあと、燕石は次部長を自分の家に招き、大いにもてなしたうえ、彼のために賭場を開き、発足のときには、とった百両の金を改めてワラジ銭として次郎長におくった。これで次郎長は、燕石の豪快な人柄にいたく感服したという。  こういう話は、郷土誌にはよく出ているものだが、たいていうまくできすぎていて、かえってシッポを出している場合が多い。坊ちゃん育ちの遊び人で、めかけを三人ももち、詩文には長じていたが、勤労の体験をほとんどもたない燕石が、荒ナワを帯にして草刈りをしていたということは、ちょっと考えられない。  ただし、つぎの話はほんとうのようである。燕石の詩友で雲隣庵松翁《うんりんあんしようおう》というのが、藩公から拝領のタバコ入れを紛失したときいて、 「すられたものなら、すぐとりもどしてあげましょう」 といって燕石はその日限まで約束したが、その通りになった。これはよくあることで、燕石が子分を動員すれば、それくらいのことはできたことと思う。  ついでに、次郎長の勤皇の関係について、『東海遊侠伝』にこんな話が出ている。  次郎長が子分とともに、遠州で石松の墓にもうで、三河の寺津までくると、一人の武士が彼に面会を求めてきた。その武士は大和の人で刈屋某《かりやぼう》といい、京都のある公卿の家に出入りしているものだが、その公卿が次郎長の侠名をきいて、ぜひ味方に引きいれたいと思い、子分をつれて上京すれば、食禄二十石を与えようという密旨を伝えた。これにたいして次郎長は、 「わが党、無頼の徒、いかんぞ士籍の規範に堪えん。わが志、遊侠にあって、仕官にあらず」 と辞退している。しかし、その武士はなおもしつこく次郎長を説いた。そして、こんご火急の事態が発生した場合には、すぐかけつけてくれるようにとたのみ、軍刀と金五十両を与えて去ったという。  これでみると、この時代には、万一にそなえて、博徒の親分を手なずけておこうとする動きが、佐幕、勤皇の両側にあったらしい。  [#小見出し]攘夷派に共通の公式  松山藩の儒者|山田方谷《やまだほうこく》が、一種の�大東亜共栄圏論�を展開したことは前にのべたが、これは攘夷派の諸侯や志士たちの鋭鋒《えいほう》を外にむけようとしたものだ。これにたいして、日柳燕石は�日支同盟論�ともいうべきものを唱えている。これは燕石が長崎を訪ねたときの見聞にもとづいたもので、 「西欧諸国は、好んで同盟を結んでいるが、これは周代末期のシナに似ている。とくにイギリスとロシアは連絡をとって、しきりに東洋に出没しているが、日本はこれと独力で対抗することはむずかしい。もともと日本とシナは一衣帯水の関係にあるのだから、日支両国は親善を結び、同盟して英露の毒牙《どくが》を防がねばならない」 というのである。  長崎に行くまえの燕石は、吉田松陰流の国防論者であった。これは松陰が師と尊ぶ山鹿素行《やまがそこう》から出ているもので、頼山陽の説も、だいたいこの系統に属していた。 「日本は古代に三韓を征服し、その武勇は海外にも知られていて、外国から攻めてくることも、土地をうばわれることもなかった。武器、馬具、兵法、軍法、戦略の点でもたいへんすぐれているから心配はない」 という考えかたである。したがって大艦巨砲をもつ西欧にたいして、少しも恐れる必要はないばかりでなく、かえって日本に有利であると思いこんでいた。日本の港は狭くて浅いので、大きな船がはいってこられないし、日本の船は小さいから、大きな大砲をうちこんできても、めったにあたらない。逆にこちらは小銃や弓をもってむかっていけば、的が大きいからあたりやすい。そして、さいごには、日本刀をひっさげて、敵艦に得意の切りこみをかければ、確実に勝てるというわけだ。  馬関戦争においても、長州軍は、はじめこういう考えでのぞんだために、ひどいめにあったのであるが、�大東亜戦争�においても、日本軍、とくに陸軍の首脳部の頭に、これが古い伝統としてのこっていたことは争えない。そしてそれがついに�タケヤリ戦術�にまでいたったともいえよう。  燕石も、はじめは山陽ばりの対外強硬論者であった。 「英は文字通りの�英�ではなく、魯は文字通りの�魯�(愚鈍)である。外国の王はすべていやしい商人だ。わが弓は強く、わが剣は長い。こいつらがわが帝郷に近づいてきても、どうしてはいってこられるものか」 という調子だった。それが長崎を見てきてからは、これまでの自分の考えは�膠柱《こうちゆう》の論(融通のきかない説)であり、�井蛙《せいあ》の見�(井戸のなかのカエルの見解)であると反省し、 「本邦は四面海をめぐらし、遠く夷国と潮脈を相接していて、舟船去来、朝《あした》に夕《ゆうべ》を待たずして行くのだから、どうしても水戦を学ばなくてはならない」 といって、大艦巨砲の必要を力説している。まずこういうものを完備してかかり、その上で開国すべしというのであって、単純な開国論、平和貿易主義ではない。平和時には、大艦を貿易につかって、国内の不用品を外国に売り、それによってえた金でさらに軍備を強化し、逆に日本のほうから英露を侵略して、国威を輝かすべきだというのであって、馬関戦争に高杉らが唱え出したこととまったく同じである。素行——山陽——松陰——晋作——燕石にいたる国防思想は、一つの系列、一つの公式をなして、かわりつつあったわけだ。  燕石も長崎に行ってから、熱心に、洋行を希望しているが、この点も高杉晋作に似ている。というよりも、これは転向した�攘夷派�にとって共通した心理的条件であったと見るべきであろう。  燕石の数多い著作のなかで、国防論について興味があるのは、「源義経《みなもとのよしつね》論」である。「柳子《りゆうし》(燕石)曰《いわ》く、源義経は兵を知るものにあらざるなり、その平氏に勝つは僥倖のみ。なにをもってこれをいうか」  その理由として、義経の一ノ谷・屋島の戦いはまちがいだといっている。  毛利元就《もうりもとなり》が陶晴賢《すえはるかた》を攻め、織田信長《おだのぶなが》が今川義元《いまがわよしもと》を討ったときには、兵力の上に大きな開きがあって、こういうばあいには、敵の虚をついて一か八かの勝負をいどむのもいいが、一ノ谷や屋島の戦いにおいては、源氏の兵力は決して劣っていなかった。幸いにして平宗盛《たいらのむねもり》が暗愚無謀であったため、義経は勝利をえたというものの、あのような冒険は名将のするべきことではない。もしも義経が天文・天正時代に生まれて、毛利や織田と戦ったとすれば、決して勝てなかったであろう。 という結論をくだしている。これは燕石の任侠精神、もしくは例の�判官びいき�が平家のほうにむけられたものか、それとも琴平というところが平家軍の大敗を喫した屋島に近く、この地理的なつながりが、心理的なものに変質した、つまり、郷土チームにたいするひいき心理から出たものと見るべきであろう。いずれにしても、正札つきの名将義経の�正札�を燕石が破っているところがおもしろい。  [#小見出し]ローマ字の大流行  燕石はまた、国字、漢字、蘭字の三つを比較評論している。  国字は、いろは四十七字からできていて、用法も簡便、豊太閤がこれを外国にまで普及させようと考えたのも、もっともだと思われる。  漢字は、ほんとうに必要なのは三千字くらいなのに五万以上もあって、博学者といわれているものでも、気の毒におぼえきれない状態にある。  蘭字は西洋のカニ型字であるが、醜陋《しゆうろう》で形をなしていない。  カナを重んじ、漢字を排斥しているところはおもしろいが、カナとローマ字の比較研究をせずに、ただ形の上から�カニ型�ということでしりぞけているのは、�国学かぶれ�まる出しである。しかし燕石も、蘭字についてこの程度の知識をもっていたことがわかる。  日本にはじめてローマ字を伝えたのは、天文十八年(一五四九年)鹿児島についたフランシスコ・ザビエルということになっているが、彼は日本で布教にのり出すと同時に、日本語をローマ字で表現する計画を立てたようである。  種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲を伝えられたのは天文十二年(一五四三年)だから、日本のローマ字史家にいわせると、「戦争の用具たる鉄砲と、平和の利器たるローマ字とが、ほとんど時と所を同じゅうして日本に伝えられたというのも、興味ある事実の一つだ」ということになる。  当時、この新しい宗教と珍しい文字に接した九州の大名たちは、自分の名前をローマ字で書いたばかりでなく、さっそくローマ字の印鑑をつくった。その点で、もっとも早かったのは、当時、鹿児島の島津と相対し、北九州を支配していた大友宗麟《おおともそうりん》である。宗麟はキリスト教に入信するとともに、フランシスコ(Francisco)という聖名をつけてもらっているが、彼の印鑑では、これが略されて FRCO となっている。  その後、この異国趣味は、たいへんないきおいで、九州全土に、とくに領主をはじめ、有力者層のあいだにひろがっていった。この形は、ちょうど終戦直後の日本で、フランキー堺とか、なかのしげはるとか、カタカナやひらがなまじりの名前を用いるものが、一部芸能人や知識人のあいだに続出したのと似ている。  宗麟と前後して、有名なガラシア夫人の夫である細川忠興《ほそかわただおき》、黒田孝高《くろだよしたか》(如水《じよすい》)、その子|長政《ながまさ》なども、ローマ字の印鑑をつくっているところをみると、これは当時の流行だったらしく、これらのなかには、今ものこっているものもある。なかでも、一風かわっているのは長政の印鑑で、これは二段になっているが、上段の KURO は、DA を省いたもの、NGMS は NAGAMASA のなかから母音を省いて、子音だけをつないだものである。  また、アジアにおけるポルトガルの貿易と布教のもっとも古い根拠地となっていたマカオでは、日本布教使のために、日本語学校がもうけられ、そこから日本語の辞書、文法書、教義解説書のようなものがいろいろと発行されているが、これらはいずれも、日本語をローマ字綴りにして書いたものである。  さらに、文禄元年(一五九二年)になると、肥後の天草で、「イソップ物語」などとともに「平家物語」がローマ字綴りで出版されているが、これらはいずれも世界的な稀本となっている。  ところで、現在、南北ベトナム、ラオス、カンボジアにわかれている旧フランス領インドシナは、かつては日本と同じように、シナ文化の影響下にあって漢字をつかっていたのであるが、その後、すっかりローマ字化され、ベトナム人で漢字を知っているのは、ごく少数の老人に限られている。ベトナム語も八声まであるむずかしいものなので、これに漢字をあてはめたり、併用したりしてきたのであるが、これを一つ一つ分解して、すっかりローマ字化してしまったのが、フランスの宣教師である。これもはじめは宣教師が自分の心おぼえのために、ちょうど日本人が漢字にカナをつけるように、ローマ字をあてはめてメモをとっていたのだ。これは便利だというので、さらに積極的に研究し、あれこれと工夫をかさねて、一つの様式を完成し、これを新しい国語として国民に奨励し、おしつけて、ついに漢字全廃に近いところまできてしまったのである。  フランスとしては、こういう形で、インドシナと古いシナとの歴史的、種族的、文化的、心理的つながりを断ちきって、名実ともにフランスの属領たらしめることをねらったのであるが、独立思想まで断ちきることができなかったことは、この地域の現状が物語っている。  日本でも、古くから国語のなかに漢字をとり入れて併用しているし、そのあとにローマ字がはいってきた点では、インドシナの場合とあまりかわりがない。それでいて、日本語のローマ字化がなかなかすすまず、日常生活のなかで漢字が、制限されたり、簡易化されたりしながらも、あいかわらず幅をきかせているのはどういうわけか。  [#小見出し]手きびしい漢字排斥論  日本でローマ字がそれほど普及しなかったのは、ローマ字のはいってくるずっと前に、カナという表音文字が、万葉ガナ、片カナ、ひらガナなど幾種類もつくられていて、広く普及し、実用化されていたからである。漢字というのは、日本語とはまったく性格も構造もちがっている言語を表記するためにできたもので、その不便をおぎなうものを日本人はすぐ発明したのだ。  その一方、日本で漢字が容易におとろえなかったのは、それが日本の社会に深く根をおろすとともに、支配層のエリート意識と切りはなすことのできないものになってしまったからであろう。  カナというのは、漢字を�真名《まな》�(ほんとの文字)といったのにたいすることばで、�仮もの�という意味である。ウイグル文字を改造した蒙古字、チベット文字を改造した元朝の八思巴《パスパ》字、朝鮮の諺文《オンモン》などにしても、だいたい日本のカナと同じような目的でつくられたものであるが、朝鮮の場合は一四四三年(足利義政《あしかがよしまさ》時代)李朝第四代の王世宗が自分でつくり、公布したのである。  しかし、�解放�後の朝鮮では、諺文というのは漢字にたいして卑下した名称だというところから、これをやめて、ハングル(hangwr)と呼ばれ、朝鮮の�国字�ということになり、官庁の看板なども、すべてこれで統一され、漢字は用いられていない。こういうところにまで、新興国の民族主義思想が強くあらわれ、もっぱら便宜主義から発した戦後の日本の漢字制限論と興味ある対照を示している。  だが、諺文は音標文字をつみかさねて構成したものだが、朝鮮語も日本語と同じように、同音異語が多くて、読みにくく、まちがいもおこりやすいとみえて、新聞を見ても、固有名詞などはたいてい漢字をつかっている。日本の国語審議会では、表音派委員と表意派委員で、親の仇のように争っているが、この問題は、かれらの考えているような単純なものではない。このさい、両派の代表が朝鮮にでも出かけて行って、実地についてよく調べた上、もっと冷静に議論を展開する必要があろう。  話がそれて、また朝鮮にまでとんでしまったが、日本における�ローマ字論�の元祖は新井白石《あらいはくせき》である。白石といえば、六代将軍|家宣《いえのぶ》の最高ブレーンとしてながく政権の座にあった大学者だ。  宝永六年、ヨワン・シローテというローマ生まれの宣教師が漂着し、長崎から江戸小石川の切支丹《キリシタン》屋敷に送られてきた。そこで白石は、彼と会って西洋事情をくわしくきき、『西洋紀聞』という書物にまとめているが、そのなかで、 「ヨーロッパ諸国、用いるところの字体二つあり。一つはラテン、二つにイタリヤの字。そのラテンは漢に楷字の体あるがごとく、イタリヤの字は漢に草書の体あるに似たり。その字母わずかに二十有余、一切の音をつらぬけり。文省き義広くしてその妙天下に遺音なし」 といってローマ字の便利なことをほめ、これに反して、 「漢の文字万有余、強識の人にあらずしては暗記すべからず。しかれども、なお声ありて字なきなり。さらばまた多しといえどもつくさざるところあり。いたずらにその心力をつくすのみ」 と、けなしつけている。それからさらに白石は、言語学的な立場から、ローマ字と漢字の優劣を具体的に論じているが、その後、半世紀ばかりたって、国学がさかんになるにつれて、漢字排斥の声も高くなっている。とくに、当時、�三大国学者�の筆頭といわれた賀茂真淵《かものまぶち》の漢字排撃にいたっては、実に手きびしいものであった。漢字の欠点を指摘したうえで、 「古《いにし》えはただ字の音のみかいて、ここのことばの目じるしのみなり。その後しばらく後には、字の心をまじえて用いたれど、なお訓のみ用いて、意にはかかわらざりしなり。  かく語を主として字を奴としたれば、心にまかせて字をばつかいしを、後には語の主はふれ失せて、字の奴となりかわれるがごとし。またかの字の奴が、みかどとなれる、わろぐせのうつりたるなれば、いまわしいまわし」  かくて漢字は、日本語の上にことばのミカドとして君臨し、日本語はそのドレイとなりさがったというのである。  江戸後期の生んだ天才的な数学者で経済学者の本多利明のことは、前にもちょっとふれたが、利明のローマ字・漢字比較論も、結論は白石、真淵と同じである。日本人以上に日本文化にくわしいドナルド・キーンも、その著『日本人の西洋発見』において、時流にぬきんでた利明の卓見を激賞している。  ところが、徳川時代も末期に近づいて、討幕思想が強くもえあがってくるにつれて、漢文がさかんになり、尊皇、攘夷派の学者や志士たちは、ほとんど漢文もしくは漢文もどきの文章でその志をのべている。というのは、和文がどっちかというと�平和のことば�であるのに反して、漢文は�たたかいのことば�で、宣伝煽動、討幕のスタミナを高めるのに効果的と見たからであろう。  [#小見出し]東は攘夷、西は尊皇  志は勤皇にありながら、幕府に金を出させて浪人をあつめ、「新徴組」といったような勤皇とも佐幕ともつかぬ団体をつくり、複雑怪奇な動きを見せて、ついに粛清されてしまった清河八郎《きよかわはちろう》は、こんなことをいっている。 「東北の人民には攘夷をいえ、西国の人民にたいしては尊皇をいえ」  これは同じ日本人でも東と西では基本的性格のちがっていることを見ぬいた発言である。明治の変革思想は、�尊皇�と�攘夷�の二つの要素から成り立っているのであるが、西日本では�尊皇�、東日本では�攘夷�に重点をおいて説くというふうに、使いわけをしたほうが人民を動かしやすいというわけだ。  東日本では、古くから中央政府にたいする反抗と、これにたいする討伐がくりかえされてきた。そのため、軍事中心的な気風が強く、�幕府�という名の軍事政権も、源頼朝以来、ずっと関東につくられ、徳川家にいたったのである。  これに反して関西は、非軍事的な文化や商業の中心となっていた。古くから朝鮮や大陸と貿易し、学問、技術、宗教などの移入の場となったのも関西である。これらはいずれも皇室やその周辺の貴族とつながっていた。  関東人は、世襲的職業軍人としての武家階級というものに、伝統的な親しみをもっているし、戦争というものも、それほど恐れてはいない。  ところが京都や奈良に近い関西では、朝廷、文化、貿易が、三位一体となっていた。したがって、�王政復古�といっても、人民の頭に浮かんでくる�復古�の内容がちがうのである。東では�攘夷�に、西では�尊皇�に重点をおくというふうにつかいわけをしないと成功しないという清河の説も、そこからきているのだ。  この基本的な形は、今も失われてはいない。たとえば、対共産圏貿易、とくに中国との貿易について、西日本が強い執着を示しているのは、この古い伝統と切りはなすことのできないものである。  学問の面においても、東では武家本位で、しかも幕府の御用学である朱子学が圧倒的に強かったのに反し、西ではこれに対立する陽明学がおこるとともに、国学が民間学者のあいだに、かなり広く普及していた。  かように、�尊皇攘夷�といっても、東と西では、伝統を異にするとともに、うけいれられかたもちがっていたのである。その結果、日柳燕石のように、博徒の親分で勤皇学者を兼ねるといったような特異な人物を生むにいたったのである。  琴平という土地が、当時のレジャー・ブームの中心として、全国の参拝者をあつめたのであるが、その参拝者には文化人も多く、一面では今の軽井沢に似た役割も果たした。地元で、こういった外来者を歓迎し、かれらに飲食を提供し、無料のホテルやクラブとして利用されていたのが燕石の家である。  金毘羅についてこんなことがいわれている。ここの奥山の神域は、何人《なんびと》も足をふみ入れることのできない禁断の地になっているが、今から三百五十年ばかり前、秀厳坊宥盛《しゆうげんぼうゆうせい》という別当がいて、この奥山へはいったまま�昇天�してしまった、ということになっている。実はひそかに姿をかえてここを脱出し、金毘羅信仰からくる�奇跡�を全国に宣伝してまわり、募財についても、あの手、この手と独創的な方法を案出して、金毘羅ブームを全国的につくり出したのである。  遠国の信者とか、このへんを通過する船の乗組員や乗客とかが、奉納のサイ銭、酒、初穂などをあつめてタルにつめ、これに「金毘羅大権現御宝前」と書いた旗や板をつけて流すのであるが、ひろったものは、必ずここへとどけることになっていた。戦時中はこの上を飛ぶ飛行機から目録をおとし、あとから金を送ってきたものだが、戦後は海上自衛隊の艦船からも、�金毘羅タル�が流されるという。潮流の関係で、これらはうまくこのへんへ流れつくようになっているらしい。  こういうところに、燕石のような人物が生まれたのも偶然ではないということになる。�金毘羅タル�が流れついたように、全国から勤皇派の志士が多く彼を訪ねてやってきたのである。  維新史上最大のナゾの人物の一人となっている本間精一郎《ほんませいいちろう》が、文久元年京都で挙兵の計画を立てたとき、燕石に三百の援兵と軍用金を求めてきている。また翌二年の「坂下門の変」に彼が関係したときにも、燕石の家でかくまわれている。 「天誅組」でも、燕石に目をつけていたが、「天誅組」の幹部のなかでもとくに交渉の深かったのは松本謙三郎《まつもとけんざぶろう》(奎堂《けいどう》)である。彼は三河刈屋の藩士だが、他日志をえたならば、久能山東照宮の墓をあばいてやると口ぐせのようにいっていたほどの家康ぎらいだった。名古屋で私塾を開いていたときの門人に任侠の徒が多かったというから、性格的にも燕石と通じるところがあったのであろう。「天誅組」の挙兵には、燕石も参加する意思はあったようだが、これは実現しなかった。  そのほか、燕石と親交のあったものとして、阪谷朗廬《さかたにろうろ》(男爵となった芳郎の父)、藤沢南岳《ふじさわなんがく》(作家|桓夫《たけお》の祖父)などの名をあげることができるが、一般に知られているのは、高杉晋作とのつながりである。  [#小見出し]天下三奇人の一人  長州人で燕石と交渉があったものは、草薙金四郎氏の研究によると、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎、井上聞多、伊藤俊輔、品川弥二郎、山県狂介、前原一誠、入江九一、福田侠平、遠藤謹助などである。  これでみると、当時長州人で�回天の偉業�に参画したもののほとんど全員におよんでいる。長州から船で、大阪、京都、江戸などへのぼる途中、金毘羅もうでをして、琴平には燕石というかわった人物がいることを耳にし、一つは物好きから訪問したのがキッカケとなって、のちには深交を結ぶにいたったものもあろう。燕石のほうでも、しばしば下関や萩を訪ねている。  久坂が富永友隣《とみながともちか》に与えた手紙のなかで、 「ぼくの東するや、途次中国を経て、平日耳にするところの文人、学士の門をたたき、一見驚くに足るものなし。すなわち文人、学士えがたからざるも、ひとり個党気概の士乏しきをいうのみ。しかれども、天下の大なる、いずくんぞ、その人なしとせんや。近く三奇人をえたり。曰く山岡《やまおか》、曰く安元《やすもと》、曰く日柳」 と、�三奇人�の一人として燕石をあげている。山岡(八十郎)は備後福山藩士だが、嘉永六年米使がきたとき、藩主|阿部正弘《あべまさひろ》が閣老としてとった処置が気にくわぬといって切腹して死んだ。安元(杜預蔵《とよぞう》)は大和郡山の藩士で、森田節斎の門下だった。米艦がきて同藩が江戸近海の沿岸守備を命じられて出張したとき、安元にオデキができた。さっそく医者に行って切開してくれといったところ、もう少し化膿するまで待てといわれた。すると安元は、その場で刀をぬいて、自分で切開し、あたりは血だらけになったけれど、顔色ひとつかえず、歩いて陣屋にかえって行ったという。  こういったことが、当時、全国的な評判になっていたらしい。今ならさっそく、週刊誌のトップ記事にでもとりあげるところだ。  やはり長州人の乃木希典将軍と燕石とは、年齢も時代もちがうし、生前にはむろん、なんの交渉もなかったが、将軍は燕石の詩が好きだったとみえて、揮毫を求められると、しばしばこれを書いて与えている。とくに「夜象頭山に登る」という燕石の詩を絶賛していた。燕石の詩は、前々から長州人のあいだで愛唱されていたというから、少年時代の将軍の耳にもはいっていたにちがいない。  高杉が讃岐へのがれ、燕石のところに身をよせることになったのは、大阪で幕府のスパイに目をつけられていることを知り、身辺の危険を感じてからであるが、琴平にきても高杉は決して安全とはいえなかった。それどころか、危機一髪というところを得意の機転と早わざでなん度もまぬかれている。  その前にも、すなわち万延元年五月、高杉は金毘羅にもうで、かねてウワサをきいていた燕石を訪ねようとしたけれど、そのときは同行者があったため、あきらめてかえった。そのあとまた元治元年十二月と慶応元年五月と、二度もここにきている。  もともと権力にそれほど執着をもたないものが、命を的に大きな仕事をやってのけたあとで、今のことばでいうと�挫折感�のようなものにおちいるのが普通である。晋作の場合には、それが二つの形をとってあらわれることが多かった。一つは頭をまるめて坊主のまねごとをして孤独を味わうことであり、もう一つは自ら死地を求めて歩いたり、群衆のなかにとびこんで、思いきってランチキさわぎをしたりすることである。晋作の生活には、それが周期的にくりかえされている。 「名をのがれ、跡を潜む、はかりごとなきにあらず、この間|万斛《ばんこく》のうれいをいかにせん、われをして君なく、また父なからしめば、早くまさに剣を脱して雲游をなさん」  こういう心境のあとでは、晋作はいつも自分のほうから冒険を求め、巧みにこれを切りぬけることにスリルを見出すのである。�君�とか�父�とかをもち出しているが、それは口実で、ほんとは性格的なものであったろう。晋作の生まれ、育った時代と環境がこういう性格をつくったともいえる。  こういった心境にあった晋作にとって、琴平はおあつらえむきの土地であった。そこには燕石というえがたい相棒がいた。  讃岐に潜伏中の晋作は、「備後屋助次郎」、「紅屋喜兵衛《べにやきへえ》」などという変名を用いていたが、「谷愛介《たにあいすけ》という印章までつくって所持していた。燕石も「赤松剣吾《あかまつけんご》」という変名をつかっていた。  変名というものは、一種の人格転換の作用をするものである。そしてその変名のつけかたに、そのとき、その人がひたっている、もしくは求めているムードがよく出てくるのが普通である。晋作が「備後屋」とか「紅屋」とか、町人じみた変名を用い、燕石が「剣吾」といったような武ばった変名をつかっているところがおもしろい。  燕石は、「呑象楼」と名づけている自分の家や同志の家に、晋作と|おうの《ヽヽヽ》をかくまい、連日酒をのんでは天下国家を論じたり、詩をつくったりして、いい気持で、非合法生活を楽しんでいたらしい。 「酔中に往時を談ず、かえって虚誉をえたるを恥ず」  ときに高杉は二十六歳、燕石は四十八歳で、年齢は親子ほどもちがっていた。しかし、晋作のつくった�奇兵隊�にも、博徒が多く参加したというが、気分的にもこの二人は相通ずる点があった。それは自分のおかれた時代的、身分的な環境のワクから脱出しようとするはげしい意欲である。�勤皇�、�攘夷�、�討幕�などというスローガンにしても、実はすべてこの意欲から発したものだ。  [#小見出し]妻も妾も不美人ばかり 「ご存じもござ候や。日柳氏は博徒の頭にて、子分千人ばかりもこれあり、学文詩賦も、腐儒迂生のおよぶところにこれなく、実に関西の一大侠客にござ候。弟《てい》もはなはだ留め候につき、当分はこの地に潜遊の覚悟にござ候。なににしても、日柳氏が一身をなげうちて潜伏させると申すくらいにつき、決してご懸念はご無用に存じ奉り候。  外藩人は、他言など仕るようなことは少なく候えども、長州人は軽薄につき、露言が多くて困り入り候。弟のこの遊行は、他国にあらわれる気づかいはこれなく候えども、内輪人よりあらわるることをはなはだ懸念に存じ候。なにとぞ世上にあらわれぬよう、ご配慮をたのみ奉り候」  右は晋作が、讃岐から長州の同志|入江和作《いりえわさく》に出した手紙である。燕石の�子分千人�というのは、話が少し大げさにすぎるけれど、晋作が燕石にすっかり傾倒している気持がよく出ている。また長州人は�軽薄�で信用がおけないといっているのもおもしろい。  ところで、燕石の家庭だが、父はやはり学者肌だったから、家業の質屋など、燕石の母が一手で切りまわしていたらしい。その父が死んでからも、燕石は好きな学問、詩作、バクチ、女道楽、客の接待など、家業をそっちのけに、したい放題の生活をしていたので、やがてうけついだ財産もすっかりつかいはたし、中年以後はバクチのあがりで生活せざるをえなくなったのである。  燕石の正妻はヌイといって、琴平の遊女屋の娘で、長男道之助が生まれたけれど、夫婦のあいだは冷たかった。そして彼女がなくなる前、ヒサという女と再婚、いや、重婚をしている。そればかりでなく妾が三人もあった。お繁、お沢、お松といったが、いずれもあまり美人ではなかった。芸者遊びをするにも、燕石はわざとみにくい女をえらんだという。この点も晋作に似ている。  三人の妾のなかで、燕石のもっとも愛したのはお松だが、太った大女で、胆力もあり、博徒の親分の妻としてはおあつらえむきで、正妻同様にあつかわれていた。  燕石は井原西鶴《いはらさいかく》をまねて『|金 郷《こがねのさと》春夕栄《はるのゆうばえ》』と題する洒落本《しやれぼん》を書き、そのなかで、 「ここに玉藻屋象之助《たまもやぞうのすけ》という通客あり、玉の盃底からみがきあげたる顔《かんばせ》は、光源氏《ひかるげんじ》の君にもおさおさ劣らぬ色男にて、天下第一という美人を掌中に入れんという大願をぞおこしける」 と、自分を�光源氏�あつかいしているところは、まったくいい気なものだが、燕石自身は、前にものべたように、風采のあがらないほうだし、相手の女にも、美人といえるようなのはいなかったのだ。  二十八歳のとき、負債で首がまわらなくなり、本宅を人手にわたし、小さな家にうつらねばならなかった。そしてその家を�柳東軒�といい、のちに�撫松楼�とか�愛松軒�とか名づけているが、これはお松を愛する意味である。  晋作が|おうの《ヽヽヽ》とともに訪ねてかくまわれたのは、燕石がお松と住んでいた家である。そのあとはのこっていて、わたくしも前に訪ねたことがある。晋作と燕石をめぐる伝説となってつたえられている事件の多くは、たいていこの家でおこっている。  ある日、晋作が髪結床に行くと、前にどこかで見たことのある職人がいて、晋作の姿を見るなり、急に姿を消した。恐らく、見なれぬ男がきたら知らせよという、手配書のようなものがまわっていたのであろう。とにかく、これに気がついた晋作は、急いで燕石の家にかえった。すると、入り口にお松が立っていて、 「たいへんです。あなたさまの素性がわかったとみえて、たった今、役人が人別調べにやってきて、手前の主人も引き立てられていきました」  そこで晋作と|おうの《ヽヽヽ》は、身のまわりの品をフロシキにつつみ、例の三味線箱を背負い、財布から小粒の金銀を出して座敷じゅうにまきちらし、ほおかむりをして、尻をはしょって、往来へとび出した。  そのさい、晋作はわざと床の間に小さな袋をおき忘れていったが、そのなかには、女からきた艶書、つまりラブレター(一説には春画)がはいっていた。  小粒をまきちらしたのは、あとからやってきた役人たちに、これをひろわせ、手まどらせて時をかせぐためか、それとも金毘羅もうでの客がここでバクチを開帳していて、あわてて逃げ出したと思わせようとしたのか、どっちかであろう。また小さな袋に艶書(または春画)を入れて、あとへのこしたのは、天下の志士ともあろうものがこんなものをもって歩くはずはあるまいと悟らせようとしたのかもしれない。  それにしても、晋作がこんなものを用意していたというのもうなずけないし、どう考えてもこの話は、晋作の当意即妙の機転をつたえるために、だれかが創作したもののようである。  それはさておいて、晋作たちが往来へ出ると、金毘羅参りの団体がやってきたので、そのなかにまぎれこみ、役人の目を巧みにのがれた。そしてひとまず多度津に行き、そこから特別仕立ての船で下関にたどりついだという。  [#小見出し]獄中でも討幕の歌  晋作が讃岐を脱出したあと、燕石は逮捕されたが、そのときのいきさつはつぎのようであった。  琴平の「芳橘楼」という料亭で、燕石が求められるままに揮毫《きごう》しているさい、突如として、十数人の捕吏がおしよせてきた。燕石はいちはやくその気配を感じたけれど、少しもあわてるようすがなく、かたわらの女にゆっくりと墨をすらせ、みごとな筆のはこびを見せた。  終わるのを待って捕吏が、 「ご用!」 と叫んで、かかってこようとしても、燕石は相手にせず、また別な紙をひろげさせた。捕吏はその気合いにのまれ、そう軽々しく手出しもできないで、ためらっているすきに、燕石は目くばせして子分を晋作のかくれがに走らせて、急を知らせ、時をかせがせたのだという。  晋作が讃岐に潜在していた期間は、かれこれ一か月くらいであった。その間、転々としてアジトをうつしながら、長州、京阪、江戸などとの同志とも、秘密文書でさかんに連絡をとっていたことは、地下共産党員の場合とまったく同じで、レポをとりかわす場所には、金毘羅の高ドウロウの下とか、青銅の烏居のそばとかをえらんだという。  金毘羅大権現には、諸侯はもちろん、禁裏の信仰が厚く、毎年正、五、九月の三回にわたり、御所から貴い品を頂いて、白木の唐櫃《からびつ》におさめ、封印をほどこして、聖寿の万歳を祈侠した上、御所におとどけするのであるが、これを�禁裏お撫物《なでもの》�といった。このときの行列は十人前後から成り立っていて、これが通るときは、一般は土下座したものだ。燕石はこの行列を司っていた人物にわたりをつけて、そのなかに勤皇派のレポーターを潜入させることに成功した。なるほど、これなら絶対安全である。  当時、おもにこのレポーターの役をつとめていたのが、森寛斎《もりかんさい》といって、勤皇派の画家だった。寛斎は円山応挙の系統だが、明治にはいって、名声とみにあがり、帝室技芸員にえらばれた。  のちに、晋作が急に密用で上京しなければならなくなったときにも、やはりこの�禁裏お撫物�を利用している。戦前、共産党の取り締まりがきびしかったころ、日共のある幹部が新聞記者手帳を手に入れて、それでいつも警察の非常線をうまうまと突破していたことを思い出させる。  燕石の住んでいた榎井村は天領で、倉敷代官所の管轄下にあって、治外法権に近い状態におかれていたことは前にのべたが、元治元年十一月から、讃岐の天領は高松藩の領有となった。  もともと高松藩というのは、水戸藩にたいして、宗家と支家の関係にあった。高松藩祖|松平頼重《まつだいらよりしげ》は、光圀《みつくに》の兄であるが、光圀はこれをさしおいて宗家の水戸藩を相続したため心苦しく思い、頼重の長子|綱方《つなかた》を迎えたが病死したので、綱方の弟|綱条《つなえだ》を世子として水戸家をつがせた。光圀が『大日本史』の編集を思い立ったのも、そういった精神上の苦しみから出たものだといわれているが、勤皇の精神が藩の伝統としてうけつがれている点では、高松藩も水戸藩に通じるものがあった。のちには、燕石をはじめ、藤沢南岳など、勤皇派の志士たちの熱烈な庇護者となった松平頼該《まつだいらよりよし》のような人物も、藩主の一族から出ている。  だが、幕府も末期に近づいて、勤皇、佐幕の対立が激化してくると、高松の藩論も、二つにわれざるをえなかった。というよりも、幕府の親藩の一つとして、佐幕的傾向が圧倒的に強くなった。  そこで、かねて目をつけられていた燕石が、晋作らをかくまったりしたことから、その身がわりに逮捕され、投獄されるにいたったのも、やむをえない処置だったといえよう。燕石の前にも、高松藩の勤皇派はすでに幾人かつかまっていた。  燕石の罪名は国事犯で、賭博犯ではなかった。獄則は、おもてむきはきびしかったが、牢番にワイロを与えれば、かなり自由がきいた。帰国後の晋作らの目ざましい活躍ぶりも、獄中の燕石に手にとるようにわかっていた。  燕石といっしょに、もう一人|美馬援造《みまえんぞう》というのが捕えられた。美馬は徳島県美馬郡美馬町にある願勝寺(真言宗)の住職で、君田《くんでん》または桜水《おうすい》と号し、燕石とは兄弟のような間柄で、燕石のいるところ、必ず美馬がいた。明治になってからの美馬は、健康を害し、旧同志の多くが立身出世したなかで、琴平村塾の先生でおわった。  燕石の隣房に、やはり勤皇派の同志で藤川三渓《ふじかわさんけい》というのがはいっていた。三渓は�高松藩の高杉�ともいうべき人物で、�奇兵隊�に似た民兵を組織して�龍虎隊�と名づけ、これに高島秋帆《たかしましゆうはん》の洋式訓練をほどこした。また文久三年の石清水《いわしみず》行幸のさいには、頼該に説いて、郷兵五百をひきいてこれに参加しようと企てたりしたため、藩の重役ににらまれて捕えられたのである。王政復古とともに釈放され、官軍について奥羽地方の平定に参加、おわって修史局御用掛となったがパッとせず、晩年には捕鯨業を計画したが、実現するにいたらなかった。  燕石と三渓は、獄中でさかんに詩のやりとりをした。燕石は�猿赤《えんせき》�または�楽王《らくおう》�と号したが、�猿赤�は�燕石�に通じるもので、�楽王�は「王を尊び、王事を楽しむ」という意味である。「鉄面皮社中後進日柳燕石」などという印もできていた。これも燕石一流の偽悪趣味から出たものであることはいうまでもない。そのころ燕石のつくった歌にこんなのがある。   いせ海老のこしはしばらくかがめて居れど        やがて錦のよろいきる  このように燕石自身も、近い将来に、錦のヨロイをきて討幕の軍をすすめる日がくることを夢みていたのであるが、その日は四年後にやってきた。  [#小見出し]詩は倒幕のための爆弾だ 「松川事件」らしいものをあつかった三島由紀夫の原作が反共的だというので、「文学座」が分裂を賭《と》してまで争った『喜びの琴』という芝居をわたくしは「日生劇場」で見たが、そのプログラムに、同劇場の重役でこの芝居の演出者である浅利慶太氏がこんなことを書いている。 「古今を通じて優れた芝居は数多くあり、感動を与えつづけてきてはいます。が、それによって現実をかえることができたとか、歴史を動かすことができたとかいう例はまったくありません。そうした面からみれば、芝居は無力なものです。芸術は無害なものです」 といった調子で、いかにも�重役演出家�らしい演劇の無力、無害論を展開している。もしそうだとすれば、芝居もパチンコやボーリングとかわりはないということになる。わたくしにいわせると、この説は半分ほんとうで、半分はウソである。演劇というものが、かつて左翼系の人々が考えていたほど強力な革命運動の�武器�だとは考えないけれど、浅利氏のいうほど社会的に無力、無影響なものではない。  一八三〇年ビクトル・ユーゴーの『エルナニ』が「フランス座」で初演されたときの感激、その異常な文化的、社会的影響はすでに伝説の部類に属するとしても、芝居が観衆になんらかの感動を与えるものである以上、それだけ「現実をかえる」力をもっていることは明らかである。少なくともそういう性質の芝居のあることは否定できない。  かつて燕石は、つぎのような詩をつくった。  「日本に聖人あり、その名を楠公という。誤って干戈の世に生まれ、剣をさげて英雄となる」  この意味は、本来�聖人�である楠公が、たまたま乱世に生まれたため、�忠臣�または�英雄�とされたのであるといって、楠公の格上げをしたのである。  この詩は、長州ではたいへん評判になり、正論派の志士たちのあいだで、松陰の『正気の歌』などと同じように、いろいろな機会に愛唱されたのであるが、燕石の友人のなかには、この詩を認めないものもあった。その理由として、第一に表現がはげしすぎること、第二に平仄《ひようそく》の合っていない点を指摘した。これにたいして燕石はいった。 「詩は志である。口をついて出る魂の叫びが真の詩である」  ことばの上の技巧とか、韻律とかいうものはどうでもよい。尊皇の精神が強く出ていさえすればいいというのであって、いわば幕府を倒すための爆弾のようなものでなければならぬというのだ。  詩ばかりではない。小説でも芝居でも、社会的変革期につくられる作品には、こういう性格をおびたものが多い。ソ連でも、かつてそうであったが、近ごろの作品には、そういう要素が完全になくならないまでも、ひどくうすれてきている。それだけソ連社会そのものの性格がかわったのだ。  とくに日本では、日本一豪華で、入場料の高いことでも日本一といわれる劇場において、『ものみな歌でおわる』といったような芝居が上演されたかと思うと、すぐそのあとをうけて芝居そのものの無力、無害が強調されたりするということは、今日の日本ぜんたいが、いかに太平ムードに包まれているかを示すものである。  ところで、獄中の燕石は、獄舎を�安楽居�と命名し、『安楽居詩集』、歌集『松のふた葉』、随筆集『捫虱《もんしつ》余話』(捫虱はシラミをひねる)といったような著作をのこしている。  江戸時代の監獄は、囚人にたいして、ひどい拷問その他言語に絶する非人道的なあつかいをする一方、融通のきく面やまぬけた面もあった。ソ連の�流刑�にしてもそうで、わたくしがソ連の博物館などで見たレーニン、スターリンなどの流刑生活は、日本の網走刑務所などとは比較にならぬ自由を与えられていたようである。スターリンのごときは、逮捕八回、流刑七回におよび、つかまるごとに脱出に成功しているが、それだけの自由さ、ルーズさがあったというわけで、かつての日本の行刑制度のもとでは、とうてい考えられないことである。  燕石の獄中生活は、慶応元年五月から明治元年正月まで、四年近くにおよんでいるが、その間、担当獄吏の人柄や時世の変化によって、待遇の上に大きな変化があった。書物や筆硯の差し入れなどの点で、きわめて寛大なときもあったが、きびしい獄則がそのまま適用されたこともあった。  しかし、もっとも困難な条件のもとにおいても、燕石は獄吏の目をぬすんでは執筆をつづけた。それはどういう方法によったのかというと、なんども習字につかった古草紙を一枚もらいうけて、これを細くきり、カンゼヨリをなん本もつくるのである。これには墨汁がよくしみこんでいるので、唾液でぬらすと、筆の代用品、つまり、万年筆かボールペンの役割を果たすわけだ。これをチリ紙の上にすべらしていくと、カンゼヨリ一本で、普通の手紙なら、十本くらいはわけなく書けたという。  これで燕石は、外部の同志と連絡したり、著作にふけったりしているうちに、待ちに待った王政復古の日がやってきたのだ。  [#小見出し]ショウユ屋の地下がアジト  讃岐の勤皇派は、日柳燕石ばかりではなかったし、かくまわれた勤皇派の志士も、高杉晋作ばかりではなかった。琴平で、危機一髪というところを得意の機知と幸運でまぬかれた晋作が、無事に長州へかえりつくことができたのも、讃岐の同志間に連絡網が確立していたからである。  丸亀は京極藩五万石の城下町というよりも、琴平の玄関口、金毘羅もうでの上陸地点となっていたところだが、天保年間に築港が完成してますます栄えた。人の出入りがはげしくて、取り締まりもそうきびしくなかった点で、琴平とあまりかわりがなかったらしい。とにかく特色のある町で、古くは浪花節などで知られた孝子|田宮坊太郎《たみやぼうたろう》、江戸中期の女流文学者|井上通女《いのうえつうじよ》、『神霊矢口渡』の作者で科学者でもあった奇才|平賀源内《ひらがげんない》などを出している。  この丸亀に、越後屋という大きなショウユ屋があった。これが勤皇派にとって絶好のアジトとなっていたのだ。船のり、船宿、客引きなどと連絡して、情報網をはりめぐらし、ひそかにこの地へ亡命してくる志士の送り迎えはもちろん、倉敷代官所から捕吏がやってきたような場合には、いちはやくこれを知って、必要な方面にその情報をつたえ、前もってその対策を講じさせた。  越後屋の主人は、村岡藤兵衛《むらおかとうべえ》といったが、これがなくなったあと、未亡人の箏子《ことこ》が女手一つで店を切りまわしていた。彼女の実兄で小橋安蔵《こばしやすぞう》というのが、讃岐勤皇派の代表的闘士で、箏子はその影響をうけたのである。箏子の一子|宗四郎《そうしろう》も、少年時代から勤皇派精神をつぎこまれて成長した。「天誅組」の主将松本謙三郎(奎堂)のことばによると、小橋一族は、「讃岐の名和氏《なわうじ》」(後醍醐天皇を伯耆の船上山に迎えた名和|長年《ながとし》の一族)ということになっている。  越後屋は、家の構造までがアジトむきにできていた。ショウユ醸造用倉庫の下が、二間に一間半、深さ六尺の地下室になっていて、周囲には花崗岩をめぐらし、しっくいで仕上げができていたというから、当時としてはまず完全に近いものである。その後、この家は吉田家の所有となり、今も丸亀市魚屋町五十番地にのこっているが、地下室の上は座敷になっている。  このことを記した文献を見てわたくしは、グルジア(ソ連邦を構成している共和国の一つで、スターリンの出生地)のトビリシという町の名所になっている地下印刷所を思い出した。ここで、一九〇三年ごろ、この地区の共産党員が機関紙『ブルゾーラ』(「闘争」という意味)を出していたのであるが、それより約五十年前に、この丸亀の地下室では、日本の勤皇派の志士たちが、ひそかに弾薬や雷管を製造していたのである。  越後屋の外には、ヘイをめぐらしてあったが、その下は下水道になっていて、これが丸亀の港口まで通じていた。地下室でつくった秘密兵器を、そこから外へもち出すこともできた。外からきた志士たちも、この間道をつたって、越後屋へ出入りしていたのである。  これらの秘密兵器は、「天誅組」のためにつくられたのであるが、文久三年八月、朝議が一変し、長州を中心とする勤皇左派がいっせいに失脚、�七卿落ち�となるとともに、「天誅組」の�大和義挙�も、あっというまに失敗してしまったため、けっきょく使用するにいたらなかった。  これより約半年前の文久三年二月二十二日、京都の等持院に安置されていた足利尊氏《あしかがたかうじ》ら三代の木像をさらし首にした事件については前にのべたが、この計画に参加したもので、野代広助《のしろひろすけ》というのが讃岐に逃げこみ、越後屋にかくまわれている。  この事件は、きわめて大規模なもので、数百人の関係者があり、大庭機《おおばたくみ》という会津藩のスパイまではいっていて、その大部分は検挙されたのであるが、野代は運よく京都を脱出して、燕石のところに救いを求め、燕石の門下生の親類ということで、越後屋にかくまわれたのである。しかし、その後まもなく、熱病にかかって死亡し、燕石の親友の美馬君田が野代のために墓標を書いている。  小橋安蔵は、�七卿落ち�の直後に捕えられ、明治元年、高松藩が官軍に降服したときに釈放されたが、明治五年に死亡した。安蔵のオイにあたる村岡宗四郎も、少しおくれて同じ事件に連坐し、捕えられて獄中で喀血、慶応三年一月十九日、明治維新の�夜明け前�、二十一歳の若さで牢死した。大正四年になって、この�讃岐の名和�一族には、それぞれ正五位または従五位をおくられている。  ところで、高杉晋作の讃岐脱出の経路については異説が多く、真相は不明であったところ、讃岐の俳人でやはり勤皇派の古市麦舟《ふるいちばくしゆう》の伝記のなかから、あたらしい事実が発見された。それによると、捕吏が晋作をねらっていることを知った麦舟は、燕石のところにかけつけて急をつげ、晋作のかくれた家に行って脱出をすすめ、自ら案内役を買って出て、まわり道をしたうえ、船をやとって長州へ逃がしたのである。わかれにのぞんで、晋作は一詩を賦して麦舟におくったが、それが今も古市家にのこっているという。  [#小見出し]桂も危機の連続  久坂玄瑞は燕石を日本の�三奇士�の一人にかぞえたが、燕石のおかげで命びろいをした高杉晋作は、燕石を�関西同志の頭�と呼び、桂小五郎は、燕石を�先生�といって尊敬している。  晋作と燕石との関係は、いろいろと劇的な事件があって有名になったけれど、ほんとは桂と燕石のつながりも、これにまさるとも劣るものではなかった。とくに晋作の死後、燕石の面倒を見て、これを引き立てたのは桂である。  越後屋という丸亀のショウユ屋のことは前にのべたが、燕石の住んでいる榎井村にも、「新吉田屋」という酒造家があった。主人は長谷川佐太郎《はせがわさたろう》といって、燕石が経済的に没落したあと、これに代わって、この地方へ亡命してくる勤皇派の志士を助けたのはこの佐太郎である。 「新吉田屋」には、同志たちのあいだで「梧陽堂」と呼ばれていた離れ座敷があった。これは三畳しかなかったけれど、捕吏がきてもちょっと気がつかぬようにつくられていて、潜伏するには都合がよかった。晋作が大阪から逃げてくる前、桂はここでかくまわれていた。たまたま彼がこの密室の外にいたとき、捕吏がやってきて、危うくつかまるところだったが、とっさに彼は酒ダルのなかに身をかくした。そこへ同家の女中が出てきて、機転をきかせ、巧みに捕吏をあざむいて引きとらせたという。  元治元年六月五日の「池田屋事件」では、桂も死んだということになっていた。薩藩の海江田彦之丞《かいえだひこのじよう》が出したこの事件の報告書では、 「長州藩士桂小五郎というものも、右の騒動につきうち殺され候由」 と書かれている。  事件当時、桂は「新選組」に追跡されて、一時はあぶなかったのであるが、勤皇系に属する対馬藩邸に逃げこんで助かったのである。しかし、逃げこんだものの、そこから出られなくなって、京都の商人で長州藩の用達をしていた今井太郎《いまいたろう》右衛門《えもん》にきてもらい、二人とも乞食に変装してまず今井家に行き、そこで旅費をもらって、京都を脱出し、しばらく大阪にかくれていた。今井は国学者で、似幽《じゆう》と号し、勤皇派との交わりが深く、その家をかれらの秘密会合に提供していたが、この家は「蛤御門の変」で焼けた。その後、今井も幕吏に追われて、長州にのがれ、明治になってやっと京都にかえることができた。 「姶御門の変」には、桂自身は参加せず、毎日変装して天下の動静をうかがっていた。そのときの連絡係が幾松《いくまつ》という芸者で、毎朝、三条の橋の上にやってきては、朝日をおがむようなふりをしながら、橋の下にしゃがんでいる桂に、にぎり飯や情報を記した紙片を投げたともいわれている。また幾松が会津藩士に犯されそうになったとき、彼女はその場にあった三味線を膝で折って、これを投げつけ、対馬藩邸にかけこんで保護されたという話が、末松謙澄《すえまつけんちよう》編『維新風雲録』に桂の�直話�として出ているところを見ると、これに似た事件は、そのころの京都でいくらもあったのであろう。  幾松は、京都三本木の「滝中」という家にいた芸者で、本名を松子といった。父は若狭|小浜《おばま》藩士|浅沼忠兵衛《あさぬまちゆうべえ》、母は同藩医|細川仲《ほそかわちゆう》の娘で、いずれも武家出身だが、忠兵衛は酒癖が悪く、主家をしくじって生活に窮し、娘を芸者に売ったのである。  桂が幾松を知ったのは、幾松が十八歳、桂が二十八歳のときだった。山科の金持ちとはりあって、桂のほうに軍配があがったのだ。これは金力にたいする若さと情熱の勝利ということになるが、桂も金にはそれほど困らなかったらしい。当時、長藩は�京都工作�に多額の政治資金をつぎこんでいて、藩重役に信用の厚かった桂は、これをかなり自由につかうことができたからだ。こういった�藩用族�で、京都の料亭や遊郭は、連日連夜、かつてない繁栄を示していたという。  そのころ、やはり京都にあって桂と同じような立場で動いていた鳥取藩士|足立正声《あだちまさな》は、日記のなかで、 「晩に今小路を招きて、祇園俵亭に飲み、ついに一力亭に宿す。近日およそ会飲、みな国家の大計、しかし国事を妓楼に議するまことに至愚のこと」 と、反省している。  足立は、勤皇派中でも名の売れた傑物で、明治元年|西園寺公望《さいおんじきんもち》が鎮撫使として鳥取にのりこんだとき、彼の功を認めて中央政府に推薦しようとした。これは実現しなかったけれど、のちに彼は元老院、岡山県などに出仕し、美作《みまさか》の大原野�日本原�の開拓に力をつくした。  それはさておいて、桂の身辺には、いよいよ危険がせまってきたので、彼は但馬の出石《いずし》にのがれたのであるが、その手引きをしたのは、広戸甚助《ひろとじんすけ》とその弟の直蔵《なおぞう》で、これまた博徒であった。出石における桂は、質屋の番頭などをしてくらしていたが、やがて、身のまわりの世話をしてもらっていた荒物屋の後家と深い仲となった。そこへ幾松が京都からやってきて、宮津の料亭で酌婦をしながら、ときどき桂のところへ訪ねてくるため、三角関係が発生したらしい。  そうこうしているうちに、長州にのこっていた村田蔵六と連絡がつき、藩内の情勢もわかって帰国することになった。その途中、これまた燕石を訪ねたのだ。  [#小見出し]性格的にあわない桂と高杉  桂小五郎を但馬から長州へつれてかえったのは、博徒広戸甚助の弟直蔵だということがわかると、二人で燕石を訪ねることになったのも、ごく自然だということになる。  これは慶応元年五月のことであるが、少しおくれて、高杉晋作も|おうの《ヽヽヽ》をつれて讃岐にきて、燕石の世話になっている。そのころ、桂と高杉のあいだは、感情的にしっくりいっていなかったらしく、ここで二人がおちあいながら、二人で、あるいは燕石を加えて、うちとけて話しあったという形跡はない。桂のほうで高杉をさけていたのだという説もある。  桂を下関へ送っていった直蔵が、かえりにまた燕石のところに立ちよって、金毘羅さまにもうでたところ、長州弁で話している男女の姿が目についたので、案内人(多分燕石の子分)に、 「あれは長州人じゃないか」 といった。すると、案内人は、 「あの男は多分高杉晋作というのでしょう」 と答えた。そこで、直蔵はその男に話しかけ、桂が下関へかえったことを知らせた。ところが、その男は冷やかに、ただ一言、 「そうか」 といっただけであった。  翌六月、直蔵はまた長州に行き、ある家で紹介された男の顔をよく見ると、前に金毘羅で出あった男だった。そこで、さっそくそのときのことを話すと、その男はいった。 「実は、自分は高杉である。あのとき、桂の消息を知りたかったのであるが、潜行の身だったので、軽々しく姓名を名のるわけにいかなかったのだ」  桂と高杉は長州にかえってからも、しばしば意見が対立したようである。高杉は桂をののしって、 「君には、藩のことにクチバシを入れる資格がない。去年、久坂、来島、入江などが京都で戦死したときも、君だけはどこかへ姿をくらましてしまったし、また藩内で俗論党の勢力がさかんだったときにも、君はかえってこないで、ぼくらがこれを倒したころに、やっと姿をあらわした。このさい、君はぼくらの命令にしたがって動いていさえすればいいのだ」 といったが、桂はしゃあしゃあとして、笑っているだけであった。ここに、これら二人の人物の性格のちがいがはっきりとあらわれている。ことばをかえていえば、高杉は動乱期の実践家で、秩序回復とともに、反抗して自滅するか、粛清の対象になりやすい型であるが、桂は政治家として、いつでもより高い次元に立って、情勢の動きを冷静に観察しながら、自分の行動を律しているのである。  かくて、桂は帰国後、高杉らがなんとののしろうとも、次第にその実力を発揮し、藩政をすっかりその手におさめてしまった。そして身分が低いために埋もれていた英才村田蔵六を思いきって起用することになり、藩の軍政、軍備を改革し、近代化した。のちに村田が明治の新政府にはいって、軍事面で大きな役割を果たした素地も、このときの経験でつくられたのだ。  慶応四年(「明治」と改元されたのはこの年の九月)一月三日に「鳥羽伏見の戦い」があって、天下の大勢が決し、中国、四国方面には、四条隆謌《しじようたかうた》を総督とする追討軍が派遣された。四条は例の�七卿落ち�のグループで、のちに大阪、名古屋、仙台の各鎮台司令長官になった人物だ。  当時、高松藩では、燕石らを投獄した佐幕派が主流派を形成していた。そこで、さっそく重臣の小夫兵庫《こうふひようご》、小河又《おがわまた》右衛門《えもん》の二人に切腹を命じ、謹慎の意を表した。�戦争裁判�を自発的におこなって、�戦犯�を処刑したのだ。  この判決をうけた小夫は、その場で、 「承知」 と答え、ゆうゆうとタバコを一服ふかした上で自決したという。小河は二十四歳で執政となった傑物で、好男子でもあったが、切腹ときまると、死後、唇が変色しては見苦しいというので、唇に紅をさして切腹の場にのぞんだという記録がのこっている。  これにたいして、松平の一族で燕石らの保護者となっていた勤皇派の頼該は、同藩士をあつめて、 「これら二人の首は、松平家十二万石に相当するものだから、大切にあつかい、かりそめにも同僚と思うな。藩主なみにとりあつかえ」 といましめた。  かくして高松藩は、二人の首に謝罪書をそえ、丸亀藩を通じて、追討総督に差し出した。そのあと、藩主松平|頼聡《よりとし》が京都へよびつけられ、しばらく罪を待っていたが、十二万両を献金して、四月十五日にやっともとの地位につくことをゆるされた。  これが高松藩における�敗戦処理�、�戦犯�のとりあつかいである。日本そのものの敗戦の場合と比べてみて、考えさせられる点が多い。  [#小見出し]四年ぶりのシャバの風  日柳燕石、美馬君田らが釈放されたのは、慶応四年一月二十日である。  このころの日本は、七十七年後の昭和二十年八月の日本によく似ている。一月三日の「鳥羽伏見の戦い」は、徳川幕府の運命が決したという点で、広島に原爆がおちたようなものだ。また一月十五日には、新政府が「王政復古」を海外に宣言しているが、これは日本政府が「ポツダム宣言」の受諾を声明したのと同じである。同じ日に「大赦の詔」が出て、すべての政治犯が釈放された。  燕石らも、治安維持法でつかまっていた共産党員などと同じように、四年ぶりにシャバの風にあたることができたのであるが、赤旗をおしたてて迎えてくれるものがあるわけではなく、子分たちは四散していた。いくらかのこっていたとしても、これまでどおりバクチ渡世をつづけるようなご時世ではなくなっていた。  親しくしていた同志は、長州人に多かったが、燕石のおかげであぶないところを助かった高杉晋作は、すでに前年の四月十四日、下関でなくなっていた。こうなると、たよりになるのは桂小五郎で、そのころは名前も木戸準一郎《きどじゆんいちろう》(孝允)と改め、新政府のヒノキ舞台に登場したばかりだった。  慶応三年十二月九日、王政復古とともに木戸は朝廷に召されて、太政官出仕を命ぜられ、総裁局顧問となった。三十四歳の若さで、手腕、識見の点では、薩藩の大久保利通《おおくぼとしみち》とともに、新政府のもっとも有力な支柱の一つとなっていた。  翌四年三月三日、燕石は多年王事につくした功が認められて天杯を賜わった。木戸と連絡がついたのはそのあとであるが、木戸は閏《うるう》四月十日、長崎のヤソ教徒の処分問題と、長州藩の内部でおこった暗闘の処理のため、英国汽船「クレーベル号」で下関にむかった。燕石もこれに随行したが、この船には井上聞多や、「奇兵隊」軍監で「鳥羽伏見の戦い」で大いに手柄を立てた福田侠平などが同船していた。  下関も、港町だけに、もとからバクチはさかんで、ケンカ出入りも多かった。文久三年ごろ、京都から流れこんできた京駒《きようこま》という博徒が、当時流行の斬奸の対象になり、バクチをうっているときに、「奇兵隊」の壮士におそわれ、屋根からとびおりて逃げようとするところをはさみうちになって、めった切りにされたような事件もあった。  これに反して、高杉晋作、井上聞多、伊藤俊輔などにかわいがられている侠客もいた。娼家の主人で、船木屋清五郎《ふなきやせいごろう》といった。「奇兵隊」員をおとくいにしていたからでもあろうが、度胸もあり、学問もいくらか身につけていた。長州が小倉と戦ったときには、高杉から上海みやげにもらったピストルをもって大いに奮闘した。燕石とも仲がよく、久しぶりで会って、大いに旧交をあたためたことはいうまでもない。このあと、燕石は萩を訪れ、前原一誠、野村素軒《のむらそけん》などから大歓迎をうけた。前原は「干城隊」の副総監として北越に出征する直前だった。野村は当時、長藩の軍政主事で、のちに欧州に留学、帰国後、文部大丞などを経て男爵になった人物だ。  このときの燕石の服装はというと、ゴロフクのブッサキに一本刀をおとしざしにしていたという。ゴロフクというのは、グロフ・グレーンをなまったもので、ごつごつした生地の舶来の毛織り物。ブッサキとは「打裂羽織」の略、武士が乗馬や徒歩旅行に用いたもので、背縫いの下半分をぬいあわさず、さけたままになっているものだ。今ならさしあたり、ホーム・スパンにゴルフ・パンツというところであろう。  行く先々で、手あついもてなしをうけ、深酒をしいられて、さすがの燕石もすっかり悲鳴をあげたとみえて、つぎのような詩をつくっている。 [#ここから1字下げ] 「連日連夜、酒宴つづきで、爛酔のため、夜やら朝やらわからず、昏々としている。今はじめて西洋流の酒宴の長所がわかった。  西洋流だと、それぞれ杯をもっている、献杯というものをしないから、自分の好みに応じてのみ、決して他人を苦しめるようなことはない。これは大いに学ぶべきである」 [#ここで字下げ終わり]  漢詩といえば、シナでも日本でも、たいてい酒をたたえたものであるが、これはめずらしい。わたくしはソ連のグルジアで、ブドウ酒で知られたコルホーズを訪れ、酒攻めにあったことを思い出した。そこでは、まず、その家の敷き居をまたいだからには、主人の許可なくして出ていかないことを誓わせられたうえで、つづけざまに乾杯させられるのであるが、その杯は素焼きでたっぷり三合ぐらいはいる大きさで、しかも底のほうがとがっているから、必ずのみほさないと、下にはおけないようになっているのだ。  こういう接待法がまだまだのこされている点で、ロシアは�西洋�ではない。「ソ連に田舎《いなか》あり」、いや、ソ連の大部分が�田舎�だということになる。  それから燕石は、吉田松陰を追悼する詩をつくり、「松陰神社」を建立することを提唱している。  [#小見出し]西園寺すでに頭角をあらわす  燕石が長州から大阪にきたのは五月二十九日である。  その前、議定兼軍事総裁|仁和《にんな》寺宮《じのみや》(のち小《こ》松宮《まつのみや》)嘉彰親王《よしあきしんのう》は、征討大将軍として「鳥羽伏見の戦い」にのぞまれたのであるが、そのあと、会津地方を征定するために、越後口の総督として出征された。これには参謀として西園寺公望と壬生基修《みぶもとなが》が参加したが、燕石はこの征討軍司令部の「日誌方」すなわち記録係に任命され、六月二十六日、北陸にむかって出発した。  西園寺は当時まだ十九歳のハイティーンであった。この年正月二日、宮中で開かれた緊急会議に参与として参加したが、問題は京都付近に一万の兵を擁する幕府軍を相手に、薩長を中心とする三千の官軍が決戦に出るべきかどうかということにかかっていた。  そのさい、広島藩の重臣|辻将曹《つじまさかず》が、 「この戦いは、勝敗の見通しをつけにくい。万一不利になった場合は、薩長が勝手にやったということにしてはどうか」 といった。これにたいして、西園寺は、 「薩長と朝廷は一心同体で、運命を共にすべきである」 と力説した。これをきいて岩倉具視《いわくらともみ》が感嘆し、膝をたたいて、 「小僧、でかした」 と叫んだという話は有名である。当時、岩倉は四十三歳で、年は親子ほどちがうといっても、身分の点では西園寺と比べものにならぬほど低かったのが、西園寺を�小僧�呼ばわりしたとは考えられない。  ところで、この戦いのキメ手と見られたのは土佐藩の向背であった。その点がはっきりしなかったため、西郷隆盛にさえためらいの色があったのに、公卿の御曹司の西園寺が、井上聞多や大村益次郎と同調して、断乎主戦論を唱えたことは、列席者の注目を引いた。そして、これを機会に、西園寺の存在がクローズ・アップされ、岩倉にも認められて重用されるにいたったのである。  その後、西園寺は山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総督、但州府中裁判所総督などを歴任、�三等陸軍将�ということで、北陸道鎮撫のため、五月十日、越後にむけて京都を出発したのであるが、十九歳の少年が将官として実戦にのぞむというのだから、世界戦史に珍しい例だ。「日誌方」の燕石は、そのあとを追ったわけだが、これは恐らく木戸が推薦したのであろう。  当時、北越地方における幕府側の有力な拠点となっていたのは、長岡と柏崎で、柏崎は桑名藩の支領であった。桑名藩主|松平定敬《まつだいらさだあき》は、「鳥羽伏見の戦い」で敗れ、品川からロシア船「コリア丸」に便乗して新潟につき、柏崎の寺にこもって、ひたすら謹慎していたところ、血気にはやる連中が恭順派の家老|吉村権左衛門《よしむらごんざえもん》を殺し、定敬を擁して兵をあげた。こういった大きな変革期にのぞむと、権力に相当する能力なくして権力の座にいたものが、主体性を失ってよろめきやすい点では、勤皇藩、佐幕藩、中立藩に共通した現象で、そのいちばんいい例が最後の将軍徳川|慶喜《よしのぶ》の場合である。  さて、そうこうしているうちに、奥羽では佐幕藩の同盟が結成され、奥羽二十五藩の重臣が、五月三日仙台にあつまって攻守同盟を結ぶにいたり、その勢力はあなどるべからざるものになった。  官軍は、はじめ薩兵五百人ばかりで進発したのだが、それではとても勝てそうもないので、参謀として山県狂介(のちの有朋)、黒田了介《くろだりようすけ》(のちの清隆《きよたか》)などを急派するとともに、増援軍も続々つぎこんだ。  これらの軍隊の輸送には汽船が用いられた。陸路を進んでいたのではまにあわないからだ。敦賀から英国船で今町(直江津)についているが、敦賀から直江津まで二日間、五百人の輸送料として千両払っている。現在の金にすると一千万円くらいになるだろう。足もとを見てボロいもうけをしたものだ。  六月の二十六日には、前原一誠、毛利《もうり》内匠《たくみ》のひきいる長州兵二中隊、さらに同月二十九日には薩藩の吉井幸輔《よしいこうすけ》のひきいる�御親兵�二中隊が、軍艦「摂津号」で、増援軍としてやってきた。�官軍�とはいいながら、よせあつめの連合軍で、命令系統がはっきりせず、作戦は順調にすすまなかったらしい。  西園寺が山陰道鎮撫総督に任ぜられたときには、あまり急だったので、錦旗や節刀を賜う余裕もなかったけれど、こんどは、白鞘《しらざや》だけれど、節刀を賜わってきた。しかし、そのさい西園寺が洋服をきて出頭したというので、たいへんな物議をかもしたものだ。  こういうところを見ると、西園寺のハイカラ好みの性格が、このころすでに発揮されていたようにみえるが、戦場における彼のふるまいは、周囲のものがびっくりするほど、大胆で勇敢だった。しばしば馬にのり、砲火をおかして前線をかけまわることもあれば、十数人の兵をつれ、自分も普通の兵の服装をして前線へ出るし、柏崎の宿舎には、一軍曹の表札を出させたという。もっとも、そのほうがずっと安全だということに聡明な彼は気がついていたのかもしれない。  [#小見出し]河井の善戦に大あわて  作家|国木田独歩《くにきだどつぽ》は、播州龍野藩士の父と、銚子の網元の娘であった母のあいだに生まれたのだが、父が地方の裁判所につとめ、岩国、萩、山口などを赴任してまわり、独歩自身も山口中学校に学んだことがあって、長州とは縁故が深かった。  その独歩が書いたものによると、ある日、越後口の戦場で、前原一誠があわただしくかけこんできて、西園寺に、 「たいへんなことがおこりました」 という。 「何事か」ときくと、 「榎本釜次郎《えのもとかまじろう》(武揚《たけあき》)が甲鉄艦をうばって、箱館に立てこもったという知らせがはいりました」  すると、西園寺はわらって、 「そんなことか、それなら心配するにはあたらない。榎本がその軍艦をひきいて東海に出没し、大阪と江戸の海運をたち、紀州藩を威圧して、官軍に反抗させるということになろうものなら、それこそ天下の一大事である。もしも自分が榎本だったら、その挙に出たろう。それをなんぞや、箱館などに逃げこんで、天下を敵にまわすなどというのは、愚策わらうべし、心配することはない。いまにきっと自滅するにちがいない」  これをきいて、さすがの前原も、西園寺の胆略に感服し、それからは西園寺のそばをはなれずに働くようになった。この戦争が一段落ついて、西園寺が新潟府知事を命ぜられたとき、前原が判事として民政に協力したのも、そういうところからきているのである。  西園寺はまた、陣中でも、暇さえあれば書物を読んでいた。当時、越後高田藩には、東条琴台《とうじようきんだい》といって全国的に知られた学者がいた。彼には『先哲叢談後編』をはじめ、著作も多かったが、西園寺はこれを借りうけて、読んだあと、小包みで送りかえしたという話が竹越三叉《たけごしさんさ》(与三郎)の『西園寺公』に出ている。そのころ、現在のような小包郵便の制度ができていたわけではないから、だれかにとどけさせたのであろう。この戦争には、こういうのんびりした面があったか、それとも司令部がこんなにのんびりしていたか、どっちかである。  しかし、長岡には、河井継之助《かわいつぎのすけ》という傑物がいて、維新史上でも有名な激戦が展開された。もともと長岡藩は、七万四千石の小藩で、朝幕の戦いには中立主義をとることになっていたが、官軍のほうからは、会津討伐に出兵せよといってくるし、「奥羽列藩同盟」では、この戦いを幕府と薩長の争いと見て、このさい、幕府の恩顧に報いねばならぬという立場から、加盟を要求してくるし、藩内でもこれに同調しようとする意見や動きがもりあがってきた。かつて江戸や長崎に出て佐久間象山や大槻磐渓《おおつきばんけい》に学び、新しい学問を身につけて国際情勢にも通じていた河井は、この戦争にまきこまれたくないと考え、単騎官軍の本営にのりこみ、率直に中立の立場を声明したのであるが、官軍はこれを許さなかった。  かくて河井のひきいる長岡軍は、官軍と激突するにいたったのであるが、長岡軍はなかなか強く、裏側から会津をつこうとする官軍を一か月にわたって阻止した。そのあいだに、一度は官軍の手におちた長岡城を奪還したこともある。官軍の陣営は猛火に包まれ、西園寺はハダシで逃げ出すし、山県は寝間着姿で兵を指揮したという。  それから三年後の一八七一年三月、パリに留学した西園寺が、「パリ・コンミューン」の名で知られている大暴動、大内乱に直面して平気だったのは、このときの経験がものをいったのだといわれている。  それはさておいて、河井は肩と脛に銃創をうけ、会津領で死亡したが、ときに四十一歳、「謙信以来の越後の英雄」ということになっている。  さて、燕石だが、彼が官軍の「日誌方」として従軍した、その本隊が柏崎についたのは七月二十日で、長岡城攻防戦の最中、河井の負傷する四日前だった。  柏崎における官軍の本営は、妙行寺という日蓮宗の寺で、そこに参謀の壬生基修以下が八月十日まで滞在した。出発の前夜、官軍の暗号を「キタ」、「ユキ」ときめた。「キタ」(北)といわれたら、「ユキ」(雪)と答えればいいわけで、暗号としてはまったく幼稚なものだ。  このころ、越後地方には、�反官軍�というよりも�親幕府�的なムードが浸透していたとみえて、   都から錦の旗を売りにきた、   買って(勝って)やろぞい、   まけて(負けて)いにねえ という俗謡が流行していた。これにたいして、官軍のほうでは、さっそく、   べらぼうめ、よそでできないこの御旗、   討って(売って)やろうが、   まけ(負け)はせぬわい という歌をつくってはやらせたという。こういうところを見ると、日本人にユーモアが足りないというのはウソである。  [#小見出し]波瀾の生涯を閉じる  仁和寺宮嘉彰親王を総督とする官軍の本隊が柏崎についたのは、七月二十日で、参謀の壬生基修に属し、先発した燕石は、本隊より五日前に目的地についているが、到着と同時に発病している。 「太平洋戦争」には、大勢の文化人が�宣伝班員�などとして徴用され、各戦線に配属されて、前線に出た。わたくしもその一人である。これらの文化人は、身分、職歴などによって、判任、奏任、もしくは勅任の待遇をうけたが、いずれも単独勤務で、直属の部下をつれていったという例は、わたくしの知っている限りでは、一つもない。  燕石に課せられた任務の「日誌方」というのは、陣中の記録係りで、これまた一種の文化人として採用されたものと思うが、彼には少なくとも二人の直属の部下がついていた。一人は三好義清《みよしよしきよ》といって、彼の学僕で、これが彼の馬の口をとった。もう一人は大阪|仁和加師《にわかし》の左楽《さらく》である。琴平に流れてきて、生活に困っていたのが、燕石にひろわれて、いっしょに従軍することになったのであろう。それにしても仁和加師をつれて従軍というのはふるっている。もしかすると、�軍慰問�ということで許可になったのかもしれないが、維新の戦争にそんなゆとりがあったとは思えない。  燕石には、道之助(三舟と号す)というひとりむすこがあって、これが一人前の医者になって世に出るまではバクチをやめられないといっていたのだが、これに陣中から出した手紙のなかで、つぎのような決意をのべている。 「この先、万一|矢丸《やだま》のあいだに斃《たお》るるとも、また王事に死するのであるから快というべきだ」  彼にとっては、�勤皇�の仕上げとなるわけだが、�弾丸�というところを�矢丸�といっているのは、彼の年齢や時代感覚を語るものである。  越後地方には、前々から燕石の友人であり、勤皇の同志であったのが幾人もいて、官軍総督のもとにはせ参じ、嚮導《きようどう》の役を買って出た。三条実美らの�七卿落ち�に随行し、長州で自ら兵をつのり、「忠憤隊」というのを組織して「蛤御門の変」にも参加した長谷川鉄之進《はせがわてつのしん》もその一人である。「北越御密用」という職名を与えられていた植田宗平《うえだそうへい》(井上文郁)も、燕石の親友だが、これは今でいうと、官軍の情報官、もしくは特務機関のような役目をしていたのであろう。植田は、のちに柏崎の民政判事に就任した。  燕石は発病とともに、官軍の野戦病院に収容され、病名は�瘴毒《しようどく》�となっているが、熱が高く、風土病の一種と見られている。長谷川や植田は、ほとんどつききりで看護したけれど、そのかいもなく、八月二十五日、つぎのような詩を総督の宮にささげて、息をひきとった。かぞえ年で五十二歳であった。  「錦旗すでに移る新潟の東。   病夫一枕秋風に伏す。   朝来口をすすいではるかに相拝す。   ただ祈るところはわが王早く功を立てられんことを」  燕石の死は、総督の宮の耳にも達したとみえて、 「大桜定居彦」 という諡号《おくりな》を賜わっている。  ところで、戦前に上演された燕石劇では、息をひきとるときに燕石は、 「おうの! おうの!」 と、高杉の愛人の名を呼んだことになっているが、燕石研究家の草薙金四郎氏は、 「高杉! 高杉!」 と叫ばせたかったと書いている。  それはさておいて、明治維新史上におけるもっとも特異な存在の一人であった日柳燕石は、王政復古の大緞帳があがりつつあったとき、その劇的な生涯の幕をとじ、越後路にその骨を埋めることになったのである。  これは余談だが、明治、大正、昭和の三朝に仕え、各界を通じて、もっとも特異な役割を果たした西園寺公望も、参謀としてこの戦争をしていることは前にのべた。果たして公望と燕石の二人は、対陣中、どこかで出あったことがあるだろうか。  この点は、これまでナゾになっていたけれど、前記草薙氏が、西園寺の生存中、その執事を通じて伺いをたてたところ、記憶の確かだった西園寺が、はっきりと、 「面識これなき旨」  を伝えてきたという。  これは余談というよりも後日談だが、燕石の死んだ翌年の三月五日、讃岐の琴平で、四国十三藩の代表があつまって会議を開き、廃刀令、献金の議、海賊の取り締まり、廃藩置県などを議決し、中央政府に建白している。この会議は�金陵会議�といって、日本憲政史上重要な意義をもつものであるが、�金陵�とはシナの南京のことである。琴平が南京に似ているというところから、こういう雅名がつけられたのだ。  この会議には、燕石とともに出獄した美馬君田も出席した。 [#改ページ] [#中見出し]幕末の異端児・忠光   ——歴史の転換期に人間形成がなされた貴族の悲劇的な宿命——  [#小見出し]燕石以上に特異な人物  十五代将軍徳川慶喜が大政を奉還するや、慶応三年十二月、西園寺公望は十八歳で、岩倉具視、西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)、後藤象二郎《ごとうしようじろう》などとともに、新政府において�参与�(のちの参議もしくは次官)の要職にあげられ、さらに山陰道鎮撫総督、会津征討越後口大参謀などの重任を果たすと、待ちうけていた重要な地位をなんの未練もなくふりすててフランスに留学、急進的社会民主主義者エミール・アコラスに師事して、十年後に帰国、中江兆民《なかえちようみん》や松田正久《まつだまさひさ》らと『東洋自由新聞』を発行し、白由民権運動の片棒をかついだ。この西園寺と、博徒の親分で勤皇の志士でもあった日柳燕石の二人を、明治維新をめぐるもっとも特異な人物としてあげたが、これ以上に特異な人物がもう一人いる。それは「天誅組」の盟主にかつがれ、�大和義挙�の失敗後、長州に亡命して、ナゾの死をとげた中山忠光《なかやまただみつ》である。  忠光は大納言|忠能《ただやす》の五男で、長兄|忠愛《ただなる》の養子となったものだが、弘化二年(一八四五年)生まれだから、嘉永二年(一八四九年)生まれの西園寺よりも四つ年上である。孝明天皇《こうめいてんのう》の皇子|祐宮《さちのみや》(のちに明治天皇)を生んだ中山慶子《なかやまよしこ》権典侍は、忠能の二女で忠光の姉だから、忠光は明治天皇の叔父にあたる。明治天皇は嘉永五年(一八五二年)生まれで、忠光よりも七つ、西園寺よりも三つ年下である。いずれも幕末から明治にかけて、今のことばでいうとティーンエージャーで、この激動期に人間形成がなされたのであるが、明治天皇は別格としても、これらの貴族の御曹司の人柄、運命というものについては、考えさせられる点が多い。  孝明天皇には六人のこどもができたが、無事に育ったのは祐宮たったひとりである。祐宮もお産の前に、生母が疫痢にかかり、危うく流産するところであった。とにかく、慶子は妊娠とわかると、実家にかえってお産をすませ、祐宮が五歳になられるまでは、中山家で養育された。当時、中山家では、 「神の御裔《みすえ》の御胤を御擁護し奉ることとて、一門無上の栄誉となし、恐れかしこみ、別に一室を清浄潔斎して、慶子の居室となし、忠能卿はお世話がかりの人々とともに、つねに侍《はべ》りけり」 ということになっていた。  中山家は、花山院《かざんいん》の流れをくむ名家ではあるが、収入はわずか二百石にすぎなかった。おまけにこどもも生まれた。そのうち無事に育ったのは六人だったけれど、生活は楽でなかった。しかし、慶子の母は肥前平戸藩主松浦家から迎えられたもので、これがなかなかのしっかりものであった。  祐宮が二歳になったとき、忠能は特別に一室をもうけてあげたいと思ったが、そんなゆとりはなかったから、松浦家に泣きついて、やっと形ばかりの�ご座所�をつくることができた。それでも、祐宮は体質があまり丈夫なほうではなかったので、小さいときから竹馬にのせたり、はだしで庭をかけさせたりして、からだをきたえることに、忠能はいろいろと苦労した。あまりかまいすぎるのは、かえってよくないと考えた。そのため、ときには、だれも気がつかぬうちに、祐宮が築地の外に出て遊んでいるのを道行く人が見て、 「あれが二の宮さまだよ」 といったものだという。(孝明天皇の第一皇子は、嘉永三年、すなわち祐宮より二年早く、坊城俊明《ぼうじようとしあき》の娘|伸子《のぶこ》が生んだけれど、誕生の翌日になくなった)  明治天皇は、こういった環境、宮中におけるよりはずっと人間的な、どっちかというと中産階級的な家庭の訓育をうけて育ったために、無事に成人して、のちには�豪毅英邁�をたたえられるようになったのだともいわれている。  ところで、�叔父�といっても、七つしか年のちがわない忠光は、祐宮にたいしては、兄のような立場におかれ、知らず識らずのうちに、そういう気持をうえつけられたことは、じゅうぶん想像できることである。中山家の中産階級的な環境と、皇室との特殊なつながりが、忠光という、当時の貴族階級のなかでは、異端者といってもいいような過激な行動的勤皇攘夷派、�激徒�中の�激徒�をつくりあげたのではあるまいか。  その点で、同じ�異端者�でも、西園寺公望の場合とは、まったくちがっている。西園寺は申し分のない貴族的インテリ、いわば一二〇%のインテリだった。  さて、安政五年、祐宮が六歳で宮中にご帰還になると、これまでお遊び相手をつとめていた忠光が、十三歳で侍従として出仕することになった。  文久三年、将軍|家茂《いえもち》の上京、賀茂行幸のおこなわれたときには、忠光は十八歳で、今なら高等学校をおえて大学にはいる年ごろである。この行幸のさい、供奉の将軍に、拝観の群衆のなかから、高杉晋作が、 「いよう、征夷大将軍!」 というヤジをとばしたことは前に書いた。忠光も侍従として、馬にのってこれに供奉したが、つぎの石清水八幡宮の行幸の場合には、忠光が同志をひきいて鹵簿《ろぼ》をおかし、供奉の将軍を要撃する計画をすすめているという流言がとび、これを口実にして将軍は病気と称し、この行幸に加わらなかった。  そんなことがあってまもなく、忠光はひそかに京都を脱出、長州へ走ったのである。  [#小見出し]常軌を逸した行動  前にもしばしば引用したことのある下関の豪商白石正一郎の日記によると、 [#ここから1字下げ] 「四月一日(文久三年)、中山公子御下向につき、座敷掃除かたがた大いに差しこみ候  同二日、中山侍従さま、ご散歩ご入来、宮城彦輔《みやぎひこすけ》そのほか両人お供。今夜半八つすぎ、中山公子にわかに長府へ御出、御太刀は御座の間に御置きにて、正一郎刀、廉作(正一郎の弟)の短刀御用い遊ばされ候」 [#ここで字下げ終わり] と出ている。  文久三年四月一日というと、石清水行幸の十日前だから、忠光はすでに京都にいなかったのだ。長州がアメリカの商船「ベンブローク号」を攻撃したのは、それから四十日後で、三条実美ら七卿が�長州落ち�をしたのは四か月後のことである。このようにそのころの長州は、�尊皇攘夷�の大きなウズの目になっていたともいえよう。  そこへ忠光が京都から脱出してきて、白石家へ案内されたのであるが、案内者の宮城彦輔というのは、のちに「奇兵隊」員となり、同隊が長藩の正規兵である「先鋒隊」と衝突事件をおこしたとき、その責任者として切腹させられた人物である。  ところで、忠光は白石家についたその晩の八つすぎ、つまり、深夜の二時すぎ、白石兄弟の刀をもって長府へ出かけたとなっている。なんの目的で出て行ったのか書いてないが、ただごとではない。  忠光の異常な言動は、白石の日記によると、その後もずっとつづいている。 [#ここから1字下げ] 「九日、夜に入りて公子御激論もてあまし候、鶏明ごろまた当家へお帰り遊ばされ候 十日、御絶食 十一日、ようやくごきげん直り申し候」 [#ここで字下げ終わり]  それにしても、明けがたにかえってきたり、絶食したり、忠光はどうしてこのように異常な心理状態にあったのか。  忠光の父忠能は、仁孝《にんこう》、孝明の両天皇に仕え、朝廷における攘夷派の中心になっていた人物で、同家には長州の久坂義助、桂小五郎、山県狂介、品川弥二郎、土州の武市半平太《たけちはんぺいた》、吉村寅太郎《よしむらとらたろう》、久留米の真木《まき》和泉《いずみ》など、攘夷派の錚々たる連中がしじゅう出入りしていた。そういった環境で育った忠光が、忠能以上に急進的な攘夷派となったのは、�進歩的�な大学教授のむすこが、共産党にはいったり、全学連の指導者になったりするのと同じだといえよう。  忠光は長州へ脱走する前、公武合体派の前関白|近衛忠熈《このえただひろ》(文麿《ふみまろ》の曾祖父)に短刀をつきつけておどかしたこともある。また関白|鷹司輔熈《たかつかさすけひろ》(孝宮《たかのみや》和子《かずこ》内親王と結婚した平通《としみち》の曾祖父)を訪ねて、攘夷即時断行、国事係りの改選などをせまったが、輔熈がうけつけなかったので、忠光は大いに怒り、当時、佐幕派の巨頭と見られていた岩倉具視、千種有文《ちぐさありぶみ》の首を切り、これを持参して関白をおどかし、その目的を達しようと考え、京都の長州藩邸に久坂を訪ねて、その協力を求めた。これには、さすがの久坂も応じきれなかったようであるが、忠光が長州へ出奔した目的の一つは、攘夷の即時断行にあったことは明らかである。しかし、長藩としても、この若い公卿の注文通りに動けない事情もあって、忠光を怒らせたのだろうと思われる。  しかし、その後まもなく、あとから考えると、ずいぶん乱暴だと思われる攘夷にふみきっているところを見ると、忠光の言動が長藩の攘夷派にとって、強い刺激となったことは争えないようだ。  尊皇思想の高潮期で、皇室およびその周辺の公卿と一般人民との距離が、今とは比較にならぬほど大きかった時期に、とくに強い尊皇思想を抱いていた白石が、忠光にたいして、日記のなかでこれだけの不満をもらしているところをみると、忠光の言動は、よほど常軌を逸していて、白石もこれをもてあましていたことと思われる。  忠光の出奔後、父の忠能も、たいへん心配して、 「攘夷の叡念、徹底つかまつりがたき段を深憂苦心居候義は、見聞もつかまつりおり候えども……元来一徹の質に候間、国患深苦のあまり、まったく精神混乱つかまつり候ことと存じ候」 とのべて、忠光の辞官と位記返上を願い出て、許されている。この�精神混乱�とは、寝てもさめても�攘夷�のことばかり思いつめているところからきたノイローゼの一種か、それ以上の精神障害から発しているのか、その点ははっきりしない。いずれにしても、皇室の衰微を嘆いて自決した高山彦九郎《たかやまひこくろう》とか、「無我の愛」に徹しようとして睡眠まで拒否するにいたった河上肇《かわかみはじめ》とかの場合と同じで、純粋といえば純粋だが、精神病理学的にいえば、モノマニア(偏執狂)ということになりそうである。  それでいて、忠光もきげんのいいときには、「光明寺党」(「奇兵隊」の前身)員をひきつれてキツネ狩りなどに出かけたり、白石邸に二、三十人もつれてきて、しばしば大酒宴を開いたりしていることが、白石の日記に出ている。同家でもずいぶんめいわくに思ったにちがいない。そうかと思うと、下関の海岸に砲台をつくる作業に、忠光も参加し、モッコかつぎまでしている。  [#小見出し]他殺か? 不覚の災難か?  五月二十日の夜、廷議をおえてのかえりみち、姉小路公知《あねこうじきんとも》が何者かに暗殺され、三条実美があぶなく助かったというニュースが、下関にはいったのは、長藩が米艦「ワイオミング号」と激戦して、ひどい目にあった前の晩のことである。  忠光としては、京都のことが心配になって、いても立ってもいられない気持だった。たまたま毛利藩の世子定広が、山口から出てきていたので、忠光はさっそくこれを訪い、長藩の同志数十名をひきつれて上京したいと相談をもちかけた。長藩士のなかには、これに賛成するもの、反対するものがあって、容易に意見がまとまらなかったけれど、定広としては、思いとどまらせようとしても、とどまる相手でないことを知っているので、これを認めざるをえなかった。  ふたたび京都に潜入した忠光は、名を�森香斎《もりこうさい》�と改め、こんどは天皇の大和行幸を企て、その途中、鳳輦《ほうれん》(天皇の乗りもの)を伊勢、名古屋、箱根へとすすめ、いっきょに討幕にまでもっていこうとする大陰謀をめぐらした。その発端が「天誅組」の�大和義挙�ということになっているが、これまた反対派の中《なか》川宮《がわのみや》の会津・薩摩派と組んでの逆クーデターにあって、さんたんたる失敗に帰した。 「蛤御門の変」と呼ばれているものがそれだ。  いのちからがら大和をのがれた忠光は、大阪の長州藩邸にたどりつき、そこでしばらくかくまわれていた。  野竹散人《やちくさんじん》著となっている『豊の浦波』という小冊子に、その後の忠光について、つぎのような話が出ている。 「ある日、阿弥陀寺の関所に、一人の乞食ていの男が通りかけたので、警護のものが怪しんで誰何《すいか》すると、 �私は高杉晋作というものに会いにきたものです� といった。そこで姓名をきいたところ、一尺ばかりのコモ包みをさし出して、 �これを高杉に見せてくださればわかります� というので、警護のものは、怪しみながらも、その包みを開いてみると、立派な錦の袋が出てきて、そのなかに短刀らしいものがはいっていることがわかった。これはゆえある人かもしれないと思い、さっそくその包みを高杉のもとへとどけた。高杉はこれを開いて、 �そのかたを不都合のないようにもてなし、すぐこちらへ案内せよ� と申しつけた。  これが中山侍従さまであることがわかった。長府侯はこれをきいて、鄭重にもてなされたが、そのうちに侍従さまは精神に異常をきたしたとみえて、おだやかならぬ挙動がしばしば見られるようになった。  そこで長府侯は、綾羅木《あやらぎ》に別荘を建て、侍女をつけて静養していただいたが、全快するにはいたらなかった。忠光のおこなったひどいいたずらの一例をあげると、死人の腕をナワでしばり、これをある家の店先につるしておき、家人が朝おきて戸をあけ、おどろきさわぐのを見て喜んでいるといったようなこともあった。  ある日、西市地方に旅行されたが、その途中、千尋《せんじん》の谷底へおちて、思わぬ最後をとげられた。長府侯は大変心配されて、できるだけの介抱をするように命ぜられたけれど、すでに効なく、遺体を綾羅木に神葬された。  この変死については、流言蜚語があって、他殺だとか、不覚の災難だとか、いろいろといわれて、問題にはなったけれど、なんの確証もあがらなかった。大切な身分のかただから、いっそうやかましかったのだ。けっきょく、憂国|慷慨《こうがい》のあまり、精神に異常を呈したことが死の原因となったのであろう」  これはすこぶる興味のある文献で、そのまま一編の推理小説になりそうだ。題名に出ている「豊の浦」とは長府のことであることは明らかだが、著者の「野竹散人」というのは、下関の郷土|中原雅夫《なかはらまさお》氏の研究によると、長府藩士または「報国隊」員の仮名であろうという。  そこで考えられることは、この小冊子は、忠光が死んだころ、この地方に流布していたウワサに基づいて、だれかがおもしろ半分に書いたか、それともこの事件に多少関係があって、事の事情をよく知っているものが、皮肉をまじえて、諷刺的に書いたか、どっちかだということである。  わたくしの直感からくる判断では、どうやら後者のような気がしてならない。というのは、このトボケたようないいまわしのなかに、動かすことのできない真実が、砂金のようにチラチラと光ってみえるからである。  [#小見出し]有力なカギ「白石日記」  そこで、中山忠光の変死をめぐるナゾをわたくし流に解いてみることにしよう。  いちばん有力なカギは、なんといっても、白石正一郎の日記である。これによると、二度目に長州へおちてきたときの忠光は『豊の浦波』では�乞食姿�となっているが、実は旅の僧にバケて、白石家の門をたたき、ふたたびここでかくまわれたことになっている。その後も、正一郎の実弟大庭伝七(景明)が、ずっと忠光について歩いていたというから、忠光にかんする情報はすべて白石家にはいっていたはずである。「白石日記」にも、 [#この行1字下げ]「景明つねに随従す。侍従は長府を一里ばかり、綾羅木村といえるところに小屋をもうけ、ここに住す、夜半人あり、殺害せらる。ことははなはだ大《だい》塔宮《とうのみや》の事跡に似たり」 と、�注�の形で書かれている。  いうまでもなく、大塔宮は、後醍醐天皇《ごだいごてんのう》の第三皇子で、北条氏を討つため、大和十津川から吉野、熊野にかけて出没した点は、忠光のばあいとよく似ている、というより、忠光が大塔宮をまねたのであろう。足利尊氏の野心をいちはやく見ぬいたのも大塔宮で、そのために讒《ざん》せられ、鎌倉に送られて、尊氏の弟の直義《ただよし》に殺されたのであるが、そのとき二十七歳で、十九歳で死んだ忠光とは、年齢的なひらきもある。悲劇的なさいごをとげたことは同じであるが、人柄はまったくちがっていたようである。  大庭伝七のことは、前にもちょっと書いたが、書画・詩歌をよくし、明治にはいって文部省に出仕した。ロシアに革命がおこった直後、モスクワにはいったまま消息をたったジャーナリストの大庭柯公《おおばかこう》(本名景秋)はその三男である。  忠光が殺されたのは、長州に逃げてきた翌年、すなわち元治元年十一月の五日となっているが、これは高杉がクーデターをおこなった四十日前のことである。そのころの長州藩は、本藩はもちろん、各支藩も、�俗論党�の勢力が強かったから、かれらにとって忠光はやっかいな存在として、もてあまされていたことは明らかである。  忠光の身辺には、危険がせまってきて、いくたびも居をうつしたが、さいごにひそんでいたところは、山陰側の田耕《たすき》村(現在は豊浦郡|豊北《ほうほく》町)の百姓|万次郎《まんじろう》方である。そこへ夜なかに庄屋の幸八《こうはち》というのがたずねてきて、これにうまうまとおびき出され、刀ももたずに出て行った。すると、まっくらな山道に、何者かが待ち伏せていて、ねじふせたうえ、首をしめて殺したのだという。  このあと、犯人は死体を長櫃《ながびつ》に入れ、くさらないように塩づめにして、夜道をいそいだが、綾羅木(現在下関市に編入、山陰線で下関から三つ目の駅のあるところ)までくると、明るくなってきたので、浜の砂のなかに埋めた。のちに掘りだして、病死したということで届けを出したということになっている。  わたくしは、この地方の地理にくわしくないが、中原氏の調べたところによると、田耕と綾羅木間の距離は、直線コースにしても約四〇キロはあるはずで、夜半から明けがたまでのあいだに、これだけのことをやってのけられるものではないことは、常識で考えても明らかである。現在の裁判で、被告がこんな陳述をするとすれば、それこそ笑殺されるであろう。  いずれにしても、田耕で殺して綾羅木まではこんできて埋め、そこに�中山神社�までつくったというところに、手品のタネがある。これはだれがやったとしても、あまりにもへたクソだ。 「白石日記」では、文久三年十一月十四日、すなわち忠光が二度目に白石家にきた翌々日、下関にいたのでは危険だというので、長府藩によって、月山のふもとの庭田というところにうつされたと出ているが、そのあと忠光の消息については、少しもふれていない。  ところが、翌々年の慶応元年五月二十四日、すなわち忠光が死んでから半年ばかりもたったとき、平戸藩の柏原四郎《かしわばらしろう》という人から、忠光のことをきかれて、白石は、 「くわしくは存ぜず候えども、ご逝去の噂は承り候。もしくわしくおききなされたく候わば、長府へお尋ねならば、相知れ申すべくと申し答え候」 と、まるでつっぱねたような書きかたをしている。これまで忠光にはさんざん手こずってきているので、彼にかんしては、ノー・コメントという気持が、白石の腹の底にあったとしか思えない。  多年長州勤皇派の�情報参謀�の役割を果たし、実弟伝七を専属の�随従�とするなど、忠光の面倒を見てきた白石が、その死の真相を知らぬということは考えられない。気がむかなくて書かなかったというよりは、書いたあとでけずってしまったと見るべきであろう。この点は前に書いた「奇兵隊日記」の赤根武人のばあいと同じで、日記というものが、必ずしもつねに正しい史実をそのまま伝えるものではないという一例である。  それはさておいて、維新史上に大きな役割を果たした長府の毛利藩主が、明治政府の論功行賞で、毛利の他の支藩同様に、子爵にとどまり、侯爵をのぞんで与えられなかったというのは、このような形で、明治天皇の叔父にあたる人物を、ヤミからヤミへ葬り去ったことが、わざわいしたのだともいわれている。  [#小見出し]計画的な証拠インメツ  つぎの問題は、中山忠光殺しの下手人はだれかということである。  当時、高杉晋作、井上聞多、伊藤俊輔などの一派が考えていたプログラムは、ざっとつぎのようなものであった。  一、幕府の長州征伐にそなえて、長州の軍事的実力を急速に高めること  二、そのために外国の優秀な武器、軍艦をなるべく大量に輸入すること  三、これに必要な財力を養うため、下関を開港し、長藩の物資はもちろん、他藩の物資でも、外国人のほしがるものはなんでも入手して、外国へ輸出すること  四、長藩の軍事的、経済的独立性を増進すること  五、その先決問題として、下関をとりあげて本藩の直轄領とすること  こういった抱負を高杉は、「五大州に腹を押し出して、仕事をせねばならぬ」ということばで表現しているが、そのため、山口に「出版局」をもうけ、各種の出版物を刊行している。  これにたいして、下関およびその付近を古くから領有していた支藩の長府藩、清末藩が猛烈に反対したことはいうまでもない。清末藩というのは、長府藩六万石のなかから一万石をわけてもらった小藩で、問題にならないが、長府藩の反対はすさまじいものがあった。高杉、井上が出奔し、伊藤が一時身をひそめざるをえなかったのもそのためである。  この反対派のリーダーとして、直接行動隊を指揮していたのが泉十郎《いずみじゆうろう》である。泉は前に柳河藩士とトラブルをおこしたとき、藩主は泉の命を助けるため、野々村勘九郎《ののむらかんくろう》と改名させた。前に毛利本藩の重役周布政之助が、土佐の山内容堂《やまうちようどう》をののしり、あぶないところを麻田公輔《あさだこうすけ》と改名することによってまぬかれたのと同じである。別名にすれば別人になるというわけで、このころしばしば用いられた便法だ。  高杉たちがもっとも恐れていたのは、この野々村とその一党であった。かつて伊藤が下関の「銀亀」という料亭で遊んでいるとき、野々村たちにふみこまれた。女将の機転で伊藤は裏口から逃げて助かったが、野々村はその腹いせに玄関のアンドンを真っ二つに切って立ち去ったという。それというのも、伊藤が馬にイギリス製のクラやアブミをつけてのりまわしているのが、気にくわぬというのだった。  このように、野々村は長府藩主毛利|元周《もとちか》にかわいがられ、ある程度のわがままをゆるされていた。それが慶応元年十一月二十七日、突然元周の命によって割腹を命じられたのだ。その理由として、  一、井上・伊藤などの暗殺計画を指図したこと  一、他藩からの納金を使いこんだこと  一、本藩からとがめをうけて謹慎を命ぜられていながら、しばしば出歩いたこと といったような点があげられている。しかし、これらの諸点は、どっちかというと表むきの口実で、ほんとは忠光暗殺の罪をおっかぶせられたのだと中原氏は見ている。吉田祥朔《よしだしようさく》著『近世防長人名辞典』でも野々村は�讒《ざん》に遇《あ》い�となっている。  野々村が切腹したのは、忠光が死んでかれこれ一か年後のことであるが、その前に野々村は、同志をひきいて藩祖の廟にもうで、各自モトドリをきって誓いを立て、「報国隊」を結成した。藩主もこれを嘉《よみ》し、藩軍の一隊と見なしている。  それが急に自決させられることになったのは、長府藩外からの圧力によることは明らかで、その圧力をかけたのは、毛利の本藩としか考えられない。その大義名分は、忠光殺しの責任者ということで、本藩からもっともにらまれていた野々村を指名してきたのではあるまいか。もしかすると、その裏では、桂小五郎その他本藩の亡命派グループの策動があり、弱い立場にいる長府藩がこれに屈し、いろいろとまことしやかな罪名をつけて、正直で一徹ものの野々村を犠牲に供することになったのかもしれない。  野々村の人柄をよく知っていた高杉は、彼の罪を無実と見て助命のために処刑の現場へ馬でかけつけたけれど、ついにまにあわなかったという説もある。しかし、これは高杉自身を美化するためにつくられた伝説で、前記のような罪名のもとに処刑されるのを高杉の手で助けるなどということはありえない。それなら、忠光殺しのほんとの下手人はだれか。  一説によると、福永正介《ふくながしようすけ》という棒術の師範が、まず棒で忠光の足をはらい、倒れたところを数人でしめ殺したということになっている。福永の墓は、今も下関市内にのこっているが、その子孫に代々不幸がつづいて、ついに家系が絶えてしまったのも、そのためだという。しかし、これもよくある因縁話で信用はできない。  けっきょく、今となっては、下手人のセンサクをするのは不可能であり、無意義である。それより明らかに計画的なこの殺人を企画し、命令したものはだれか、ということに捜査の重点をおくべきである。それも長府藩か、毛利本藩かということにしぼられてくるのであるが、そのころの長府藩の古文書は、計画的にインメツしてしまった形跡がある。  [#小見出し]病死でかたづけられる  忠光の変死を病死と見せかけるため、長府藩では、いろいろと小細工をしている。阪井龍眠《さかいりゆうみん》という医者の診断書によると、忠光の健康がすぐれないというので、つきそいをつけておいたのであるが、喀血《かつけつ》して病勢がとみに悪化し、ついに十二月の十五日の暮れどきに死亡したということになっている。まったくデタラメだ。今の医者は金力に弱いが、当時の医者は権力にもっと弱く、どうにでもなったのである。  それよりも興味があるのは、こういった診断書にそえて、長府藩から朝廷に出された忠光にかんする報告書である。それによると、忠光は、 「かねて大酒御好き、その上御色情深く、御虚弱のさま相見え……」 となっている。もともとからだがあまり丈夫でないのに、�御色情が深�すぎて、結核が昂進《こうしん》して死んだように思える。喀血したことが事実とすれば、病勢のほうも相当すすんでいたのかもしれない。  得富太郎《とくとみたろう》の『幕末防長勤王史談』を見ると、忠光の殺される前後のいきさつが、いっそう具体的に、小説的に描かれている。  忠光が長府藩の世話で、つぎからつぎへとかくれがをかえているあいだ、国司直記《くにしなおき》という護衛をつけるとともに、十六歳の美しい女性を見つけてはべらせていた。彼女は登美《とみ》といって、下関でも有名な�勤皇旅館�の経営者|恩地与兵衛《おんちよへえ》の娘である。忠光が上畑村の常光庵にうつってきたとき、彼女はすでに妊娠していた。そのため、下関から彼女の母親たちが手伝いにきたりして、忠光の身辺の人物は十人に達した。  これでは目につきやすく、危険だというので、さらに山奥にうつることになった。田耕村というところに、四恩寺というくずれかかった草庵があって、これがよかろうということになったのであるが、はいる前に少しは修理を加える必要があるというので、一時近くの万次郎という百姓の家に身をよせていた。  ある日、万次郎の弟の源次郎というのが、猟に出て山鳥をとってきて忠光にごちそうした。すると忠光は急にハキ気をもよおし、はげしい腹痛を訴え、高い熱が出た。これは明らかに、忠光の毒殺をねらったものだ。  その翌日、忠光の健康がまだ回復していないところへ、長府藩から国司に帰参を命じ、そのかわりに、松村良太郎《まつむらりようたろう》、三浦市太郎《みうらいちたろう》の二人を送ってきた。国司には何か予感があったとみえて、忠光の全快するまでは交代に応じなかった。  庄屋の山田幸八が忠光をおびき出しにきたのは、その晩のことである。 「たいへんでございます。怪しい武士が四、五人この村へやってきて、裏山に忍びこみ、ひそひそと話をしております。すぐお逃げください」 ということで、うむをいわせず、忠光を戸外へつれ出した。とにかく、ここにいては危険だから、さっそく四恩寺にうつったがよいということになった。幸八は実直そうな男で、前から誠意をこめて忠光の世話をしていたから、忠光のほうでも安心してそのことばにしたがったのであろう。  そこで、忠光は、幸八のもってきた百姓の若い衆ふうの着物をきせられて家を出たのであるが、腰の刀は忘れなかった。これを見て幸八は、 「お腰のものは、あとから国司さまにとどけて頂くようになさったほうがよろしゅうござりましょう」 といった。こうして武装解除された忠光は、幸八の家を出て、三、四丁行ったところで襲撃されたのである。  これでみると、万次郎をはじめ、幸八およびその一族が、買収されて、あるいはおどかされて、忠光謀殺の陰謀に荷担させられていたことは明らかである。問題は、国司までが忠光を裏切ったかどうかということである。多分、因果をふくめられて、この事件からいっさい手を引けといわれていたのであろう。でなければ、ボデーガードの役目を果たさなかった責任を問われて切腹させられるわけで、どっちにしても命のないところだ。  忠光が死んだとき、登美は妊娠五か月で、下関の実家へ引きとられた。しかし、忠光謀殺の秘密が彼女たちの口からもれる恐れがあると見られ、彼女の身辺には危険がせまっていた。そのころ、「天誅組」の残党で長州に亡命し、「遊撃隊」の参謀となり、のちに「鳥羽伏見の戦い」で死んだ上田完児《うえだかんじ》などがいて、これらが主となり、「奇兵隊」幹部とも相談し、同隊の本営があった吉田村(現在下関市に編入)に彼女をかくまった。  慶応元年五月、登美は女の子を生んだ。「中山」にちなんで「仲子《なかこ》」と名づけられた。その時分には毛利本藩の情勢もかわり、�正論派�の勢力が強くなっていたので、登美母子は山口にうつり、毛利家に養われた。そして仲子が十歳になったとき中山家に引きとられ、侯爵|正親《おおぎ》町三条《まちさんじよう》実愛《さねなる》の嫡子|公勝《きみかつ》と結婚した。古い「人事興信録」を見ると、仲子には「南加」の字があてられ、忠能から数えて四代目になる侯爵中山|輔親《すけちか》の�大叔母�ということになっている。  実愛は、幕末、岩倉具視、中山忠能、中御門経之《なかみかどつねゆき》らと結び、王政復古のために、公卿派の中堅分子として大いに活躍した人物で、慶応三年十月、大久保一蔵(利通)、広沢兵助に討幕の密勅を授けたのは彼だ。公勝は『全国皆士族論』などの著者として知られているが、「正親町三条」という姓は、のちに「嵯峨《さが》」と改められた。  [#小見出し]すべてはウヤムヤに……  中山忠光は明治天皇の叔父にあたるから、登美の生んだ仲子は、明治天皇の従妹ということになる。これが王政復古の直前に生をうけて、ついに父の顔を見ることができなかったのである。忠光の死の真相もわからないままだ。  明治政府ができたのは、忠光の死後三年のことで、事件の記憶はまだ生々しく、新政府でこれをとりあげ、犯人やその背後関係の追及にのり出せば、できないことはなかったはずである。それがなされなかったというのは、新政府では、長藩出身者が薩藩出身者と勢力を二分し、強い発言権をもっていたので、自分たちにとって都合の悪いことはすべてウヤムヤにしてしまったのであろう。  ところで、毛利藩の基本的性格は、  第一に、質素倹約をむねとすること  第二に、伝統を重んずること  である。毛利藩の表むきの禄高は三十七万石であったが、明治四年の廃藩置県のさいの奉還禄では百万石となっている。新政府の原動力になったというので、少々虚勢をはっていると見られる点がないでもないが、「関ケ原の役」後、二百六、七十年のあいだに、経済的にも実力を増大してきたことは明らかである。  全国の有名な大名の邸宅には、たいてい�名苑�がついている。金沢の「兼六園」、高松の「栗林公園」、岡山の「後楽園」、水戸の「偕楽園」、広島の「縮景園」などがそれだ。しかるに、長州藩には、本藩、支藩を通じて、これに類するものがない。しいて求めれば、岩国の「錦帯橋」くらいのものである。  だが、この橋も、藩主の趣味や道楽でつくられたものではない。「日本三奇橋」の随一にかぞえられるという形の橋を考案したのは、藩主|吉川広嘉《きつかわひろよし》自身であるが、広嘉は「関ケ原の役」で徳川氏に款を通じて宗家の命脈を保つことをえた吉川|広家《ひろいえ》(元春の三男)からかぞえて、三代目である。岩国を貫流する錦川がしばしばハンランし、なんど橋をかけても流失するので、困りぬいていた。あるとき、モチを焼いていると、弓状にふくれあがってくるのを見て、この形を思いついたのだという。橋脚の構造など、近代科学の上から見ても、驚くべく合理的にできている。車を主たる交通機関とする現在では、観光の対象にしかなっていないように思われるが、本来はきわめて実用的なものだったのだ。  大名の�象徴�ともいうべき城でさえも、毛利藩には、萩に「指月城《しづきじよう》」が一つあるだけで、これもそう特別にりっぱとか、雄大だとかいえるものではない。そして明治政府が生まれるとともに、なんのみれんもなく、諸藩に先んじて解体してしまった。その前に、この藩に招かれてきた外人教師のとった写真が、絵ハガキになって残っているだけだ。  これに反して、とくに堂々としているのは歴代藩主の墓である。萩の大照院とか、東光院とかの墓地は、今は手入れがいきとどいていないけれど、他の大名の墓地にくらべて、比較にならぬほどりっぱである。  毛利家発祥の地は、芸州吉田(広島県高田郡にある)で、天正十九年|輝元《てるもと》が広島に城を築いてうつるまでここにいたのであるが、吉田には藩祖|元就《もとなり》(輝元の祖父)の墓がある。この墓地に元就の碑をたてることになり、岡田馨《おかだかおる》(のちに馨蔵)という書家を現地におくってその碑文を書かせたところ、碑文のなかのある字に、点のうちかたが一つ足りないことが、あとでわかった。そこで、岡田はその点をうつため、わざわざ吉田までもう一度派遣された。これを�一点の御使者�といって、毛利家をめぐる有名な伝説の一つになっている。  さらに毛利藩では古い文献類を大切に、豊富に保存している点でも、紀州藩などとともに、全国に冠たるものだといわれている。これらの古文書は、非常時にはいつでももち出せるようになっていて、写本も�影写�と�改写�と二種類ずつとってあった。この点では、本藩も支藩もちがいはなかった。  伊藤博文の長女|生子《いくこ》の婿で、文学博士、法学博士の肩書きをもつ末松謙澄が編集した『防長回天史』は、この豊富な資料によったものである。この編集員のなかに、日本社会主義運動の長老|堺利彦《さかいとしひこ》がいたことは、世間にあまり知られていない。明治三十二年、堺が『万朝報』に入社する前のことで、これで彼の生活が一時ささえられていたのだ。  こういった毛利藩の伝統にそむいて、支藩の長府藩、清末藩に、古文書がほんのわずかしかのこっていないというのは、明らかに忠光謀殺と関係があると見るべきで、維新政府成立後、幾日もかかって焼きすてたのだといわれている。日本の敗戦直後、官庁や新聞社などで、�太平洋戦争�にかんする重要な資料をあわてて処分したのと同じだ。  そればかりでなく、前にのべた「白石日記」や「奇兵隊日記」のようなものまで、計画的に一部を削除、もしくは修正したあとがあるということは、当時の文献インメツがこういった面にまでおよんでいることを物語っている。  忠光の遺体を埋めたところにつくられた中山神社は、はじめ住吉神社の末社としてあつかわれ、忠光護衛の任にあたっていた国司直記が神官になって奉祀した。寝ざめが悪かったのであろう。明治十八年明治天皇山口行幸のみぎり、金幣を賜い、昭和二年にりっぱな社殿ができて県社に昇格した。  [#小見出し]神さま創造のモデル・ケース  今年、すなわち昭和三十九年(一九六四年)は、中山忠光が死んでからまる百年になる。  毎年五月十七、十八日の両日、下関綾羅木の中山神社では、春の大祭がおこなわれ、農具市その他いろいろの催しがあってにぎわうそうであるが、この地方では、忠光は農産、漁業、健脚、雨乞いの神ということになっている。そして、これにはすべて因縁話がついている。  忠光が田耕村の農家万次郎方にかくまわれているとき、同家で妙なものを食べているのを見て、 「これは何か」 ときいた。�麦�というもので、山国では米があまりとれないから、これを常食としているのだと答えると、忠光は深く同情し、米の増産について考えたということから、忠光は�農産の神�となったのだという。  忠光はまた川猟が好きで、亡命生活の退屈をまぎらすため、しばしば近くの川に出かけて、魚をとってまわった。たいへん力が強く、二、三人かからないと動かないような岩を一人でおこし、その下にいる魚を手どりにするのであるが、忠光に見つかったら、コイでもウナギでも、その威光にうたれて、すくんで動かなかった。そこで、彼は�漁業の神�ということになり、毎年八月一日には、神社裏手の海浜に「神事所」をもうけ、漁業協同組合のものがあつまって網引きをおこなうことが、この地方の年中行事の一つとなっている。  忠光がかくまわれていた田耕村の農家は、たいてい猟師を兼ねていて、農閑期には山にはいり、イノシシ狩り、キノコとりなどをしてくらすのであるが、忠光はいつもこれに同行し、山野をかけずりまわり、けわしい絶壁も平気で登り降りした。そのため忠光は�健脚の神�ともなっている。  さいごに�雨乞いの神�であるが、これは少し事情がちがっている。嘉永六年の夏、京都地方は、かつてない大干天に見まわれ、田畑の作物は枯死し、市内の井戸はほとんどかれて、飲み水にもことかいた。  ところが、中山邸内の井戸(明治天皇のうぶ湯につかわれたので、天皇の幼名�祐宮《さちのみや》�にちなみ�祐《さち》の井《い》�と名づけられている)だけは、水の絶えることなく、こんこんとわきつづけた。これで助かったものも多かった。  このことが伝わって、忠光はまた�雨乞いの神�にもなったのである。昭和十四年、山口県下が大干天におちいったとき、中山神社で雨乞いの大祈願祭をおこなったところ、二日目の午後になって大雨がふり出したという。  こうなると中山神社は、�神社のスーパー・マーケット�みたいだが、以上の話は、下関で出版された『馬関覚え帖』に、佐藤治《さとうおさむ》という人の書いていることで、どの程度事実に即しているのか、わたくしにはわからない。わかっていることは、明治になって、毛利藩では、自分たちの手で殺した忠光を神格化し、そのPRにずいぶん骨をおったらしいということである。「神さまはいかにしてつくられるか」ということの一つの見本、モデル・ケースだともいえよう。  中山神社の境内には、忠光の墓とともに、彼の歌碑もつくられていて、これには、   思いきや野田の案山子《かかし》の梓弓《あずさゆみ》       引きもはなたで朽ちはてむとは というのが、忠光の�辞世の歌�として彫りこまれている。だれがつくったか知らないけれど、あのような死にかたをしたものが、こんなものをつくったということは考えられない。それでいて世間にちゃんと通用するのだから不思議である。むかしから不慮の死をとげた義人、烈士の�辞世の歌�には、偽作が多い。というよりも、ほとんど偽作といっていいだろう。  しかし、これも故人にたいする大衆感情の一つのあらわれと見るならば、偽作ということで、これを非難の対象にのみすることはまちがいである。�辞世の歌�ばかりでなく、日本の古い文献には偽作がきわめて多い。今のような形のマスコミのなかった時代、大衆の自己表現欲にきびしい制限の加えられていた時代には、知識人の自己表現本能が、偽作という形で満足させられていたのである。したがって、�辞世の歌�を第三者が偽作することも、墓や神社をつくることと、大してかわりはないということになる。  日本ほど神さまの多い国はない。欧米では、神さまというと、キリスト、マリアなど、ほとんどキリスト教関係に限られているが、日本では軍人、忠臣、学者、孝子、義民など、各種の人間に関連したものが大部分を占めている。菅原道真《すがわらみちざね》をまつった�天神さま�や、応神天皇をまつった�八幡さま�などにいたっては、いたるところにあるが、�お稲荷さま�のようにキツネを神さまあつかいしたものもあれば、ビワ湖の竹生島の弁財天堂のように、芸能を神格化したものもある。  明治以後においても、乃木神社、東郷神社をはじめ、新しい多くの神々が生まれた。戦後では「ノーベル賞」をえた湯川秀樹のため、京都大学のなかに�湯川神社�をたてる計画があった。 �大東亜戦争�に日本が勝っていたならば�東条神社�をはじめ、日本中は軍人をまつった神社、銅像、記念碑などで埋まっていたかもしれない。  これは日本人の精神構造を知る上に、一つの有力なカギを提供するものである。 [#改ページ] [#中見出し]百年前の逆帝国主義   ——�大東亜共栄圏�の構想がうかがわれる真木和泉の考え方——  [#小見出し]純然たる商業都市  長藩は薩藩とともに、とくに軍国主義的性格の強い藩と考えられていたが、そのなかにあって下関は、防長二州の他の都市に見られない面をもっていた。純然たる商業都市で、城下町ではないということである。土地がせまいために、長崎や堺のようには発展しなかったけれど、瀬戸内海の入り口をやくし、すでに対宋貿易のころから、物資の交流の上で大きな役割を果たした。武士の住みつかない町で、町民の自治がある程度認められていた。  この町を支配するものを「大庄屋」もしくは「大年寄」といった。いまの「市長」に相当するものだ。徳川時代には、この上に藩主がいたことはいうまでもない。  幕末、勤皇派の志士たちのパトロンとなっていた白石家のことはしばしばのべたが、下関第一の旧家は、なんといっても伊藤家で、同家は毛利家が長州にはいる前々からここに住んでいたという。同家は下関市阿弥陀寺町にあるが、これは明治二十八年春、李鴻章《りこうしよう》、伊藤博文、陸奥宗光《むつむねみつ》などが相会して「日清講和談判」をおこない、「下関条約」を結んだ場所として有名な「春帆楼《しゆんぱんろう》」のすぐ下にあった。維新後、最初の明治天皇ご西幸のあったときにも、伊藤家が行在所としてえらばれた。  こういった大庄屋は、たいてい�本陣�といって、宿を兼ねていた。九州の諸大名が参覲交代などで下関を通過するばあいには、この�本陣�に宿をとるのが普通であった。  大名ばかりでなく、長崎出島の甲比丹《カピタン》(商館長)が江戸に出かけるときもそうであった。これには大勢のお供がゾロゾロとついていったものだ。  したがって、伊藤家には、ナイフ、フォークなどの西洋流の食器、イス、テーブル、ベッドなどの西洋流の家具から、西洋料理のできる料理人まで、ひと通りはそろっていたという。  それに、代々の伊藤家の当主は、いずれも西洋の趣味や教養を身につけて、心から客を歓待したものらしい。  文政五年(一八二二年)ブロンホフという甲比丹に随行したフィッシャーは、つぎのように書きのこしている。 「検使、通詞にして町長を兼ねたる宿主(伊藤)らは、われらとすべての楽しみを共にした。夜は多くの愉快な仲間があつまって、われらと同席し、できるかぎり、われらの滞留に慰安を与えようとした。この宿主は、ファン・デン・ベルグという異名を与えられ、オランダ語はできないけれど、オランダの習慣はなんでも学び、オランダの器物はなんでもあつめることを楽しみとしていた」  これでみても、伊藤家の人々が、いかに心をこめて外来の珍客をもてなしたかがわかる。  いまはどうなっているか知らないが、伊藤家の家宝の一つとして珍蔵されていたものに、百四、五十年も前、オランダ人がえがき、オランダ人が賛をした「富岳図」というのがあった。これは田子ノ浦あたりから見た富士山を毛筆で南画ふうにえがいたもので、筆者は長崎のオランダ医官ファイルク、これに賛をよせているのは、有名な甲比丹ドーフである。  ヘンドリク・ドーフ(日本では「道富」という字をあてた)は、アムステルダムの生まれで、長崎のオランダ商館書記から商館長になったものだが、在任中、江戸に三回も行っている。当時、オランダ本国がナポレオンによってフランスに併合され、ジャワもイギリスに占領されて、総督ラフルズが長崎出島をもその手におさめようとして、軍艦「フェートン号」を派遣してきて、有名な「フェートン号事件」をおこしたが、ドーフは毅然《きぜん》たる態度で出島を守った。オランダの国旗がひるがえっていたのは長崎だけといわれたのはこのときだ。  貿易がマヒ状態にあったときの暇を利用してドーフは、長崎の日本人通詞を多数動員して蘭日辞書を編集した。 「道富ハルマ」と呼ばれているものがこれだ。  それよりもわたくしが興味をもったのは、伊藤家所蔵の「富岳図」にドーフのよせた賛で、これはつぎのような意味のものである。 「山と谷は決して出合わないものだけれど、人間と人間とはいつでも和合できるものである」  これを読んでわたくしは、先年フルシチョフがはじめてアメリカを訪問したとき、アメリカ側の歓迎に答えて、 「山と山はどんなに近くにあっても歩みよれないものだが、人と人、国と国とは、どんなに遠くはなれても歩みよることができる」 といったのを思い出した。これはロシアのコトワザだときいたが、古くから∃ーロッパ各地には、同じようなものが普及しているのであろう。  [#小見出し]薩長に�秘密の窓口�  「それ鎖攘(鎖国攘夷)のことたるや、もとよりおこなうべからざるのことたり。今にしてこれを思えば、余輩もまた忸怩《じくじ》(恥ずかしいこと)なき能わず」  これは明治二十一年に出版された島田三郎の『開国始末』に山県有朋がよせた序文の一部である。本書は、周囲の反対や世論の動向を無視して�開国�にふみきった井伊直弼《いいなおすけ》の功をたたえたものだ。 �攘夷論�の急先鋒となっていた薩長の指導的分子が、幕府を倒して権力の座につくとともに、たちまち百八十度の転向ぶりを示し、もっとも積極的な開国論者となり、またこれを実行してみせたというのは、果たしてどういうわけか。  明治維新史の基本的性格を知るカギとなるこの問題は、薩摩と長州のもっている地理条件と切りはなすことのできないものである。徳川時代に、外国にむかって開かれていた唯一の窓口であった長崎をはじめ、北の戸口となっていた箱館にしても、すべて幕府の直轄とされていたが、薩摩と長州だけは、自藩専用の秘密のトビラをもっていた。薩摩の琉球と長州の下関がそれだ。これがこれらの両藩の独特の性格を形づくる上に役立った。ことばをかえていえば、幕末に近づくにつれて、両藩が�攘夷論�をリードすることによって幕府を窮地におとしいれたということは、それだけ早くから国際認識をもっていたということにもなる。つまり、欧米諸国の実力をよく心得ていて、日本は一日も早くこれに追いつき追いこさねばならぬ、それには幕府という形の古い統治形態を打破する必要があると考えたのだ。  したがって、あとになってみると、両藩にとっては、�攘夷�も�開国�も、実は盾の両面のようなものであって、公卿や他藩のものは、両藩の�志士�たち、すなわちアジテーターに踊らされたのである。  琉球は、鹿児島から遠くはなれた海上にあるので、この窓口を通じて外国を見ることは、島津藩主およびその側近に侍していたごく少数の人物の特権となっていた。この特権を最大限に利用して自藩の強化をはかったのが島津斉彬《しまづなりあきら》である。  毛利藩にしても、萩や山口だけで、下関をもたなかったならば、藩の性格も、維新史における役割も、ちがったものになっていたろう。ただし、下関は琉球とちがって、萩や山口とは陸つづきであり、いそげば一日の行程内にあった。同じ毛利藩がどっちかというと保守性が強かったのに反し、支藩の長府藩は、より進歩的であったのは、前にのべた地理的な性格とつながっているのである。  こればかりではなく、「奇兵隊」その他新しい兵制に基づく諸隊も、主として下関でつくられた。また吉田松陰の「松下村塾」は萩にあったけれど、そこから巣立ったもの、直接間接にその影響下にあって、幕末から明治にかけて積極的な動きを見せたものは、高杉晋作以下、桂小五郎、山県狂介、井上聞多、伊藤俊輔など、下関を主たる活躍の舞台とした。武士と商人がとけこんでいる海港としてのムード、長崎への往来にも便利だといったような条件が、進歩的な�志士�たちの気分によくマッチしたのだ。  それはさておいて、高杉が讃岐から下関にかえりついたのは、慶応元年四月二十六日で、井上聞多や伊藤俊輔とも、すぐ連絡がついた。一か月ばかりおくれて但馬からかえった桂小五郎は、木戸準一郎と名を改めていた。これらの�同志�たちがあつまって相談した結果、一致した意見というのは、早急に長藩の軍事力を充実することであった。それにはまず兵器も戦術も西欧化する必要があった。  そのため、下関・上海、もしくは下関・長崎・上海の密輸ルートが、フルに利用された。幕府支持にかたむきつつあったフランス公使ロッシュは、前に連合して下関攻撃をおこなった英・米・蘭の代表をいざない、「四か国会議」を開いて、下関海峡における長州藩砲台の再武装反対、不法貿易の禁止などの決議をおこなったけれど、その裏では、各国の�死の商人�たちがさかんに活躍した。  アメリカ人ドレークの例をあげると、彼は長藩の「壬戌丸《じんじゆつまる》」を三万五千ドルで買いとる契約を結び、これに村田蔵六をのせて、自分の持ち船「フィーパン号」で上海に引航し、「壬戌丸」を売って、その金でゲベール銃などを仕入れてかえってきた。  そのほか、英国人グラバー、ラウダなども、長州への武器売りこみには積極的に動いたが、当時、ゲベール銃は一挺五両くらいであった。村田の手紙では、�上海�のことを�山背=サンハイ�と書いている。  新任のイギリス公使パークスが鹿児島を訪問するというニュースが、長藩にはいったのもそのころである。馬関戦争で負けてからしきりにイギリスへ接近を図っていた長藩は、このバスにのりおくれてはたいへんだというので、猛烈な割りこみ運動をはじめた。  [#小見出し]英国が頼みの綱  オールコックにかわってイギリス公使となったパークスが、鹿児島を訪問する途中、下関に立ちよるという情報をキャッチした高杉晋作は、この機会を逸してはとばかり、伊藤をつれてあいさつに出かけた。毛利藩主も同行するところであったが、ちょうどそのころ、幕府を相手の「広島談判」が決裂し、長藩では毎日のように君前会議を開いていて、からだをぬくことができなかった。  長藩が英・仏・米・蘭の連合艦隊を相手に下関で戦い、講和が成立してから、まだいくらもたっていないが、その後、幕府という大敵を向こうにまわして戦っている長藩としては、四か国のなかでも、とくに英国は頼みの綱である。英国のほうでも、フランスが積極的に幕府を支持しはじめた以上、幕府の有力な対抗馬である薩藩、長藩を手なずける必要を感じていた。鹿児島訪問もその目的から出たもので、ついでに長州もという下心があったことは明らかだ。  高杉と伊藤が訪ねて行くと、パークスは二人を艦内の貴賓室に案内した。高杉が室内を見まわしたところ、テーブルの上に、ものすごく立派なギヤマンの花瓶《かびん》が飾ってあった。高杉の目がじっとそのほうにそそがれているのを見てパークスはいった。 「この花瓶がたいへんお気に召したようですね。これをあなたに進呈しましょう。そのかわり何か日本独特のもの、ほかの国にないものを、あなたからいただけませんか」 「よろしい。わたしのほうからも何か記念の品を差し上げましょう」  こういって高杉は室を出ていったが、しばらくして白い布の一片をもってはいってきた。 「見たところ、これは一片の布にすぎませんが、日本独特のもので、しかも日本の男性になくてはならぬものです。日本ではこれを�越中フンドシ�といいます。ごく簡便にできていますが、ときとすると、向こうからはずれるというのがこの品の難点です。世のなかのこともこれと同じで、堅く約束したことでもそのとおりにいかないことがよくありますので、油断は禁物です。日本では、約束ごとははずれやすいということのたとえに、この品を例につかっています」  これをきいて、一同はアッケにとられ、互いに顔を見合わすばかりであった。しかし、さすがにパークスは外交家だけあって、�越中フンドシ�の用途なり、このさい高杉がこれをもち出した意図なりをのみこむと、彼に手をさしのべて、 「なによりも貴重な品と大切な教訓をいただいて、たいへんありがたく思います」 といった。そのあと、一同ドッと笑った。そしてイギリスと長州のあいだに結ばれた友情は、決してこのフンドシのようにはずれることはないことを誓って、一同乾杯したという。  この話は、むろん、つくり話にちがいない。高杉がいくら機知、奇行に富んでいるからといって、こういった席上で、外人に�越中フンドシ�をおくるなどということはありえない。それに「約束と越中フンドシは向こうからはずれる」などというシャレが、これをつかったこともない外国人に通じるとは思えない。だが、いかにも高杉が思いつき、実行しそうなこととして、だれかが創作したのであろう。  パークスは、鹿児島訪問の帰途、ふたたび下関に寄港して、毛利藩主と会見することを約束したが、当時の長藩は、幕府の「第二次長州征伐」をひかえて、それどころではなかった。  だが、それからまもなく、イギリスの東洋艦隊司令長官キングが長州を訪問した。そのころになると、長州は各地で大勝を博し、意気さかんなものであったので、この珍客を迎えて大いに歓迎した。  キング提督の接待には、三田尻の豪商|貞永隼太《さだながはやた》の家が用いられた。貞永は正甫《しようすけ》ともいい、先代庄右衛門のときから商業に従事していたが、塩田を開発し、できた塩をもってエゾ地の物産と交易して巨利を博したものだ。隼太は詩や絵にも長じ、木戸や高杉などともまじわり、かれらのパトロンにもなっていた人物である。  このために毛利藩主|敬親《たかちか》は世子|広封《ひろとみ》(もと定広《さだひろ》、のちに元徳《もとのり》)、岩国藩主|吉川監物《きつかわけんもつ》、家老|宍戸備《ししどびん》後助《ごのすけ》(宍戸|備前《びぜん》の養子、もとの名は山県半蔵《やまがたはんぞう》)、木戸準一郎、柏村数馬《かしわむらかずま》、井上聞多、波多野金吾《はたのきんご》(のちに広沢真臣《ひろさわさねおみ》)を引き具して、わざわざ三田尻まで出むいた。  柏村はのちに山口藩士監察、毛利家家令などを経て第十五銀行支配人となったが、広沢は明治政府の民部大輔、参議となり、ナゾの刺客のために倒れたことは有名である。  このときのもてなしは、豪奢《ごうしや》をきわめたもので、座敷の正面床には、三連立幅、狩野探幽《かのうたんゆう》の淡彩、中幅は寿老、左右は松竹梅、床の置き物はシナ古代青貝の卓に青磁猿の香炉、床脇には三十六歌仙画ならびに歌帖——といったようなものが、ずらりとならべてあった。料理も、鴻《こう》の吸い物以下十品もついた。  それよりも、キング提督以下客人のドギモをぬくようなことがおこなわれた。  [#小見出し]長藩・英国の�蜜月時代�  キング提督のかけていたイスには、大きな狒々《ひひ》の毛皮がかけてあった。藩主敬親のイスにも、まったく同じ色、同じ大きさの毛皮がかかっているのを見て、よくも同じものを二つそろえることができたものだとキングは感嘆した。  これをきいて、実はこの毛皮は、毛利家で大切に秘蔵している品であるが、珍客をむかえて、一枚しかないものを二枚そろえねばならなくなった。とっさの思いつきで、これを刀でまっ二つにきって主客に提供したものだと説明した。むろん、これは南蛮渡来の品で、その大きさといい、色ツヤといい、二度とえがたい高価な品であることを知っている提督以下外人たちは、この話をきいて、�大名�というものの豪華さと、大胆なふるまいに舌をまいた。この狒々の毛皮の�一刀両断�を思いつき、独断でこれを実行したのは波多野金吾だといわれているが、多分この話もマユツバものであろう。  その翌日、こんどは提督のほうで、敬親父子以下を軍艦に招待した。軍艦では、二十一発の祝砲を放ち、軍楽隊が演奏し、提督以下全将校が甲板にならんでこれを出迎えた。それから提督が先に立って艦内を案内し、大砲や諸機関の性能、運用などを一つ一つ説明した上、食事を共にし、艦上で記念撮影をおこなった。  このようにして�攘夷�のさきがけをした長藩が、こんどは�和親�のさきがけをしたのである。  だが、こういうことは、藩主およびその側近たちのみによっておこなわれたのであって、近隣の諸藩はもちろん、長州人の大部分はその真相を知らされていなかった。  藩政府は、藩内にたいして、 「英艦まかりこし、拝謁相願い候につき、最初御覚悟のとおり、御相対なされ」 といって先方から�拝謁�を願い出たから会ってやったまでだ、といったようなことをいっている。またお隣の芸州藩には、 「敬親、領内鎮撫巡回中、おりから英艦渡来につき、前件止戦の行きがかりもこれあり、父子ならびに吉川監物一同相対し候間、御内聞に入れおき候」 といっている。この前の�止戦�(実は降服)の行きがかりもあって、やむをえず、イギリス提督と会うことは会ったのだけれど、このことは�御内聞�にというわけだ。  こういう虚勢のはりかた、欺瞞《ぎまん》、二重性格は、いかにも東洋的で、シナ、朝鮮、日本などの対外関係にしばしばあらわれてくるものである。東洋諸国のあいだでは、万事承知の上で、古くから相互にこの手をつかってきているから、バレたところで別に問題にならないが、欧米がこれを知ったならば、さぞ奇異に感じ、相手国を軽んじたにちがいない。  日本人のなかでも、とくに長州人の一部にこの傾向が強い。長州人特有の�政治性�と呼ばれているものだ。この性格が日本の軍部、とくに陸軍部内に、長州系軍人を通じて深く浸透し、日本陸軍の重要な特性を形成していたともいえる。そして結果においては、これによって軍部が国民大衆をあざむいたということになった。国民大衆の軍部にたいする不信感も、実は長州人のこういった性格とつながっているのではあるまいか。  とにかく、このあとイギリス人と長州人とは急に親しくなり、人間の交流もさかんにおこなわれた。この交流は主として長崎を舞台にしてなされたものだ。伊藤がパウンドというアイルランド系のイギリス人を下関へつれてきて手をやいたのも、このころのことである。  パウンドは、日本語がしゃべれて、その名にちなみ「重井鉄之助《おもいてつのすけ》」という日本名を名のっていたが、いつも日本の着物をきて、日本の食べものはなんでも食べ、日本人になりたいといっていた。伊藤は外国語の先生にするつもりで、長崎からつれてきたのであるが、大酒のみで、のむと乱暴をはたらく。長州ではもてあまし、いっそのこと斬ってしまえということになったが、この空気を察した彼は、先手をうって、どこかへ逐電してしまった。  翌慶応三年のことであるが、伊藤はまたドクトル・ベオールと称するアメリカ人を横浜から長州へつれてきた。藩政府と相談のうえ、これに三田尻で外国語学校を開かせようというのだった。  話はもとへもどるが、キング提督が長州を引き揚げるとき、井上聞多は英艦に同乗、兵庫まで送って行って、京阪の情勢を偵察してかえった。  伊藤も、長崎に行ったとき、英艦にのせてもらって、朝鮮の島々をまわって歩いたりしている。「きのうの敵はきょうの友」というが、このころの長英関係は、まさに�蜜月時代�ともいうべき状態にあった。かれらが政権の座についてから、急に欧米一辺倒に転向したわけではない。  [#小見出し]七卿は長藩のマスコット  長藩に身をよせた中山忠光は、長藩のマスコットとして大切にされていたのであるが、忠光の異常性格と藩内情勢の変化から、ついにこれをしめ殺してしまったことは前にのべたが、当時長藩はもっと大きなマスコットをもっていた。それは三条実美以下の�七卿�である。  この七名の亡命者をかかえこんでいるということは、長藩の朝廷への忠誠心の象徴のようなもので、心のよりどころでもあった。それだけに心理的な負担が大きく、別に直接の利益をもたらすことはなかったが、幕府と雄藩との勢力バランスが破れ、薩長の攻守同盟が具体化するにつれて、�七卿�の存在が、長州側の有力なもちゴマとしてものをいうようになった。 �七卿�が�都落ち�をしたとき、最年長の三条西季知《さんじようにしすえとも》が五十二歳、四条隆謌《しじようたかうた》が三十六歳、東久世通禧《ひがしくぜみちとみ》が三十一歳、壬生基修《みぶもとなが》と沢宣嘉《さわのぶよし》が二十九歳、三条実美と錦小《にしきのこう》路頼徳《じよりのり》が二十七歳であった。いずれもかぞえ年で、最年少の三条が終始盟主格になっていたのはどういうわけか。  まず家柄である。三条家は�閑院家《かんいんけ》�と呼ばれているものの総本家で、五摂家につぐ名門である。三条家の人物で名前に�実�の字のついているものは傑出し、�公�の字のつくのは凡庸だといわれているが、実美の父|実萬《さねつむ》は、ことなかれ主義者の多い当時の公卿のなかでは、とくに意欲的な人物であった。宝暦時代(一七五一年——六三年)、竹内《たけのうち》式部《しきぶ》や山県大貳《やまがただいに》が朝廷にくいこんで、朝権の回復をはかる�血盟組�をつくり、幕府によって処刑されるにいたったが、それから百年後にその精神をうけついだのが実萬である。  竹内・山県の時代には、公卿たちは外から煽動された形だったが、実萬の場合は、公卿社会の内部から、その自覚をうながすために、実萬たちが率先して「学習院」をつくった。また外国との条約勅許問題では、実萬は幕府のとった処置に強く反対し、ついに隠居させられた。そのあとをうけたのが、二十歳を出たばかりの実美である。形の上からいうと、二十代で父の地盤をうけついで代議士に当選したようなものだが、それよりは筋金がはいっていた。これは時代と環境のちがいに基づいている。  実美は、攘夷厳命の勅書をもって江戸に使いしたり、雄藩に命じて朝廷に�ご親兵�を出させて、その掛長《かかりちよう》となったり、着々朝権の伸張をはかり、勤皇攘夷の�志士�たちのあいだでホープとされていた。それが文久三年八月十八日、中《なか》川宮《がわのみや》、近衛忠熈《このえただひろ》、二条斉敬《にじようなりゆき》に、会津、薩摩を加えた佐幕派のクーデターにもろくも散れ、長州に亡命せざるをえなくなったのである。これは機関車が進みすぎて、客車をおき去りにしたようなものだった。 �ご親兵�のなかには、�七卿�を守護して行くことを望むものが多かったけれど、実美はねんごろにさとして、原藩に引きとらせた。それでもどうしてもついて行きたいというものが六十余人出た。別に長州兵千余人が送って行くことになった。  これに要する旅費、雑費は相当な金額で、七卿は肥後の宮部鼎蔵《みやべていぞう》を召し、京阪の豪商・有志のあいだを説いてまわらせ、これを調達させようとした。しかし、急を要する場合であり、それに権力の座からはなれ去ったものにとって、多額の金をあつめることは無理であった。  ところが、その夏、長藩から朝廷に一万両献納することになっていたところ、納めたのは三千両で、のこりの七千両はまだ京都の長藩邸にあることがわかり、その金を流用することになった。これを申し出たのは、藩邸の会計を預かっていた河上忠《かわかみちゆう》右衛門《えもん》というもので、その後におこった「生野の変」に、�七卿�の一人|沢宣嘉《さわのぶよし》をおし立て、「奇兵隊」をひきいて参加し、敗れて自決した河上弥一《かわかみやいち》の実父である。 �七卿落ち�については、当時、京阪地方にいろんなデマがとんだが、その一つは、実美が睦仁親王《むつひとしんのう》(のちの明治天皇)にバケておちて行ったということである。これは孝明天皇の耳にも達したとみえて、同年十月二十九日、近衛忠熈にたまわった勅書にも、 「実美、白衣袴の体にて、淀橋本辺より儲君(皇太子)と偽称し、長州へ下向の風説」 ということが記されている。この風説をつくって流したのはだれだかわからないが、会津、薩摩のものは、これはデマでなくて事実睦仁親王自身が長州に下向されたものと思いこんだらしい。これについて権典侍|樹下範子《きのしたのりこ》もつぎのごとく語っている。  「�七卿落ち�の当時は、三条公がお若くご立派でいらしたので、よく明治天皇さまとまちがわれました。三条公の姿を見たものが、恐れながら明治天皇さまだといってどうしてもききいれなかったのでございます。そこで、ぜひ明治さまに拝謁いたしてこのウワサの真偽をたしかめたいと、会津藩のものが、たって拝謁を願い出ました。明治さまは、お髪《ぐし》を御童《おわらわ》に結わせられ、御小《おこ》直衣《なおし》を召させられ、御三の間で、それらの役人にご対面遊ばされました」  こうして目の前に睦仁親王をながめながら、このかたは女人で、ご本人ではないといって承服しなかったという。  [#小見出し]保守派のリーダー中川宮  当時、朝廷およびその周辺において、極左的立場をとっていたのが中山忠光だとすれば、これと正面から対立して、公武合体をリードしていたのが中川宮である。しかし、保守的といっても、�尊皇攘夷�を第一義とする点ではかわりがなく、万一外国船が大阪にやってきて、京都をおびやかすようなことにでもなれば、自ら叡山の衆徒をひきいて朝廷を守るために、衆徒に武芸を習得させていたくらいで、自分を大塔宮護良親王に擬していた点では、忠光とかわりはなかった。  ただし、年齢の上では、中川宮は、当時三十九歳で、忠光の二倍に達していただけに、忠光のような純然たる�激徒�ではなく、思慮分別もあり、策謀力も身につけていた。  忠光は明治天皇の叔父にあたるが、このつながりは女系に属している。中川宮は、朝彦親王《あさひこしんのう》といって、伏見宮第十九代|邦家親王《くにいえしんのう》の王子で、仁孝《にんこう》天皇の養子となったかただ。邦家親王には、「雲上御系譜」の「皇族編」によると、こどもが三十七人もあって、朝彦親王はそのなかの二十九番目となっている。生母は鳥居小路経親《とりいこうじつねちか》の娘|信子《のぶこ》で、幼名を熊千代《くまちよ》といい、八歳のときに諸大夫の子ということにして出家させられ、本能寺の僧|日慈《にちじ》のもとにおくられた。いたずらをして祇園町の女中に頭をたたかれたのは、この小僧時代のことだ。それがのちに南都の名刹一乗院の門跡に迎えられ、はじめて輿《こし》にのって通っている姿をみかけた祇園の女中たちは、目を丸くしたという。  ところで、日本歴史、とくに明治維新史上に登場してくる人物を調べていて、ときどき面くらうことは、名前がかわりすぎること、一人の人物で名前をいくつももっていることである。古くから日本では、成長にともなって名前をかえる習慣があったが、とくに明治維新のような変革期においては、地下活動をつづける必要からくるばかりでなく、各個人の思想、立場、趣味などがよくかわり、そのたびに名前をかえたものだ。養子縁組みなどによって名前のかわる場合も多かった。  その点で高杉晋作などは、記録保持者の一人に数えられるが、彼の場合は、環境や心境の変化に応じて、面白半分に名前をかえたのであって、その大部分は、今のことばでいうとペン・ネーム、通称、アダ名のようなものである。  これに反して、実名もしくはそれに近いものが、しばしばかわった回数において、ほかにちょっと類がないのは、中川宮の場合である。伏見宮家から出て、富宮《とみのみや》、青蓮《しようれん》院宮《いんのみや》、粟《あわ》田宮《たのみや》、獅子王《ししおう》院宮《いんのみや》、尹宮《いんのみや》、中川宮、賀《か》陽宮《やのみや》、久《く》邇宮《にのみや》というふうに、宮号だけでも十回近くもかわっている。そのたびに環境がかわったということでもある。  それだけに、中川宮の動きは複雑で、策謀に長じた面もあった。孝明天皇のブレーンとして、親任もっとも厚く、「朕をたすくる尋常連枝の比にあらず」ということばをたまわっている。勤皇攘夷派の公卿や�志士�たちが、この宮を目のかたきにしたのも、天皇にたいする影響力が大きかったからだ。  そこで、維新政府の成立直後、この宮を中心に、いろんな陰謀が企てられ、宮もこれに加わっているといったような流言がとんだ。そのため、慶応四年八月、�親王�の身分、二品《にほん》の位記、仁孝天皇の養子といったような尊遇をすべて剥奪《はくだつ》され、身柄を芸州へうつされた。しかし、翌明治二年にいたり、そういうことがすべて誤解から出ていることが判明したというわけで、もとの伏見宮に復し、さらに明治八年五月、勅旨をもって新しく一家を創立し、「久邇宮」の称をたまわった。  その後、朝彦親王は、伊勢神宮祭主の任につき、明治二十四年六十七歳でなくなるまで、ずっと他の官職にはつかなかった。朝彦親王には、こどもが十八人。そのあとをついだ邦彦王《くによしおう》はその八番目、朝《あさ》香宮《かのみや》鳩彦王《やすひこおう》は十七番目、終戦時に総理大臣の大任につかれた東久邇稔彦《ひがしくになるひこ》氏は十八番目である。  さて、もとの�七卿�の話にもどって、三条西季知は年をとっているので、長州落ちの一行には加わらぬほうがよかろうとすすめられたが、当人は同行を希望してやまなかった。また三条実美は京都へ呼びもどすべきだという説が、諸藩のあいだから出たけれど、会津と薩摩、とくに中川宮が強硬に反対したので、さたやみとなった。かくて七卿らの去ったあと、朝廷では、中川宮、近衛忠熈、二条斉敬らを中心とする反長州内閣ができて、天皇から、 「三条初め、暴烈の所置、深く痛心の次第」 という意味のお手紙をたまわった。同時に、七卿の官位は剥奪され、�ご親兵�は解散となり、長藩の建言によってつくられた朝廷の政治的機構は根こそぎこわされた。その一方、中川宮は改めて元服し、�朝彦�という名をたまわるとともに、「二品弾正尹」に任じ、随身兵仗を授けられ、「勅授帯剣」の宣下《せんげ》をうけた。 �政治�というものは、こういうものである。  [#小見出し]明治天皇の恐怖時代 「七卿顕彰会」(代表男爵|沢宣一《さわのぶかず》は�七卿�の一人沢宣嘉の一族)で出している『七卿回天史』のなかで、前に出た権典侍樹下範子がつぎのように語っている。 「十八日(文久三年八月)の晩は、ご廊下にうすべりをしいて、そこで夜をあかしました。  格子をあけて外を見ますと、二か所に火のもえているのがみえたので、格子の外に出ようとすると、侍がかけのぼり、大手をひろげて、外は危険であるから、出てはいけないととめました。なんでも人が潜《しの》びこんだので、警戒していたように思われました。なにせ、天子さまのご通御と申しますと、お側にいるおつきのものが、板敷の上をぞろぞろと歩くので、静かといっても無理な話で、ご通御のおり、紫宸殿の階段に両陛下(孝明天皇、同皇后)がお立ち出でになり、皇后さまは明治さまをお袖のなかにかかえさせられて、ご門内より廷外をご覧になりましたところ、市中に火がみえました。よほど遠いところでありました。  ところが、中川宮さまがこられて、すぐ近いところのように奏上なされ、もったいなくもご恐怖あそばすように申しあげられました。これなど一つの例にすぎませぬ。雲上にのみましますお上《かみ》にたいして、ときには虚言とおどかしのおことばを申されていたことを記憶しております」  これをよむと、このクーデターがおこったときの宮廷内のもようが手にとるようにわかるが、中川宮が天皇にウソをついたり、おどかしたりしたということも、はっきりと書かれている。むろん、本書は�七卿�の立場になって書かれた書物だということを頭に入れて読む必要があるが、書かれていることはだいたい事実と見ていいのではなかろうか。  ちょうど満十一歳になったばかりの明治天皇が、皇后の袖のなかにかかえられて、さぞ恐ろしい思いをされたことだろうと思う。  さらに、翌元治元年七月十九日には、こんどは長州軍が禁闕を侵している。「蛤御門の変」と呼ばれているもので、これまた長州側の失敗におわったが、このときも明治天皇はひどいめにあわれている。  御所の近くで、すさまじい銃声がおこったのをきいて、 「親王(明治天皇)南殿において御逆上、中御門《なかみかど》らの近臣、水をとり、はせ参じて進上、ご正気」 と、『忠能卿記』(中山|忠能《ただやす》は明治天皇の祖父にあたる)に出ているから、これもまちがいではあるまい。親王が帝位につかれてからも、千種有任《ちぐさありとう》から岩倉具視あての手紙によると、 「新帝には毎夜毎夜、御枕へ何かきたり、御責め申候につき、御悩み申すことにて、昨日申しあげ候通り、ご祈祷仰せつけられ候とか、実説の由に候」 と書かれている。夜な夜なうなされたというのだから、今のことばでいうと、ノイローゼといえないまでも、神経質なところがあったのであろう。この大きな変革期に、こういう環境で育ち、急に重大な責任を負わせられたとしたら、そうなるのが当然である。それがのちに一代の�英主�とうたわれるようになられたというのは、西郷隆盛などの主張に基づいて、山岡鉄舟などが中心になり、思いきった再教育、スパルタ式の教育がなされた結果だといわれている。  それはさておいて、京都を立った�七卿�らの一行は、雨のなかを歩きつづけ、二十一日に兵庫へついた。ここには、かれらにとって�忠誠心�の象徴であり、王政復古の原動力ともなった楠正成《くすのきまさしげ》の墓所があるので、一行はさっそくこれにもうでた。表面には徳川光圀《とくがわみつくに》が「嗚呼忠臣楠子之墓」と書き、裏面には明朝の遺臣|朱舜水《しゆしゆんすい》のつくった賛の彫りこまれている墓標の前に、一行はぬかずいてねんごろに祈願をこめた。  京都から兵庫に向かう途中、山崎に近い「桜井駅」にも、自然石に「楠公訣児之処」と題し、裏面に英文で同様の意味のことを刻んだ碑がたっているが、これは明治九年英国公使パークスのつくったものだ。そのそばに乃木大将の書いた同様の記念碑もできている。 �忠誠心�というものは、本来民族主義的なものと見られているが、その強化のためには、ときにこのような形で国際的なつながりをもつばあいも珍しくない。モスクワの「レーニン・スターリン廟」は、もっとも広範な、共産主義への国際的協力を目的につくられた�共産主義神宮�ともいうべきものであるが、フルシチョフが権力の座について、そこからスターリンのミイラがとりのぞかれてしまった。  ところで、この一行のなかに、もと中川宮の家来だった浮田七郎《うきたしちろう》というのがいて、湊川の正成の墓所には、中川宮寄進の釣りドウロウと弓矢を入れた箱のあることをつげたので、�七卿�らはさっそくその取り払いを命じた。中川宮にしても、これを寄進したときには、正成の�忠誠心�にあこがれをいだいていた点において、�七卿�らとかわりはなかったのではなかろうか。数年前まで、ソ連をはじめ、その衛星国の博物館、官庁、公園、街頭、その他いたるところで目についたスターリン像は、今や中国を別にして、完全にとりのぞかれ、あとかたもない。  [#小見出し]楠公の再来・真木父子  公武合体派の実力者は、前にものべたように中川宮で、これに歯の立つものはいなかった。もと福岡藩士で�七卿�に随従していた中村円太《なかむらえんた》がその同志に送った手紙のなかで、  「頃日、京師よりまかり下り候ものの話に、中川宮あるを知りて天子あるを知らざるの勢い、きくにしたがって、落涙千行、悲憤にたえず候」 と書いている。前関白近衛忠熈も、  「中山忠光がきて議論したが、なかなかひどい勢いで、短刀の鯉口《こいぐち》をきって自分にせまったが、公卿というものは、どうすることもできない。こういう場合、まず宮では、中川宮よりほかにない。あとは志があっても、怖れていてなんの役にも立たない」 と告白している。それに、中川宮は、いくらか武芸の心得があり、五斗俵をもちあげるくらいの体力もあったという。権力をもたぬ宮廷の周辺にあって、久しくのんびりした生活になれてきた公卿社会で、中川宮の存在が、いかに重きをなしていたかがわかる。  これにたいして、尊王攘夷派を理論的にも、実践の面でも、完全にリードしていたのは真木《まき》和泉守《いずみのかみ》保臣《やすおみ》である。真木は、熱烈な、狂信的といってもいいくらいの尊皇攘夷派で、�今楠公�と呼ばれていた。�七卿�が湊川で正成の墓所に参拝したのも、ふだんから真木の楠公崇拝を深く、強くつぎこまれていたからだ。  真木家は代々、「水天宮」の神官をつとめていた。「水天宮」というのは、安徳天皇とその生母建礼門院などをまつったもので、本社は久留米にある。東京の日本橋蛎殻町にあるのは、もと有馬藩邸にあった分社をうつしたもので、江戸大衆の信仰をあつめ、ここの縁日は、巣鴨の「とげぬき地蔵」、虎ノ門の「金比羅宮」とともに、�三大縁日�といわれ、大いににぎわったもので、参拝者のあげるサイ銭は、有馬藩のドル箱になっているといわれていた。 「水天宮」はその名前からいって、ガンジス川などを神聖視するインドの信仰とつながっているとも見られているが、日本では�河童《かつぱ》�がこの神さまの�お使い�ということになっている。�河童�が人間や馬を水中にひっぱりこむように、多くの客を引きよせるというので、商家の人気をあつめることができたのだ。  黒船渡来以後、徳川幕府の動揺、弱体化とともに、強力な時代の流れとなった�尊皇攘夷�の運動に参加した多くの�志士�たちの動機や目的は、一人一人の場合について分析すれば、かれらが代々仕えてきた藩の勢力の拡大強化とか、個人的な野心とか、ばくぜんたる現状打破の欲求とか、いろんなものが出てくるであろうが、そのなかにあって、純粋度のもっとも高いもの、地方的もしくは利己的野望などの夾雑物《きようざつぶつ》が最小限で、しかもその全生涯を通じて、�尊皇攘夷�の熱度なり、スタミナなりが最高に達していたと見られる人物を求めるならば、その筆頭に、少なくともベスト・スリーの一人に、真木和泉守の名があげられるのではなかろうか。ひとくちにいって、かれは�尊皇攘夷�のために生まれてきたような人物であった。  さらに興味のあることは、のちの�大東亜戦争�や�大東亜共栄圏�の思想が、真木の頭のなかで、当時、すでにかなり具体的な形をとってあらわれてきていることである。白人がインドを征服し、清国に勝ち、こんどは日本をねらっているのであるが、これは日本にスキがあるから、つまり、日本が一民族、一国家として一体化していないからだとかれは説いている。そこで、  「内、国体をたっとび、外、武威をはり、朝鮮・琉球を版図にいれ、満洲・清国を外藩となさば、すなわち、彼その風烈をのぞみ、必ず屏息して去らん」 というわけで、これに似た考えかたは、松山藩の儒者山田方谷などにもあったことは前にものべた。西欧�帝国主義�の侵略にたいして、インドやシナのような�大国�の抵抗力が予想外にもろかったのに反し、これらと比べものにならぬ小国日本のなかで、自国を守るためには、進んでアジアの他の地域を征服しなければならぬという、�逆帝国主義�ともいうべき積極的な思想が日本の指導的分子の頭に生まれてきたというのはどういうわけか。  日本はかつて外国の侵略をうけた経験がないからか、それとも豊臣秀吉の�大雄図�の心理的残影が、そのころまだ日本人の頭にあって、それが百年後の�大東亜戦争�にまでつづいていたと見るべきであろうか。  真木は、会津・薩摩との戦いに敗れ、天王山で自刃したが、その息子の菊四郎《きくしろう》は、父の志をつぎ、下関にあって、薩長連合について工作しているとき、何者かに暗殺された。この父子こそ、まさしく明治維新における楠公父子の再来、再版ともいうべきものである。久留米の「水天宮」の境内には、「真木神社」というのがつくられているが、これは保臣をまつったものだ。 [#改ページ] [#中見出し]薩・長連合の立役者   ——維新回天の大事業をまとめ上げた坂本龍馬の奇略と功績——  [#小見出し]五卿を長藩からとりあげる �七卿�が長州に亡命してきてから、日本が二元化し、南北朝時代の再現に似たような形をとった。三条実美が皇族であったならば、さしあたり、後醍醐天皇に擬せられて、長藩における�忠誠心の�対象、もしくは象徴のようになっていたかもしれない。しかし、翌元治元年「蛤御門の変」で長藩が敗れ、三家老を犠牲にして、幕府に恭順の意を表するにいたり、長藩では、少なくとも�俗論党�、すなわち恭順派のあいだでは、実美らをもてあました。  そこをつけこんで、幕府は攻勢に転じ、実美らの身柄引きわたしを要求した。幕府側からみれば、実美らは�戦犯�の一種である。しかし、このとき薩摩の西郷吉之助が仲裁役を買って出た、というよりも幕府の第一次征長総督徳川|慶勝《よしかつ》を巧みに説きふせて、実美らを長州からとりあげて、九州の太宰府にうつすことに成功した。このときは七卿のうち、錦小路頼徳は病死しており、沢宣嘉は、生野の変に加わって敗れ、潜伏中のため五卿となっている。太宰府は福岡の黒田藩の領内にあるが、同藩の性格や実力からいって、この大切な人質は、事実上、薩藩の手にうつったも同然であった。これによって幕府に対立もしくは独立する勢力としての薩藩の発言権が高くなり、これまでのマイナスをプラスにかえ、長藩の過去の実績と有利なハンディをくつがえし、きわめて有利な条件で、長藩との反幕連合にもっていくことができたのである。  当時、長藩では、高杉一派のクーデターが成功し、�正論派�が勢力をもりかえしていたので、この派は実美らを九州へうつす、とくに薩藩の手に引きわたすことを頑強に拒否した。 「五卿はわれら長州男子の中軸である。これを他藩へわたすことは決してできぬ。しかし兵力をもってうばうというなら、相手になろう」 とまでいきまいた。これにたいして福岡藩の早川勇《はやかわいさみ》、月形洗蔵などはいった。 「五卿は今や天下の中軸である。君たちは、数百年来の恩義をかさねてきた毛利父子をすててかえりみず、ただ一途に五卿の移転を拒むのは何事か。あくまでこれを拒むことになれば、かえって五卿の明をおおい、また主君をわざわいの淵におとすことにもなろう」  この二人の議論を現在の立場で読んで興味を感じることは、新しく芽をふき出してきたナショナリズム(民族主義)と古いリージョナリズム(地方主義)との相剋の姿である。  幕軍総督は、長州が五卿を手放して九州へうつすならば、�解兵�すなわち、征長軍を解散して引きあげてもいいという条件をもち出しているのであって、これで毛利藩および藩主父子にたいしても、寛大な処置をとることを約束しているのであるが、これと引きかえに、反幕陣営における長藩の発言権をまったく放棄したことにならないまでも、長藩の立場は弱いものとなり、これに反比例して薩藩のほうが強く出てくることは明らかだ。見かたによっては、長藩のこれまでの実績を薩藩が横どりし、肩がわりしたようなことにもなる。この取り引きは、尊皇、攘夷、討幕の本家をもって任じている長藩、とくにそのなかの�正論派�としては、なんとしてもがまんのできないことであった。  だが、大義名分論からいくと、長藩のほうに分がない。五卿を�長州男子の中軸�ということで独占しようとするのは、古い形の藩至上主義であり、�天下の中軸�と見るほうが、新しくてスケールも大きい。しかし、ここで日本人のものの考えかたの重点が、地方主義から民族主義に完全に移動したと見るのはまだ早すぎる。長州も薩摩も、その指導者たちは、�天下�の名において、実は自藩の立場を少しでも有利にみちびこうと考えていたと見るべきであろう。そのなかにあって、早川勇のように、藩意識の比較的弱いものが、キャスチングボートをにぎるところまではいかないまでも、高杉らをなだめて、五卿の太宰府への移動にもっていくことができたのである。  早川は、北九州の農家に生まれ、医者の養子となって江戸に遊学、大橋訥庵《おおはしとつあん》の門にはいり、勤皇の士とまじわり、国事に奔走するにいたったもので、高杉とは兄弟のように親しい間柄であった。かつて高杉、早川、月形らが、いっしょに酒をのんだとき、高杉はいった。 「どうせぼくらは天寿をまっとうすることのできない人間だが、早川君、君にはどこか福相なところがある。ぼくらの死んだあと、遺児を託すことのできるのは、まず君くらいのものだろう。何分よろしくたのむよ」  その後、月形は福岡藩で佐幕派が強くなったときに処刑され、高杉は結核で倒れたが、早川は生きのびて、元老院大書記官となり、明治三十二年六十七歳で死んだ。  かくて実美らは、慶応元年二月、無事太宰府に到着し、延寿王院におちついた。太宰府は菅原道真《すがわらみちざね》の遺跡の地であり、しばらくここにおれば、やがて幸運も開けてくるであろうと考えた。それに延寿王院の院主の権僧都信全《ごんそうずしんぜん》は梅小路定肖《うめこうじさだあき》の次子で、実美の父実萬の従弟にあたり、とくに意を用いて五卿を迎えた。  実美らの護衛には、福岡・薩摩・肥後・肥前・久留米の九州五藩が兵を出して、その任務についた。はじめ福岡藩で五卿をうけとり、一人ずつ五藩にわけてあずかることになっていたが薩藩の首唱で、幕府のこの要求をつっぱねた。当時の幕府にはこれを強行するだけの熱意も力もなかった。  [#小見出し]高杉・西郷の劇的会見?  高杉晋作は、死ぬまでに、西郷隆盛と、どこかで、一度でも会ったであろうか。  これは維新史上のナゾの一つである。長州と薩摩を代表するこれら二人の快傑が会うチャンスは、なん度もあったにちがいない。しかし、たしかに二人が会ったという記録はのこっていない。だからといって、二人は絶対に会わなかったということを証明することも不可能である。  歴史上の�事実�というのは、たいていそういうものである。そこに�文学�、フィクション(虚構)のはいりこんでくる余地があるわけで、証明ずみの�事実�よりも、フィクションのほうがかえって真実を伝える場合も珍しくない。  高杉、西郷の第一回会見の可能性は、元治元年十月、高杉が筑前に亡命していたときにあった。早川勇、月形洗蔵などにすすめられ、野村望東尼の「平尾山荘」で、二人は秘密に会見したことになっていたが、その後に発見された西郷の大久保利通への手紙によると、二人が会ったという日、西郷は広島から小倉へ行く船にのっていたという事実が判明し、この説は歴史家のあいだで否定されていることは、前に書いた通りである。  西郷との会見を高杉のほうでことわったということになっている。しかしそのころ高杉は早川や月形とはきわめて親しく、金に困っていて、かれらから金百両もらったりしているところを見ると、かれらが切にすすめる西郷との会見を、むげに拒否しつづけたとは思えない。  当時、長藩にとって薩藩は、�会奸薩賊�ということばにもあらわれているように、不倶戴天《ふぐたいてん》の敵であった。とくに西郷にいたっては、薩藩最大の�奸物�であった。  早川、月形らの陰の努力によって、薩長連合の工作はすすめられ、西郷、高杉といったようなトップ・クラスのあいだでは、ある程度の了解がついていたようである。しかし、長州側には、少しでも�薩長連合�の動きを見せたり、公然とこれを口にする勇気のあるものはいなかった。 「長州は異人のクツをはいても、薩と手をにぎることはできぬ」 「薩摩はかりに正気にもどったとしても、これとことを共にすることはできぬ」 という考えかたが、長州側にみなぎっていた。それほど、長州が薩摩からうけた恨みは根の深いものであった。したがって、討幕のためには、薩摩と協調する必要をうすうす感じるようになってからも、長州人としてこれを口にすることは、生命の危険をともなったのだ。高杉にしても、 「三途の川で薩賊をみなごろしにし、もって�九門の役�(蛤御門の変)における闘死者の魂をなぐさめねばならぬ」 と、口ぐせのようにいっていた。それがついに、下関の妓楼で、西郷と劇的な会見をとげるにいたったというのである。  高杉が兵をあげる前、下関で早川、月形らと画策しているときに、西郷が小倉にきているという知らせがはいった。この機会をのがさずに、こんどは高杉と西郷が、第三者をまじえないで、こっそりと個人的に会うようにと、早川らは高杉にすすめた。  当時、小倉から下関への渡し船は禁止になっていたので、特別の船を仕立てて、林泰《はやしやすし》というのが使者になり、西郷を迎えに行った。西郷の身辺には吉井幸輔《よしいこうすけ》(友実《ともざね》)、税所長蔵《さいしよちようぞう》(篤《あつし》)などがいて、一隊の兵をひきいて出かけようということになった。すると、林は、 「このたびはぜひ西郷先生お一人で」 といった。これをきいて西郷は、笑いをふくみ、 「なにも心配することはいらない」 と答えた。そこへ黒田了介《くろだりようすけ》(清隆《きよたか》)がきあわせて、さわぎたつ薩摩の壮士たちをおさえた。  西郷らが下関につくと、早川らが待ちうけていった。 「今夜は西郷先生をつれて女郎買いに行くことになっているから、長州側は高杉一人で会うことにして頂きたい」  それから稲荷町遊廓の「大阪屋」というのに登楼したのであるが、一間《ひとま》をへだてて隣の室では、「奇兵隊」の隊員たちが、 「薩摩の国のイモ掘り武士よ、長州男子の胆を見よ」 と、茶わんをたたいてうたいながら、大あばれにあばれていた。そして一同酔いつぶれたところを見計らって、西郷らが早川らに案内されて別室にはいってきた。そこで西郷は、高杉らに会っていった。 「当藩としては、貴藩の誤解を招く面も多々あったが、近く幕府の長州にたいする処置がすんだならば、両藩で一つ大きな計りごとをめぐらすことにしよう」  そこへ間のフスマを押し開いて、酔っぱらった長藩士がはいってきて、口々に薩藩士をののしった。高杉もいっしょになってののしったというのが、この劇的な会見の真相だというのだ。  [#小見出し]西郷とフルシチョフの相似点  高杉は、「奇兵隊」の連中と調子をあわせて西郷をののしりながら、ひそかに西郷と握手したというわけで、いかにもお芝居むきにできている。  のちに伊藤博文の書いたり、しゃべったりしたものを見ると、西郷と高杉は、その生涯を通じて一度も会わなかったということになっている。高杉の側近としていつも身辺にいた伊藤のことばは、だいたい正しいと見ていいだろう。  だが、当時の薩長間の微妙な情勢、政治性・謀略性の強い西郷や高杉の性格からいって、この二人が側近たちを出しぬいて秘密会見したということは、考えられることであり、ありうることである。ここに�史実�のおとし穴があるともいえよう。  西郷側の側近であった吉井幸輔・税所長蔵は、長藩でそんなに薩藩を疑うならば、両藩連合の話がすすめられるあいだ、自分たちは人質として長州にのこってもいいとまでいっている。吉井はのちに司法・民部・工部・宮内各省の高官から、日本鉄道会社の社長などを経て、枢密顧問官、伯爵となった。酒と女におぼれた歌人吉井|勇《いさむ》はその孫にあたる。税所も明治政府に仕えて地方官を歴任し、四条畷《しじようなわて》に小楠公の碑をたてたり、吉野宮や橿原《かしわら》神宮の造営を建議したり、私費で吉野山にサクラをうえたり、大和の十津川村民を北海道に移住させたりした。その後、霧島神宮宮司、枢密顧問官などを経て、明治四十三年八十三歳で死んだが、西郷隆盛、大久保利通とともに�薩摩の三傑�と呼ばれている。西郷や大久保に比べて、スケールはずっと小さいが、こういう型の地方官は、その後の日本に出なくなった。  吉井にしても税所にしても、西郷の忠実な秘書官のようなもので、西郷が大島や沖永《おきのえ》良部《らぶ》島に流されているときにも、二人はいつも連絡をとっていたし、三条実美らにたいしても、西郷の意思を伝える役目を果たしていた。  早川や税所の伝記を見ると、かれらは下関で西郷とともに高杉と会ったことになっている。当時の状況から推して、このほうが事実に近いと見るべきではなかろうか。むろん「ありうること」と「あったこと」とは別であるが、前者を切りすてない歴史もあっていいのではなかろうか。  さて、薩長連合は、維新史の枢軸となったことは明らかであるが、これを可能にしたのは、まず第一に三条実美らの九州への移行で、これによって�尊皇攘夷派�諸藩のあいだに、共通の広場がもうけられたこと、とくに、西郷をリーダーとする薩藩の一部が討幕の方向に急傾斜したことである。  西郷は、はじめのうちは極端な薩藩至上主義、とくに反長州主義者で、長州を亡ぼさないと薩摩が亡びると考え、「蛤御門の変」の前には、  「長軍禁闕を犯すことに決し候由にて、薩摩のことついに成り、はじめて長州を朝敵として討滅するときが到来し、まことに安堵仕候」 と書いている。さらに、薩摩、土佐、宇和島の三藩が連合して、  「このさい、長州を追討せざれば、後顧の憂い百年にのこる」 とまでいっている。これほど強い反長州主義者であった西郷が、急に薩長連合にかたむき、そのイニシアチブをとるにいたったのはどういうわけか。  西郷は、日本の生んだ最大の日本型政治家で、その特色はインテリでないこと、理論やイデオロギーに弱いことである。  その点で西郷は、現在の国際情勢を動かしている各国首脳部のなかでは、こんなことをいうと西郷ファンは怒るかもしれぬが、ソ連のフルシチョフに似た面がある。ユーゴのチトー、ポーランドのゴムルカなどとも、相通ずる面がある。  フルシチョフの大胆なスターリン批判や反スターリン政策も、そこから出たのであって、彼のこういった無理論性、といって悪ければ、理論にあまり重きをおかない現実主義的性格は、ロシア的、東洋的で、日本の指導者の場合と一脈通ずるものがある。最近のアメリカ、中国、キューバなどにたいするフルシチョフの政策に、とくにそれがよくあらわれていた。  そこへゆくと、中国の指導者|周恩来《しゆうおんらい》首相は、より多くインテリ的、近代的、西欧的で、資本主義国の首相または外相でもつとまる人物である。維新の日本の政治家で、周恩来に相当するものを求めるならば、さしあたり木戸準一郎(孝允)ということになるのではなかろうか。  長州に接近する前の西郷は、旧勢力の幕府とその有力な競争相手である長州にたいし、巧妙な両面作戦をとっていた。たとえば長州処分についていうと、毛利本藩と支藩である岩国の吉川藩との離間を策することによって、長藩の力を弱めるとともに、長州征伐の成功で幕府の威力が回復することを極力さまたげた。この外交作戦は、フルシチョフの指導するソ連がアメリカや中国などにたいしておこなっているのとよく似ている。ソ連にとってアメリカが幕府だとすれば、中国は長州に相当する。  [#小見出し]聡明すぎた? 勝海舟  太宰府を舞台に、薩長連合の準備工作をすすめたのは、福岡藩の月形洗蔵、早川勇らであるが、これをおしすすめ、具体化する上に大きな役割を果たしたのは土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎である。  もともと土佐藩は、藩祖|山内一豊《やまうちかずとよ》が「関ケ原役」の功によって土佐国二十万石を与えられて以来、佐幕的傾向が強く、王政復古の直前にいたっても、討幕にはふみきれなかった。尊皇攘夷派の活躍も早かったのであるが、そのリーダーである武市半平太《たけちはんぺいた》(瑞山《ずいざん》)が切腹させられてから、その同志たちの多くは藩外に亡命し、外からその目的を達しようとした。それには、薩摩、長州という二つの雄藩が力を合わせて幕府にあたる必要があった。  武市は長藩の久坂玄瑞と親しく、久坂は武市に、脱藩して長州に投ずるようにとすすめたのだが、武市はどうしても�一藩勤皇�をすてることができなかった。戦前の日本で、もしも片山潜《かたやません》が�一国共産主義�の思想を抱いて、国内にふみとどまっていたとすれば、治安維持法にひっかかって獄死するような結果になっていたのではないかと思われるが、それと同じである。  坂本龍馬は武市の門下で、のち、江戸に出て千葉周作《ちばしゆうさく》の道場にいたとき、勝海舟を刺そうとして、逆に勝の識見に服し、その指導をうけて高弟になったものである。勝が幕府の命をうけて、神戸に海軍操練所を設立すると、坂本もこれに参加した。この操練所はまもなく閉鎖になったが、そのときのいきさつによって、勝も坂本も幕府の将来に見きりをつけたらしい。  そこで、勝は坂本の身柄を薩摩の小松帯刀《こまつたてわき》に託した。坂本は勝から直接うけた新しい知識をすっかり身につけている上に、蒸気船の運転もできたので、薩摩では坂本を重用し、坂本のことばに耳をかたむけるようになった。小松、西郷らをのせた薩船「胡蝶丸《こちようまる》」を坂本が運転して鹿児島についたのは慶応元年四月であるが、薩摩の指導的分子がこれまでの公武合体的立場を清算し、討幕の方向に進路を定め、その前提として、長州との提携の必要を痛感したのはこのときである。勝の意見が、坂本の口を通じて、西郷らを説得したということになる。三年後の慶応四年三月十三日、江戸の薩摩邸における西郷、勝の歴史的会見によって江戸は戦禍をまぬかれたということになっているが、その下地は、このときに、このような形で、勝・坂本・西郷ラインを通じてなされたともいえるのだ。逆に勝のありかたは、幕臣でいて幕府の没落を早めたということにもなる。あまりにも聡明《そうめい》で、世の中の動きが見えすぎるということは、自分の属する階級や組織を裏切ることになりかねないが、今日の社会でもよくあることだ。  中岡も武市のグループに属していたものだが、文久三年八月の政変で、�七卿�が長州におちたときいて、田中顕助《たなかけんすけ》(光顕《みつあき》)、土方楠左衛門《ひじかたくすざえもん》(久元《ひさもと》)らとともに、脱藩して長州にきたものだ。当時の長州には、こういった他藩からの亡命者がたくさんいて、�客臣�としてあつかわれ、いちおうその生活を保証されていた。長州に�帰化�したようなものだ。今の会社でいうと、�嘱託�とか�顧問�とかいったようなものだが、それよりはかつてのソ連で、各国共産党亡命者をかかえこんでいたのと似ている。  その後、坂本は、薩人との交友がますます深められて行ったので、ものの考えかたや人柄も薩人化し、顔だちまで薩人に似てきたといわれ、同様に中岡は、長人と生活を共にすることによって長人化した。明治以後の日本でも、英・独・米・仏・露・支人化した日本人が多く見られたものであるが、徳川時代には、日本が連邦のようになっていて、藩がちがえば外国へ行ったようなものだったから、そういう現象もおこりえたのであろう。  高杉は、階級意識の強い男で、「奇兵隊」総督の赤根武人が百姓の子だというので�土百姓�呼ばわりしたことは前にのべたが、藩意識もきわめて強く、とくに薩人にたいする敵意ははげしかった。 「方今薩賊、何の面目ありて、われに対するや、彼進退命なく、去就義なし」 というのが彼の口ぐせであった。したがって、�薩長連合�を説く坂本が、下関ではじめて高杉と会ったとき、いきなり高飛車に出て、 「私腹を肥やすことを図る素浪人」 と、ののしった。まるでブローカーあつかいだ。そのとき坂本はおとなしく引きさがったが、二度目にたずねて行ったときには、高杉の態度はガラリとかわり、坂本を上座にすえて、いんぎんにもてなし、二人で長時間にわたり意見をたたかわした。そのあとで坂本は、 「高杉という男は、実に恐るべき英雄である」 といった。  [#小見出し]坂本龍馬の仲介 「薩摩は長州をほろぼそうとして明治維新を生み、長州は明治維新を生むために、薩摩をほろぼそうとした」  これは長州側からみた明治維新論で、薩摩のほうには、別な見かたもあるであろう。当時、日本の雄藩は、地方主義から民族主義への過渡期にあって、互いに嫉視反目し、勢力と功名を争い、策略と陰謀に終始していた。  幕末から明治にかけて日本にいた外国人のなかで、日本の国情にもっとも精通していたのは、イギリス公使パークスだということになっているが、そのパークスでさえも、将来の日本については、そのころのラテン・アメリカ諸国と同じように見ていた。それは分裂、破産、詐欺、内乱、ふだんの暴政を意味するものだ。外国人の目から見ればそういうふうに見られてもしかたのない面があったのである。  この混乱のなかで、幕府を倒し、それにともなっておこる災害を最小限にくいとめ、民族的統一を完成した政治家が、雄藩の指導者、実力者のなかに、少数ではあるがいたということは、日本にとって大きな幸いであった。それと同時に、これらの指導者、実力者間の誤解をとき、互いに手をにぎらせた人物の功労を見のがすことはできない。そういった面での最大の功労者は、なんといっても坂本龍馬である。  およそ政治家のなかには、次元の高いのとスタミナの高いのと二種類ある。前者は一般民衆に比べて一段と高い次元の上に立って、民族や国家を指導するものであって、外交、国際関係において、その非凡な能力を発揮するばあいが多い。幕末の政治家についていえば、薩摩の西郷、長州の木戸、土佐の坂本などがその代表者で、この三人の握手によって薩長連合が生まれ、明治維新にゴールインすることができたともいえよう。旧勢力側の代表として勝海舟をこれに加えてもいい。  しかし、この大目的達成後のこれら四人の動きについていうと、途中で刺客に倒れた坂本は別として、いずれも次元が幾らかおちたようである。勝にいたってはガタおちだ。  これに反して、高杉は、まったく別な型の政治家、スタミナ型の指導者で、特定の大衆を動員し、これを一つのムードにひっぱりこむことに妙をえている。政治家というよりは、乃木大将を裏返しにしたような、天才型の軍人であり、詩人である。中岡慎太郎にいわせれば、西郷は�古えの安《あ》倍貞任《べのさだとう》�を思わせ、高杉は�洛西の一奇才�ということになる。  薩長連合の問題も、高杉の手からはなれて、西郷、坂本、木戸の折衝となってから、きわめて順調に、スピーディーに進んでいる。鹿児島についた坂本は、さっそく太宰府に出かけて、三条実美らに会い、ちょうどそこへきあわせた長州の小田村素太郎《おだむらもとたろう》(のちに楫取素彦《かとりもとひこ》)を通じ、西郷の意向を木戸に伝えることをたのんだ。そこへ土方楠左衛門が京都からかえってきて、そのもたらした情報によると、幕府が長州再征の師をおこし、近く大阪を進発することになっているけれど、薩藩は極力これに反対していることがわかった。  これと別に、近く西郷が上京する道すがら、下関に立ちよるという知らせが中岡からきた。そこで、木戸、坂本らが下関で待ちうけていると、中岡だけを船から上陸させて、西郷はそのまま京都へ直行したことがわかった。京都の情勢が切迫しているので、まず朝議を固めておかねばならぬというのが、西郷のいい分だ。  これをきいて長藩士、とくに高杉のひきいる「奇兵隊」などの連中は、また西郷にいっぱいくわされたといきまいた。なだめ役にまわった坂本、中岡は、それではどうすればいいのかときいた。これにたいして、長州側の出した条件は、新型の小銃一万挺と蒸気船一隻を長崎で薩摩の名義をもって購入し、長州にわたせということであった。坂本らは薩摩にかわってこの条件をいれ、これを実行した。前の年の「蛤御門の変」において長藩が天王山で大敗を喫したのは、兵器が旧式であったからだということに気がつき、村田蔵六を起用し、軍事改革を図ったのであるが、それにはどうしても新式兵器を大量に入手することが先決問題であった。しかし、そのころ、長州は四辺みな敵にかこまれていて、それができなかったのだ。  そのうちに、征長の勅命が将軍にくだった。西郷はこれを実力で阻止するために、大軍を上方へ送りこむことになった。その食糧は長州でまかなうことに話がまとまった。  ここまできても、山県狂介をはじめ、「奇兵隊」の連中は薩長連合に反対で、新兵器が手にはいった以上、幕軍を迎えうつのに、なにも薩摩の助けを借りる必要はないという考えかただった。  しかし、時代の勢いは、ついに長州をもまきこんで、地方主義から民族主義へ脱皮せしめた。かくて慶応二年一月二十一日、薩長連合ができあがり、木戸のしたためた覚え書が、坂本を証人として、薩長のあいだにとりかわされた。  坂本は明治維新まで生きのこっていたら、西郷の向こうをはって日本ではじめての�海軍大将�になっていたかもしれない。  [#小見出し]幕府をナメた広島談判  薩長連合の成立で、長藩の主導権は木戸準一郎の手にうつって、高杉は手もちぶさたとなった。そこで思いついたのが洋行である。  伊藤俊輔とともに、まず長崎に行って、英商グラバーの世話でロンドンに行く計画だった。伊藤にとってロンドンは曾遊の地だし、高杉も前に上海へ行ったことがある。外国旅行というものは、一度味をしめると病みつきのようになるもので、これは今も昔もかわりはないらしい。  高杉は、前に大阪、讃岐方面へ逃げ出したときにも、外国へ行くと称して、藩の金を千五百両も引き出し、その清算をまだしていなかった。すべて女や酒のためにつかってしまったというので、非難の声が藩内にうずまいていた。しかし、そのあと高杉は�俗論党�征伐にのり出して成功しているから、木戸や井上が藩主とのあいだをうまくとりなしてくれた上、改めてまた洋行費を出してもらうことになった。  当時、長崎では、長州藩士は薩摩人、長府藩士は土佐人ということになっていた。幕府を敵にまわしているため、幕府直轄の長崎で公然と名のりをあげることができなかったのであるが、他藩のものということにすれば通用するというルーズな面もあったのだ。  こうして高杉たちが、長崎でロンドン行きの船便を待っているうちに、幕府と長州との関係はいよいよ切迫し、いつ火ブタをきるかもしれぬという形勢となり、洋行どころではなくなった。  開戦ともなれば、まず第一に必要なのは軍艦だと考えた高杉は、独断でグラバーから、二百トン程度の古い軍艦の出物を一隻手に入れた。値段は約四万両だが、高杉にそんな金のもちあわせのあるはずはなく、下関で支払うという約束で、売り主をはじめ船員までのせて、自分は艦長気どりで下関にのりこんだ。長藩の重役たちは驚いて、こんな金は支払えぬといったが、それなら腹をきって申しわけをするほかはないと高杉はゴネた。けっきょく、藩主のツルの一声で、この代金は�御撫育金�から支払われた。  この軍艦が有名な「オテントサマ号」だが、のちに「丙寅丸《へいいんまる》」と改められた。  第一回の長州征伐は、毛利の宗藩と支藩の吉川藩を離間させ、長州人をもって長州人を制するという西郷の巧妙な策略が採用されて、戦争らしい戦争なしにおわったが、これによって薩摩の対抗馬である長州がたたかれ、幕府も権威を失墜して西郷の思う通りになった。しかし、これではいけないというので、幕府では第二回長州征伐の案を立て、紀州藩主|徳川茂承《とくがわもちつぐ》を征長総督に任じ、毛利藩主父子を広島に呼びつけて審問することになった。  しかし、こんどは高杉のクーデターで、毛利藩内の情勢がすっかりかわっていて、鼻イキが荒かった。幕府側では、老中小笠原長行、大目付|永井尚志《ながいなおむね》(のちに北海道開拓使御用掛、元老院大書記官)以下のお歴々が出張してきたが、長州側からは、宗藩も支藩も、藩主はもちろん、重役が一人も姿を見せず、山県半蔵を家老宍戸備前の養子ということにして、宍戸備後助と名のらせて正使とし、これに小田村素太郎をつけて送りこんだ。前に、四国連合艦隊との講和にさいし、高杉をやはり宍戸備前の養子とし、講和全権として送ったのと同じ手口である。これが有名な�広島談判�で、幕府ははじめからすっかりナメられていた。  それに、こんどは薩長のあいだに、一種の�攻守同盟�が成立しているので、外交の面でも薩摩は幕府の矢表に立って長州の味方をするし、尾張、越前、津軽など、幕府方諸藩でさえも、幕府のいいなりには動かなかった。というよりも、もともといずれの藩にも戦意がなかったのである。  薩藩で幕府当局に、出兵拒絶の建白状を出したところ、幕府側ではこれには藩主|松平修理太夫《まつだいらしゆりだゆう》(島津忠義《しまづただよし》)の署名がないからうけとれないといった。すると、その翌日、大久保一蔵(利通)が同じものをこんどは修理太夫の名で差し出した。閣老|板倉伊《いたくらい》賀守《がのかみ》勝静《かつきよ》は、カンカンに腹を立て、 「広島と鹿児島のあいだを一夜で往復できるものではない。家来が主人の名をかたるとはふとどき千万で、公儀をないがしろにするもはなはだしい」 となじった。これにたいして大久保は答えた。 「それがしは、修理太夫からすべてを委任されているもので、それがしの意見はそのまま藩主の意見である」  こんなことで、小笠原以下幕府のおえらがたは、広島ですることもなく半月ばかり日をおくった。そこで、ついにごうをにやし、広島藩を通じて、毛利の宗藩と各支藩にたいし、藩主が家老二名以上をつれて出頭するように命じた。だが、いずれも病気と称し、ただ一人として出てこなかった。  このときすでに、幕府のタガはこのようにゆるみ、少し強くおせばくずれそうな状態にあったのだ。  [#小見出し]まるで三世紀も前の戦争  当時の幕府にたいする薩長のありかたは、今のアメリカにたいするソ連や中国のありかたを思わせるものがある。  現在のソ連は、軍事的にも経済的にも、アメリカをそれほど恐れる必要はないし、もっと左にかたむこうと、右へのコースをとろうと、自由である点で、当時の薩摩の立場に似ている。中国の場合はそうはいかない。朝鮮戦争以後の中国は、ただひとすじに反米の道をすすまざるをえないように宿命づけられているのと同じように、「蛤御門の変」以後の長州は、幕府を敵とするほかなかった。  幕府の第二次長州征伐は、芸州、石州、南海、九州の四方から攻めさせようとしたもので、�四境戦争�とも呼ばれている。新しいことばでいうと、幕府の長州、封じこめ戦術�である。これにたいして長州は、死にもの狂いの抵抗を示し、各戦線において、幕軍を一歩も長州領内に入れなかった。  幕軍の陣営を見ると、征長総督に紀伊権中納言茂承、副総督に松平《まつだいら》伯耆守《ほうきのかみ》宗秀《むねひで》、別に小笠原長行は、幕府の艦隊を指揮し、事実上の軍司令官の地位にあった。  芸州口は、講談などによく出てくる酒井・|榊原《さかきばら》・井伊・本多という�徳川四天王�を中心に、約三万の兵力を集結したが、武器も戦術も、大阪城を攻めたとき以来ほとんどかわっていなかった。これを迎えうつ長州軍のほうは、わずか三千程度であったが、英・仏・米・蘭の連合軍を相手に苦闘の経験をつんでいるし、武器は長崎の外商から手に入れたばかりの新鋭品を豊富にそろえていた。  軍装はどうかというと、旗本たちは、お家重代の紺糸縅《こんいとおどし》の甲冑に、籠手《こて》、脛当《すねあて》、錦の陣羽織、虎尾《とらのお》の陣太刀をはき、馬にまたがった姿は、見たところ雄々しいが、長い平和のあとをうけて、からだの鍛錬ができておらず、具足の重みで腰があがらなかった。兵卒とても同じで、甲《よろい》、冑《かぶと》、刀、槍、それに火縄銃、大砲はあっても旧式で、実戦の経験がないから、うちかたがわからない。それに、馬標《うまじるし》、差し物、旗、幟《のぼり》などをおしたて、ホラ貝、陣鉦《じんがね》、陣太鼓などをうち鳴らしながらすすむのだが、まるで二世紀、三世紀も前の戦争そのままである。  これに反して、長州軍のほうは、筒袖《つつそで》にズボン、モンペ袴《ばかま》にうしろハチマキという軽衣軽装で、所属を明らかにするために、肩章、腕章をつけているだけだ。この点は指揮者も兵卒もかわりはない。この形だけを見ても、勝敗の数はおのずから明らかである。  それに幕府側には、�軍目付《いくさめつけ》�というのがいて、いよいよ合戦がはじまると、床几《しようぎ》にもたれ、とってきた首を一つ一つ実検のうえ、帳面に書きつける。石州口の浜田でも、幕府軍目付の三枝刑部《さえぐさぎようぶ》というのが、この首実検をやっているときに、どこからともなく弾丸がとんできて、即死するという事件もあった。  薩藩は、この第二次長州征伐にははじめから反対で、 �無名の師�、大義名分のたたない戦争だといって兵を出さなかったが、広島藩もこれに追随した。したがって、幕軍の多くは、いちおう敵と対陣することはしても、戦意をほとんど失っていた。井伊直弼を出した彦根藩においてさえも、敵を相手に詩文の交換をしていたものもあったといわれている。  幕軍はまず大島を攻撃し、兵二千を上陸させて、暴行、略奪をほしいままにした。この知らせはすぐ山口の藩政府にとどいたが、参謀の大村益次郎は、これは局部的疾患のようなもので、そうあわてることはない、それよりもこのことが高杉の耳にはいったら、たいへんだ、彼はきっと競走馬のようにとび出していくにちがいない、ということで、極力秘密にしておいた。  だが、こういうニュースはもれやすい。下関にいてこれを知った高杉は、このときとばかり、長崎で手に入れた「オテントサマ号」、いまは改名して「丙寅丸」をさっそく活用することを考えた。といってこの船を運転できるものが彼の身辺に見当たらない。しいて求めれば、土佐、上方、長州、九州のあいだを船でなんども往復したことのある田中顕助くらいのものだ。そこで、彼をひっぱってきて、むりやりに機関長に任命した。さらに山田市之允《やまだいちのじよう》(顕義《あきよし》、のちの陸軍中将、伯爵)を砲隊長として、大島へむかって進撃することになった。今でいうと、シロウトが見よう見まねで戦艦の運転をするようなものだ。ずいぶん乱暴な話であるが、戦時中、ジャワ島占領のさい、わたくしはこれに似た実例を知っている。  それはさておいて、このときの高杉の服装はというと、ふだん着のままで、扇子を一本もっているだけであった。  やがて、船は無事三田尻港についた。すると高杉は、一人でひょいと上陸して、どこかへ姿を消してしまった。田中がのちに語ったところによると、高杉はまっすぐに貞永文《さだながぶん》右衛門《えもん》(正甫ともいう。前にも書いた三田尻の豪商で高杉のパトロン)の家に行って、黙って二階へあがりこんだ。主人がかえってきてのぞいてみると、高杉があおむけに寝ころがり、両足を高くもちあげて床柱につけ、両手を頭のうしろにあてたまま、ちょうど越後獅子のようなかっこうで、考えごとにふけっていた。  明治維新の生んだこの最大の軍事的天才の頭に、さいごの妙謀奇略が浮かんだのはこのときである。  [#小見出し]猛者のそろった長州軍  慶応二年、六月十二日の深夜、高杉たちをのせた「丙寅丸」が、大島につくと、せまい海峡に幕艦数隻が集結し、その周辺に無数の和船がむらがっていた。  そのあいだに「丙寅丸」がこっそりと突入していっても気がつかなかった。幕府艦隊のどまんなかにきたとき、高杉は山田に、 「撃て!」 と命令した。砲門はいっせいに開いた。至近距離での砲撃だから、命中率は百パーセントだ。「奇兵隊」員は、残らず甲板に出て、四方八方に、小銃をむけてうちまくった。  幕軍は驚いた。寝耳に水、いや、すさまじい銃砲弾の音をきき、にわかに石炭をたくやら、砲門を開くやらで、手負いのイノシシのように動きまわり、やみくもにうちまくったが、敵の姿がよくつかめないので、ほとんど同士うちにおわった。  しかし、こういった奇襲は、引き揚げどきが大切である。高杉は潮時を見はからって、船の灯火《あかり》をすっかり消し、ヤミにまぎれて逃げ出してしまった。幕軍にとっては、一場の悪夢のようなもので、敵軍の正体や兵力を見きわめることができなかった。  そのため、幕艦のほうでも、「丙寅丸」のあとをおうようにして、その夜のうちに現場をはなれ、ふたたびやってこなかった。  その翌々日、林半七《はやしはんしち》(友幸《ともゆき》)、世良修蔵《せらしゆうぞう》らのひきいる「第二奇兵隊」「浩武隊《こうぶたい》」などが、別な港から大島に上陸し、ほとんど無抵抗で、全島を回復した。  林半七は、それから二年後、榎本武揚《えのもとたけあき》にひきいられ、五稜郭に向けて品川を脱走した幕艦「美加保丸」が、アラシにあって利根川口で暗礁にのりあげたとき、官軍の命をうけて乗組員の逮捕にむかった。晩年には枢密顧問官、伯爵となったが、世良修蔵のほうは、慶応四年閏四月、奥羽征討軍の参謀として福島に対陣中、帰順を求めてきた仙台藩士と争ってこれに斬られた。かつては同じ条件のもとにあったものが、その後半生にこのような大きな開きを生じるのは、変革期に行動を共にした人々のあいだに多く見られるところである。これを�運�ということのみによって片づけてしまうのは、間違いである。少なくとも�運�と�人柄�を結びつけた具体的な検討、分析が、比較的平和な時代に生きるものにとっても、大切なのではなかろうか。  ところで、この大島攻略は、高杉にとっては、文字どおり一夜の奇襲作戦にすぎなかったが、これよりもさらに花々しい成果をおさめたのは、九州口の対小倉藩作戦である。  小倉藩は、幕府の�九州探題�のようなもので、長州藩にとっては恨みかさなる宿敵である。  この戦争では、このごろの日本では珍しい海陸両面作戦がおこなわれた。まず幕府側についていうと、下関海峡は、圧倒的優勢をほこる幕府艦隊をもって封鎖し、陸上では小倉城を本拠とし、これまで佐幕一筋で長州藩をなやましてきた小倉藩主|小笠原左京大夫《おがさわらさきようだゆう》とその一族を中心に、肥後熊本、久留米、柳河などの諸藩がこれを助け、九州方面軍を結成し、その最高司令官には、閣老小笠原長行がついた。  その他の九州諸藩についていうと、薩藩は長州藩と同盟を結んだばかりで、幕軍に参加するはずはないが、反幕軍を動員して長州を助けるところまでいっていなかった。肥前佐賀藩は、藩主鍋島閑叟がもともと長州再征に反対だった。筑前黒田藩では、勤皇、佐幕の両勢力がするどく対立し、血で血を洗う惨劇をおこしたばかりで、出兵を求められても、応ずることのできない状態にあった。いつも藩内の世論が両派にわかれ、どっちも極端な形をとって争うというのが、黒田藩の伝統的性格ともいうべきで、この風潮は明治後においてもつづいている。マス・コミ界で成功しているものに、福岡県出身者が多いというのも、この伝統につながっているともいえよう。  のこりの小藩では、幕府の命をうけて、のきなみにほんの少しずつ出兵したものの、それはいやいやながら�割り当て供出�に応じたようなものである。これらの兵数は、合わせて約二万に達したといわれているが、文字どおりによせあつめで戦力としては大したものではなかった。  これにたいして、長州軍の陣容はというと、「奇兵隊」約三百を主力とし、これに長府藩の「報国隊」などを加えても、総勢約五、六百というところで、数の上では、比べものにならなかった。  長州の海軍力は、「丙辰丸《へいしんまる》」「癸亥丸《きがいまる》」「乙丑丸《いつちゆうまる》」「庚申丸《こうしんまる》」、これに大島で活躍した「丙寅丸」を加えたもので、�軍艦�といっても、小さなボロ船ばかりである。  長州陸軍の総指揮官は、長府藩主毛利左京亮元周、ただしこれは名目だけで、山内《やまのうち》梅三郎《うめさぶろう》がこれを代行し、高杉が�陸海軍総監督�として全軍を指揮した。その下に軍監山県狂介、福田侠平、参謀に三好軍太郎《みよしぐんたろう》、時山直八《ときやまなおはち》、鳥尾小弥太《とりおこやた》などの猛者《もさ》がそろっていた。三好はのちに重臣《しげおみ》と名のって、鳥尾とともに、陸軍中将子爵となった。戦後、進駐軍の要人とのあいだに艶名をうたわれ、銀座裏のバーのマダムにおさまった鳥尾|鶴代《つるよ》は、小弥太の嫡孫|敬光《よしみつ》のもと夫人である。  [#小見出し]乃木大将の初陣  第二次長州征伐の小倉戦争は、乃木希典にとって初陣であった。  少年時代の希典は源三《げんぞう》といった。萩の玉木文之進《たまきぶんのしん》の「松下村塾」にはいったのは、元治元年(一八六四)かぞえ年十六歳のときで、翌慶応元年(一八六五)藩校「明倫館」の文学寮にうつった。  そのころ、希典の父|希次《まれつぐ》が仕えていた長府藩に、「集童場」というのができた。これは藩校とも私塾ともつかぬもので、その名のごとく、十歳から十五歳くらいまでの少年をあつめて、初歩の教育をするのが目的であった。「明倫館」からかえってきた希典はそこの助教に迎えられた。 「集童場」の総督は熊野直介《くまのなおすけ》といって、のちに「報国隊」をひきいて越後口の戦いに参加し、戦死した。教頭の福田数馬《ふくだかずま》は、背が低く、足が不自由だったが、坂本龍馬の世話で長崎に留学し、英学を身につけてきた長府での新知識であった。熊野、福田のあとをうけて、「集童場」の総督となった福原和勝《ふくはらかずかつ》は、明治になるとすぐイギリスに留学し、帰国後陸軍にはいって大佐にすすみ、「西南役」で陣没した。  ところで、乃木大将の伝記に出ているさし絵を見ると、福田はヒゲだらけの老人である。これが病気になったとき、希典をはじめ、稚児マゲに結った十三、四歳の少年が十人くらいで、この老人をカゴにのせて医者のところへはこんで行ったことになっている。 �総督�とか、�教頭�とかいっても、ほんとはいずれも二十歳前後の青年で、希典も�助教�だから、いわば同僚である。「奇兵隊」の場合でもそうだが、ひとにぎりの集団のなかで、�軍監�とか�参謀�とか、大げさな名前をつけるのが、この時代の特色となっている。精神的なスタミナが高かったせいか、それとも、これでスタミナをあげようとしたのか、どっちかであろう。野心にもえた少数の人間で、実力以上の大きな仕事をしようとする場合には、たいていこういった�名称インフレ�をともなうものだ。  さて、この「集童場」の授業ぶりであるが、毎日朝早く数人の教師が教室につめかけて、各自の前にいくつかの小机をすえて待っていると、学童たちがやってきて、自分の気に入った教師をえらぶことになっていた。希典のところには、いつでもいちばん多くの学童があつまったという。  小倉戦争には、「集童場」の教師も生徒も、ごく年少者をのぞいては、ほとんど参加した。このとき希典は、名を源三から文蔵《ぶんぞう》と改め、「乃木無人源頼時《のぎなきとみなもとのよりとき》」と名のりをあげ、�太平洋戦争�末期の少年兵と同じ年ごろであった。  かれらは「報国隊」に属し、山県狂介のひきいる「奇兵隊」の指揮下にあった。希典は山砲一門の長に任じられたというから、兵長か伍長というところであろう。  幕軍の最高司令官小笠原長行は、軍艦「富士山」で小倉城にのりこみ、小倉兵を先頭にして、門司、田ノ浦に陣をしいた。大島の奇襲作戦に成功してかえってきたばかりで、意気大いにあがっている高杉は、ここでまたも奇襲戦法に出た。  六月十七日の払暁、長軍は二隊にわかれ、一隊は田ノ浦に、他の一隊は門司にむかい、突然、海上から敵陣を攻撃、砲火を浴びせながら敵前上陸を敢行した。これは「太平洋戦争」において、日本軍がしばしばつかった手であるが、わたくし自身も、広東とジャワのバンタム湾で、二度これに参加した体験をもっている。  まず門司を占領した長州軍は、風上から火を放って、敵の陣営や船団を焼き払い、田ノ浦をはさみうちにした。  広島でこの敗報をきいた幕軍総督は、多数の軍艦を送りこむとともに、フランス軍にも応援を求め、長州軍を威圧しようとした。これを知ったイギリスは、さっそく軍艦を下関に派遣してフランスを牽制した。国内紛争に外国の軍事力を借りるモデル・ケースみたいなものが、ここに発生したわけだ。徳川幕府がこういった手をつかったのは、これがはじめてではなく、これより二百三十年前におこった寛永十四年(一六三七)の「島原の乱」を鎮定するのに、幕府はオランダの軍艦の助けを借りたという前例もある。  長州軍は、これでまたも奇勝を博したものの、戦闘はまもなくきりあげて下関へ引きあげた。十倍以上の敵を相手にして四つに組んだのでは、勝算のないことを高杉はよく心得ていたからだ。  かくて、一か月ばかり休戦したのち、七月二十七日、長州軍は小倉城の総攻撃を開始した。三方から攻めたてたところ、戦意のない敵軍は、みずから城に火を放って逃げたので、八月二日、長州軍は高杉にひきいられて入城した。  総司令官の小笠原長行は、幕艦「富士山」にのって、いちはやく逃亡した。そのころはやった落首に、   長崎へようよう行きていきのかみ      さすが逃げるも小笠原流 というのがある。これは小笠原壱岐守長行の名をもじってよみこんだものであることはいうまでもない。  [#小見出し]宿命的軍人像の典型  かえりみれば、小笠原長行が、幕府の全権として広島にのりこみ、長州藩の名代宍戸備後助、小田村素太郎を呼びつけ、長州藩処分書を手わたそうとしたが、いずれも病気と称して出頭しなかったので、高杉晋作、桂小五郎、波多野金吾(広沢真臣)、佐世八十郎(前原一誠)以下十二名を差し出すべしと命じたのは、この年の五月一日のことである。  宍戸たちはむろん、こういった命令にも服さなかった。そこで、幕吏はその宿舎をおそい、宍戸らをつかまえて監禁してしまった。  これにたいして、長州側では、さいごの嘆願におよんだけれど、幕府側でうけつけなかったので、 「今後、幕府よりご沙汰の次第もござ候わば、国境上にて待ち奉り候」 としたためたものを提出した。�嘆願�の形をとっているが、内容はまさに堂々たる挑戦状である。  それから三月後には、小倉城が長州軍の手に帰し、幕軍は全面的に敗北した。十月にはいると、幕軍のほうから講和を申しいれ、十二月には幕軍の降服謝罪ということになり、幕府と長州の立場がすっかり逆になってしまった。  小倉城がこんなに早く陥落したのは、小倉藩の一神官が長州軍に内通し、城の裏側にある間道を教え、これを通って長州軍が急襲したためだという。これは小笠原家から出て伯爵|津軽英麿《つがるひでまろ》に嫁した照子《てるこ》夫人の直話として、法学博士|蜷川新《にながわしん》が書いていることである。英麿は、元首相近衛文麿の父|篤麿《あつまろ》の弟で、津軽家へ養子に迎えられたものだが、英麿のあとをついだ義孝《よしたか》氏も養子で、尾張徳川家の分家、徳川|義恕《よしくに》の二男である。こんど義宮《よしのみや》と結婚された華子《はなこ》さんは、この義孝氏の四女であることは、あらためていうまでもない。  幕軍側の指揮者たちは、小笠原長行のように逃げ足の早いものばかりではなかった。小倉藩の家老|島村志津摩《しまむらしづま》のごときは、度胸も知謀もあり、名将の名に値するもので、長州軍が勝ちに乗じて深追いしたならば、形勢が逆転したかもしれないといわれている。明治七年、佐賀で、江藤新平《えとうしんぺい》を擁立して「佐賀の乱」をおこしたとき、旧藩士の大部分がこれになびいたけれど、島村は旧藩士をはげまし、進退をあやまらせなかった。  だが、こういった批判は、いずれも結果論であって、すさまじい時代の流れにおし流されているときには、幕府でさえも、その流れからぬけ出すことができずじまいだった。  いわんや、一藩、一家老の力でどうにもなるものではない。小倉城の間道にしても、敗因のなかの一つであって、これに重きをおきすぎるのは、敗者の泣き言にすぎないともいえる。  こういった�泣き言�が、新発見の�史実�として、学者、評論家などによってとりあげられるばあいも珍しくない。  それはさておいて、この戦争に加わった長州軍のなかから、のちの�聖将�乃木希典が出ようとは、だれも予想しなかったであろう。彼は託された山砲をひっさげて大いに奮戦し、左の足に擦過傷をうけた。十二月、停戦となって、長府に凱旋《がいせん》、翌慶応三年正月、宗藩の命によって「明倫館」の文学寮に復帰したが、あやまってまたも左の足をくじいた。そのため退学して長府にかえり、「報国隊」の漢学助教となった。  このままですすんだならば、彼は漢学者または詩人として、平和な生涯をおえたであろう。だが、時代は彼にそれを許さなかった。かぞえ年で二十一歳になったとき、またも彼は藩命によって、フランス式教練をうけるため、伏見の�御親兵�に加えられた。これが彼に、封建的な職業軍人であるサムライから、近代的な職業軍人に脱皮するチャンスを与えた。  この脱皮は、どの程度まで、彼自身の自由意思に基づいてなされたのであろうか、果たして彼の生涯に幸福をもたらしたであろうか——ということが問題である。これにたいする見解も、人によってずいぶんちがったものになる。  一つの見方は、乃木の生涯は、その環境によって強制されたもので、彼が学者もしくは詩人になったとして、それほど成功しなかったとしても、職業軍人になるよりはましであった、少なくとも彼個人にとっては幸福であったろうということである。  もう一つの見方は、乃木の果たした役割は、明治以後の日本において、彼が最大の民族的、道徳的推進力となったということで、これは彼が職業軍人であったということと切りはなすことのできないものだということである。  ほかにもいろいろな見方もあろうが、帰するところはこの二つになる。かつてわたくしが中国最高の文化人|郭沫若《かくまつじやく》と話したとき、彼が�詩人乃木�を予想した以上に高く評価していることを知った。それにしても、乃木の詩作のなかで、もっとも高く評価されているのは、ほとんど戦争に関係あるものだ。これでみても、やはり�乃木�と�軍人�とは、一卵性双生児のようにつながっているということがわかる。 [#改ページ] [#中見出し]典型的日本人のさいご   ——東洋的な虚無思想につらぬかれた高杉晋作独特の死生観——  [#小見出し]高杉ついに倒れる  話はまた小倉戦争にもどる。  小倉軍の降服条件は、こんごふたたび幕府が長州征伐をはじめるようなことがあっても、小倉軍は幕府側にくみしない、どうしても幕府でこれを認めない場合には、小倉軍は長州軍についてその先陣をつとめるということであった。譜代大名として、徳川三百年間、全九州のノドもとをおさえていた小倉藩も、ひとたび戦争に負けると、こういうていたらくになるのである。これには、「太平洋戦争」後の日本のありかたを思わせるものがないでもない。  当時、事実上高杉の指揮下にあった戦線は、安芸の西端から豊前の東端まで、約四十里におよんでいた。そのあいだを、彼は、夜を日についでかけずりまわり、部下の士気を鼓舞する一方、つぎつぎに新しい作戦をあみ出していたのである。  それでいて、彼にはいわゆる�英雄閑日月�のゆとりがあった。いや、見方によっては�閑日月�だらけのようであった。  服装は例によって単衣の着流しだ。真夏のことだったから、前線に出ても扇子を手放さず、片手で涼をとりながら指揮をした。�三軍�をといいたいところだが、総勢はいまの軍隊でいうと、せいぜい一個大隊程度で、しかも彼のイキのかかっているものを将棋の駒のように動かすのだから、そういうこともできたのであろう。  強敵を前にして部下がいらだっているときに、高杉が突然姿を消してしまうことがよくあった。手わけして行くえをさがすと、近くの料亭にあがって、女を相手にのんでいるのだ。しかもこれが真っ昼間のことだ。部下が急をつげても、当人はお大尽気どりで、容易に尻をあげそうもない。  それでも、日没に近づいて、いよいよ戦機が近づいたとなると、彼は決然としてたちあがり、女を相手にのみながら思いついた作戦を実行にうつすのである。  こういう型の軍人は、しばしば前線に従軍したわたくしの体験によると、「太平洋戦争」中の日本軍にもないわけではなかった。とくに参謀肩章をつけたものにそれが多かった。だが、その大部分は高杉ほどの才能も胆力もなく、こういったスタイルだけをまねたものであった。  高杉に肉体的なおとろえのきざしがあらわれたのは、慶応元年九月ごろからで、それが結核として周囲のものの目にもはっきりとみえてきたのは、小倉作戦後のことである。白石正一郎の日記にも、慶応二年七月二十二日のところに、 「高杉不快」 ということばが、はじめて出てきている。さらにその翌日には、 「奇兵隊より鯉魚送りきたる」 と書かれているところを見ると、隊員たちのあいだでも、高杉の�不快�が、単なる過労やカゼではなくて、結核だと気づいたことは明らかである。  九月にはいると、彼のはく痰に血がまじり、胸に痛みをおぼえるようになった。同月二十九日に、井上聞多におくった手紙のなかで、自分でも結核だと認めている。 「小生ことも、戦争中風邪にかかり、それより肺病の姿と相成り、すでに四十日あまりも、苦臥まかりあり候。当時(現在)参謀の任は、まるで前原(一誠)にわたし、ただいちずに保養のみに日を送り候。実に四肢蒼然、慚愧のいたりにござ候」  これでみると、このころはもう寝ついてしまっていたようである。「肺病」だということが自分にもよくわかっていながら、「肺病の姿」と書いているのを見ると、まだ望みを失っていないようにもみえる。「四肢蒼然」という表現は、やせおとろえて、すっかり生気を失った手足をながめている彼の姿が目にみえるようで、いたましい限りである。  戦場の指揮はすべて前原一誠にまかせたというものの、さぞもどかしい思いをして、しばしば自分で前線にとび出したくなったにちがいない。  十月八日、山県狂介と福田侠平あての手紙に、 「追々進撃ご勝利、喜躍にたえず、小生にも日ましに全快なれども、戦場へおもむき候ほどには相成らず」 と書いている。さらに、十月二日付け木戸準一郎あての手紙では、 「小生の病気ごけねん下され、ご親切のご教示下され候段、かたじけなく多謝奉り候。もとより再発と申すわけにはこれなく候えども、少々喀血これあり候ゆえ、驚き申し候」 と書いているが、病勢はぐんぐん進んでいるようである。しかし、まだ対戦中のことでもあり、士気にも影響するので、彼の結核は、ごく親しいもの以外には、秘密になっていたらしい。そんなことを知らない藩政府では、講和問題その他について重要会議を開くことになり、彼の出席を求めてきた。  [#小見出し]下関のもつ独特の魅力  藩政府の重要会議に出席を求められたのにたいして、高杉は木戸を通じ、つぎのようにことわっている。 「ぜひお呼び出し申すことに候わずば、ほどよくおことわり下されたく候様、四十日余も病臥、実に垢まぶれにござ候」  まさか、高杉ともあろうものが垢まぶれで寝ていたとは思えないが、負けずぎらいの彼は、やせおとろえた姿で人前に出たくないのだ。とくにこれまで自分を可愛がって、たびたびのわがままを認めてくれた藩主や世子にその姿を見せたくなかったのであろう。  はじめ高杉は、白石正一郎方で療養していたが、見舞い客の出入りがあまり多いので、めいわくだろうということで、適当な家を物色したところ、下関の郊外、桜山という小さな丘のふもとに、もと「奇兵隊」の屯所になっていた家が空《あ》いていたので、これにうつった。「東行庵《とうぎようあん》」と名づけたが、もとは百姓家で、荒れはてていたのを少し手入れをしたけれど、すきま風が吹きこんでくるし、霜夜には冷えて、相当こたえたらしい。  桜山には、「招魂場」(明治八年に「招魂社」と改めた)というのがあって、今も下関の名所になっているが、これは、高杉が「奇兵隊」の戦死者のためにつくったものだ。その後、この種の神社が全国各地にできたが、これはもっとも早く、いわば�下関の靖国神社�である。高杉もここに骨を埋めるつもりで、生前に墓碑銘までつくっていた。  はじめは墓碑だけであったが、慶応二年、幕府の第二次長州征伐で勝利を占めてから、神社もできて、盛大な招魂祭がおこなわれた。そのさい、高杉はつぎのような歌をよんで、霊前にささげている。   おくれてもおくれてもまたおくれても        誓いしことをあに忘れめや  いかにも高杉らしい作品である。「奇兵隊」では高杉につぐ重要な地位を占めていた山県狂介も一首よんでいる。   あわれにも花と散りにし桜山        世には惜しまぬ人なかりけり  山県は少年時代に父の三郎から歌の手ほどきをうけたというだけあって、シロウトばなれがしているが、この歌は月なみで、魂がこもっていない。それよりも、長州系軍閥の総元締として八十四歳まで生きのび、位人臣をきわめ、権力をほしいままにした山県自身も、死後ここにまつられているが、これはおかしいという説が地もとに出てきているときいた。  今とちがって、当時結核にかかると、死は時期の問題であった。そうときまれば、高杉も萩の生家にかえって、両親や妻子のもとで療養するようにと、しばしばすすめられた。これにたいして高杉はつぎのような返事を出している。 「私ことも、病気日にまし快きほうにござ候間、ご安心下さるべく候。おって帰省保養のご論がござ候えども、寒中にさしむき候儀につき、今年だけは淹留《えんりゆう》保養仕り、来春早々帰省の覚悟にござ候。まずまずご懸命に思し召され候段、ごもっとも至極にござ候えども、路頭の風評ほどにはござなく候間、この後はご懸念下されまじく候」  下関は萩よりも暖かいから、この冬はここですごして、春になったら萩にかえる。それに、自分の病気は世間でウワサしているほど悪くはないというのである。  それにしても、どうして彼は両親や妻子のところへかえりたがらないのであろうか。発病以来まめまめしく看護してくれる|おうの《ヽヽヽ》の愛情にひかれているのであろうか。  しかし、高杉と|おうの《ヽヽヽ》のつながりは近代的な意味での恋愛ではない。といって、単なる�妾�でもなく、どっちかというと、今のガール・フレンドに近いものではなかったろうか。  |おうの《ヽヽヽ》にたいする愛着もないではなかったが、高杉をこれほどまでに下関につなぎとめたのは、そのころ下関がもっていた独特の魅力だとわたくしは考えている。戦争と貿易がもたらす刺激とスリル、港町特有の遊興気分、武士でも商人でも、自由にその才能をのばすことのできる空気、それに彼がつくった「奇兵隊」を中心とする人的なつながり、|おうの《ヽヽヽ》も高杉自身も、このなかの登場人物の一人であって、このチーム、この舞台からはなれられなくなっていたのではあるまいか。こういった下関の魅力は麻薬的なもので、高杉はこれにすっかり中毒していたのではなかったろうか。  今の萩はくずれかかった土べいと、失業士族救済のためにうえられた夏ミカンの町となっているが、高杉の時代においても、大江広元《おおえのひろもと》から毛利元就《もうりもとなり》を経て敬親《たかちか》にいたる二十八代にわたってつくられた強い伝統と格式と因習に、ガンジガラメにしばられた土地として、高杉の目に映じ、これにそれほど愛着を感じなかったのであろう。  高杉は口ぐせのように「赤間ケ関の鎮守たらん」といったというが、そういう決意は、本人が意識するしないは別として、以上のべたようなこの土地の魅力と切りはなすことのできないものだとわたくしは見ている。  [#小見出し]竹・梅を愛する詩人  高杉の人となりには禅味がある。天才的な武人、熱烈な革新家、はで好きの蕩児、人をハラハラさせるような言動が多く、アクロバットに近いものを感じさせるが、彼にはこれらをこえた何かがある。それが果たして�禅�といえるかどうか、これについてはいろいろ異論が出ると思うが、少なくとも�禅�に通ずるものがある。  これは東洋的な虚無思想といってもいい。結果にそれほど重きをおかないで、むしろ、その過程をたのしむ精神である。高杉の場合には、のるかそるか、一か八かのクーデターを決行したり、すてばちの逃避行をくりかえしたりするのも、料亭で芸者や娼妓を相手に大尽遊びをするのと、彼の心理の奥底では、一つの根につながっているようである。それが�禅�といえば、�禅�だ。彼を結核に近づけるような無茶な生活に追いこんだのも、この東洋的な虚無思想で、坂口安吾《さかぐちあんご》、太宰治《だざいおさむ》、織田作之助《おださくのすけ》など、戦後の�破滅型�作家に相通ずるものがある。  もともと高杉家の宗門は曹洞宗で、晋作自ら参禅し、悟道の妙諦をつかむところまで行ったかどうかはわからないが、少年時代から禅的なムードを身につけて育ったことは争えない。それが彼のつくる調子の高い漢詩などよりは、彼の作とつたえられる俗謡などによくあらわれている。  彼は竹の音が好きで、「些々《ささ》(笹)生《せい》」と名のったりしている。また梅を愛し、自分も「谷梅之助」という名をつかったり、むすこに「梅之進」、養女に「お梅」と命名したりしている。愛人の|おうの《ヽヽヽ》も、彼の死後出家して「梅処尼《ばいしよに》」と名のっている。笹にしろ、梅にしろ、禅味のただよっているものだ。  高杉は、軍人であり、政治家であるよりも、より多く詩人であり、彼の書いたものは、つくろうとしてつくったものではなく、岩清水のように、彼の人柄からほとばしり出たものが、大部分を占めている。  慶応二年から三年にかけての日本は、第二次長州征伐の失敗で、幕府の足もとが見すかされ、いわば王政復古の�その前夜�であった。とくに長州藩においては、薩摩との連合ができて、いよいよ幕府にとどめを刺す時期がきたというので、その動きはきわめて活溌であった。この大切なときに、�不治の病�をわずらって寝ていなければならなくなった高杉の胸中は、 「慷慨す病床の上 薬炉にあって怒声を発す」 ということばで表現されている。いても立ってもいられないというのであろう。  床につくようになってからの高杉は、これまでよりも熱情をこめて漢詩、和歌、俳句、絵画などに親しんでいる、絵は竹をかくのが好きで、 「数竿の竹を画き出せば、精神筆端にあらわる」 ともいっている。そうかと思うと、気持が先に立って、筆がこれについてこないもどかしさを感じるとみえて、 「書をつくるも、書はさらに拙にして 句をさぐるも、句をなすことおそし 恨むわが少年の日 兵を学んで詩を学ばざりしを」 と、少年時代、軍事に夢中になって、文学を学ばなかったことをくやんでいる。彼の本質は、今のことばでいうと�文学青年�だったということにもなる。  慶応二年の暮れに、父丹治へ出した手紙にも、 「私こともこの節は、病気をなぐさめんと、少々和歌のけいこをいたしおり候」 と前書きして、   人は人われはわれなり山の奥に      棲みてこそ知れ世のうきしずみ とうたっているが、当人の心境は、山奥にでも隠棲しているつもりだったのであろう。また死ぬ前の年の暮れには、   うぬぼれて世にすみにけり年の暮 とよんでいる。  病院や監獄にはいって、自由をうばわれ、死に直面すると、人間はだれでも、多かれ少なかれ�詩人�になるものである。「太平洋戦争」後に、�戦犯�として収容されたものは、ほとんど例外なしに、和歌や俳句をつくっている。重光葵《しげみつまもる》のようなおよそ文学とは縁が遠いと思われる人物でも、多くの漢詩をのこしている。絶体絶命の境地におちいった日本人が、宗教よりもむしろ、広い意味の詩に救いを求める、しかもその詩には人間と�自然�とのつながりをうたったものが多い。これも仏教の影響で、仏教がこういう形で日本人の心に深く浸透しているのであるが、形の上からいうと、逆に仏教から脱皮しているようにみえる場合が多い。仏教のなかでも、とくに禅宗にこの傾向が強い。  これまで高杉の看病をしていたのは、主として愛人の|おうの《ヽヽヽ》であったが、彼もだんだんと死期の近づいていることを自覚したのであろう。あけて慶応三年の正月、正妻の雅子《まさこ》とむすこの東一《とういち》を下関へ呼びよせた。「東一」は、高杉が使った多くの名前の一つである。  [#小見出し]戦費を流用して放蕩  高杉が正式に結婚したのは、万延元年正月十八日、二十一歳のときで、彼が上海に旅行する前々年であった。式は自宅であげたが、花嫁は同藩|井上平《いのうえへい》右衛門《えもん》の二女で、当時十五歳だった。  彼女は、藩中でも指折りの美人で、しつけがよく、教養も高く、とくに歌道の心得もあった。したがって、早くから縁談が山ほどあって、両親はことわるのに困った。そこで、彼女の叔父にあたる人に相談した結果、花婿候補のなかから、これはと思われるもの三人をえらび、その名前を書きこんだクジをつくり、彼女につきつけて、そのなかの一本を引かせた。  こういった方法で三国一の花嫁を引きあてたのが高杉である。だが、その後、高杉は上海、江戸、京都、大阪、下関などをとびまわり、ほとんど席のあたたまるときがなく、萩でくらしたのはほんのわずかであった。それも獄に入れられたり、家に監禁されていることが多かった。  二十歳前の高杉は、むしろ女ぎらいのほうで、とくに祭礼のときなど、芸者が変装して町を練り歩いたりするのを見ると、町の悪童たちを指揮して、これに糞尿をかけたりするようなイタズラをしたものだという。  それが一度女遊びの味をおぼえると、思いきった耽溺ぶりを示すところも高杉らしいが、それも大胆で、おおっぴらで傍若無人で、なにひとつかくしだてをしない。政治にかんすることは、きわめて口が堅く、家族のものにも、なにひとつもらすようなことはなかったが、各地での浮気話は、両親や妻の前でも、平気でしゃべった。手ぬぐいを四つに折って坊主頭にななめにのせ、島原のオイラン道中のまねごととか、江戸の木遣り姿などを得意になってやってみせた。下関における|おうの《ヽヽヽ》との生活についても、明けっぱなしに話してきかせるのであった。こういうところは露出狂に近いともいえる。  彼の無軌道ぶりは今にはじまったことではないが、健康もあまりすぐれないようだというウワサを耳にして、高杉の母親が雅子、東一などをつれて、下関へ様子を見にきたのは、彼が死ぬ前年の二月である。そのさい高杉は、料亭紅屋喜助かたに家族を招いて夕食を共にしたが、その席に、稲荷町から芸者や幇間が大勢やってきた。かれらは踊ったり、太鼓をたたいたりバカバカしい軽口をきいたりしたが、古い城下町の萩で堅実な家庭生活をいとなんでいる人々にとって、ちっとも興味がないばかりでなく、むしろ嫌悪をもよおし、こういう浪費のなかにおぼれている、高杉に、あきれかえったにちがいない。  こういうことにつかわれる金は、いったいどこから出たのであろうか。彼のパトロンであった白石家も、そのころはすでに家運がかたむいていたはずだ。ほかに、入江和作《いりえわさく》とか、大阪の鴻池《こうのいけ》の隠居で「山中」と名のっていたものが、「町人ながら義勇ありて」�正論派�に財政的援助を惜しまなかったようであるが、これとて限度があったにちがいない。とすれば、これは幕府の第二次長州征伐にそなえての長州藩の戦費、機密費から出たものと思われる。  戦時中、わたくしも、たった一度ではあるが、軍の機密費をもらったことがある。ジャワで敵前上陸直後、ジャカルタの放送局や新聞社が、日本軍の到着前に破壊して逃げないように、特別の工作隊が編成され、わたくしが責任者にえらばれて、出発するにのぞみ、宣伝班長のM中佐から手わたされたものである。これは日本から印刷してもって行った軍票で、当時の金で約一万円程度だった。  それよりも、いまだに忘れることができないのは、この機密費の清算方式である。これをかくして貯蓄したり、家庭へ送ったりしたことがわかると、罰をうけねばならないが、なんにつかったということは、そう重くみないのである。戦時中、日本の将校、とくに�参謀�と称するものが、連日連夜、内地や占領地の料亭で豪遊ができたのも、機密費が豊富で、しかもその用途をあまり追及されなかったからである。戦後の�官用族��社用族�のバッコは、この�軍用族�をまねたものといえよう。  二度目に雅子夫人が下関に出てきたのは、五月にはいってからで、病人のために夏物のきがえをもってきたのであるが、この前のドンチャンさわぎにこりごりして、用事をすませると、さっさと萩へ引きあげていった。未亡人になってからも、芸者はいやだと口ぐせのようにいっていたという。  高杉のこういった放蕩癖は、あまりにも有名で、小倉側にも、スパイを通じてつつぬけになっていたとみえて、小倉軍の戦記にも、 「長州兵は日夜酒をあおり、乱舞して軍規みだれ、士気沮喪」 と書いている。しかし、これとても、高杉その他一部幹部のふるまいが過大に伝えられただけのことで、ほんとはそうでなかったから、これが逆効果をもたらし、長州軍のためにかえって有利となったともいわれている。  [#小見出し]病床に三人の女 「萩焼」という陶器は、萩の名物になっているが、これをはじめた李勺光《りしやくこう》は、「朝鮮出兵」のときに豊臣秀吉が朝鮮からつれてきて毛利|輝元《てるもと》に託したものだ。  高杉の主治医は李家《りのいえ》文厚《ふみあつ》といった。ほかにも、毛利藩の藩医には「李家」姓を名のるものが多い。いずれなん代か前に朝鮮からきたものであろう。高杉のために、李家の往診を求めたり、薬をもらいに行ったり、走りつかいの役目を小まめに果たしたのは、前にもちょっと書いた�女奇兵隊�の高橋|きく《ヽヽ》であった。  そのほか、死ぬ前の高杉は、三人の女性に見とられた。そのうちの二人は、正妻の雅子と妾の|おうの《ヽヽヽ》であることはいうまでもない。雅子は「みめうるわしく才たけて」という型であったのに反し、|おうの《ヽヽヽ》はどっちかというと、うすのろで、�グラマー型�に近かったようである。  慶応三年三月、高杉の容体がいよいよ悪化したというので、萩から雅子夫人が両親とともに見舞いにきたとき、高杉は寝床から頭をもたげていった。 「雅と|おうの《ヽヽヽ》と、そこに立って、どっちが高いか、背くらべをしてみてくれ」  妻妾の背くらべなどということは、今の女性の前では、冗談にも口に出せないことである。高杉にはこういう悪趣味があった。�天下国家�に重きをおきすぎ、その他のことを過小評価することが、�国事に奔走�する�志士�のありかたであるかのごとく思いこんでいる面があった。こういう考えかたは、戦時中、一部の軍人や右翼のあいだにも、ずっとのこっていた。  そのとき、|おうの《ヽヽヽ》は二十四歳、雅子は二十三歳だった。どっちもあまり大きいほうではなかったが、|おうの《ヽヽヽ》のほうが少し高かった。 「ほほう、|おうの《ヽヽヽ》の勝ちか」 といって、高杉はカラカラとわらった。これが雅子の耳には、鋭い刃をつきさしたようにひびいたにちがいない。  ところで、高杉はこれら二人の女性のいずれをより多く愛していたであろうか。  慶応二年四月、高杉が長崎から、|おうの《ヽヽヽ》に出した有名な手紙がある。これには、まず、 「人になぶられぬことかんようにござ候」 と、彼女の注意をうながし、 「十両おうけとり下され候。われらこともしんぼういたし候間、そなたもしんぼうかんようにござ候。しゃしん送り候間、おうけとり下さるべく候」  さらに、 「風をひかぬように」 と、実に細かいところまで気をくばり、愛情のこもった文章を書いている。  これにたいして、正妻のほうにはどうか。 「百折|不僥《ふとう》金鉄の志  父母を思うごとに涙はじめてひそむ」  などという詩をつくっては、深い孝心を示しているが、留守を守る妻の労苦について感謝したようなものは、ほとんど書きのこしていない。この時代には、�孝�は�忠�につぐ大きな美徳とされ、これが最大の関心事となっていたことは、蕩児高杉の場合も、謹直そのものみたいな乃木希典の場合も、大してかわりはないのに反して、妻への愛は不当に軽んずる傾向があった。乃木はその生涯を通じて、どの程度に静子夫人を愛していたか、これについては異説が多く、なかにはずいぶん極端な否定説も出ているくらいである。  高杉を死の床で見とったもう一人の女性がいた。それは高杉によって姫島から救い出された野村望東尼である。  望東尼のことは前にもちょっとふれたが、慶応元年六月、福岡藩では佐幕派が勢力を占めるにいたって、前に彼女は平野国臣や高杉をかくまったり、ひそかに太宰府の三条実美らに会ったりしたというので、一子助作とともに、玄海の孤島姫島に流され、助作はまもなくそこで死んだ。  翌年九月、高杉を中心に望東尼救出隊が組織された。五人のものが漁船で姫島にわたり、そのうちの一人が前から島守《しまもり》と親しかったので、これと会って雑談しているうちに、のこりの四人が望東尼の入れられてある獄舎を破り、その救い出しに成功したのである。  すでに六十歳をこえた望東尼は、高杉の世話で、白石家にあずけられた。そして体力が回復すると、こんどは彼女のほうで高杉の看病をすることになった。   世にありて甲斐ある人にかわりなば        今もおしまぬ老いの命ぞ というのが、彼女のいつわらぬ気持であった。臨終近くなった高杉が、危なげな手つきで筆をとり、   おもしろきこともなき世をおもしろく と書いたまま、ぐんなりしていると、彼女はすぐ彼にかわって、   すみなすものは心なりけり と、したためた。  [#小見出し]最大の女傑の一人  高杉をめぐる�もう一人の女�というと、いいすぎになるが、彼をめぐる女性の話題としてはぶくことのできないのは、幕末から明治にかけて日本が生んだ最大の�女傑�の一人、「愛国婦人会」の生みの親、奥村五百子《おくむらいおこ》である。  五百子は、肥前唐津の東本願寺派の釜山海高徳寺《ふさんかいこうとくじ》の住職奥村|了寛《りようかん》の娘で、文久三年十八歳のとき、父の命をうけて、毛利藩の家老|宍戸元礼《ししどもとあや》を訪ねた。この使いは、彼女の兄の円心《えんしん》がすることになっていたのだが、当時、長州では戦時状態にあったので、他藩から男子が出入りすることを禁じていたから、彼女にかえたのだ。  だが、女の一人旅は物騒だというので、髪を大たぶさに結い、深編笠に義経袴、腰には朱鞘の大小をおび、草鞋ばきという、どこから見てもさっそうとした若士の姿で下関にあらわれた。すぐ「奇兵隊」員につかまり、高杉の前につき出された。高杉は五百子をジロリとひとめみるなり、 「女を男と見あやまる高杉ではないぞ!」 と、どなりつけた。そこで、彼女はあっさりカブトをぬいで、身分をあかし、宍戸への用件をとりついでほしいとたのんだ。  五百子の父了寛は、左大臣|二条治孝《にじようはるたか》の三男で、高徳寺のあとをついだものであるが、宍戸元礼の妻は治孝の兄|斉信《なりのぶ》の娘で、公武融和で知られた内大臣二条|斉敬《なりたか》の姉、了寛のイトコにあたる。了寛も元礼も勤皇派だったから、思想的な面でも連絡する必要が生じたのであろう。そのレポに、この�男装の少女�がつかわれたわけだ。といっても、彼女は六歳で重い天然痘にかかったから、ひどいアバタ面で、色が黒く、目がギョロリとして、�麗人�などといえるものではなく、男装のほうがよく似あったらしい。  それよりも、わたくしたちにとって興味のあるのは、高徳寺が日本の大陸発展の古い根拠地となっていたことである。そこから五百子のような女性が出たことは、決して偶然ではない。  この寺がどうしてできたかというと、織田信長の家来に奥村《おくむら》掃部介《かもんのすけ》というのがいた。これが信長の死後、本願寺の教如《きようによ》上人の教えをうけて浄信《じようしん》と名のり、半島への布教を志して朝鮮へわたった。  足利義満《あしかがよしみつ》のころまでは、日本から商人、僧侶などが半島や大陸へ進出していたが、倭寇がさかんになるにつれて、明朝からその鎮圧を日本に求めてきた。義満は貿易の利益を独占するため、これらの日本人の撤退を命じたので、その前線基地が失われた。 �布教�の目的もあったが、それよりも日本民族の発展にそなえて、この基地を再建することがねらいだったらしい。現に、信長のあとをついだ秀吉が、朝鮮出兵をはじめると、浄信は朝鮮から名護屋の大本営へどしどし情報を送ってきている。その一方、戦死者、病死者の霊をとむらうため、従軍諸将の醵金によって、釜山海高徳寺という寺を建てた。この浄信のやりかたは、かつてスペイン、ポルトガルなどが、新しい植民地を手に入れるときにつかった方法とたいへんよく似ている。つまり、情報とり、自国軍将兵の慰霊、現住民の教化、宣伝など、多方面にわたってその任務を果たしたのである。  秀吉の死後、これが征韓軍とともに、唐津に引きあげてきて、再建されたのである。名は元通り釜山海高徳寺であるが、島原の乱後、日本人の海外渡航は禁止されたから、半島とのつながりはすっかりきれてしまった。  五百子の父了寛は、この高徳寺の十二代目の住職で、唐津藩における勤皇派の中心になっていた。唐津藩主は、島原藩主と隔年交代で、長崎監察の大役を仰せつかったため、十七歳の成年に達しないと、藩主の地位につくことができなかった。のちに幕府の難局に立って大いに手腕をふるった小笠原長行は、嫡子だったが、二歳で父を失い、年齢不足で相続できず、廃人にされて、他から養子を迎えた。そのため長行は、三十七年間も陰の生活をつづけたのであるが、それでいて閣老にまでえらばれ、倒壊寸前の幕府を背負って立ったのだから、よほど傑出した人物だったにちがいない。  小笠原長行というと、薩長を中心とする勤皇派から、維新史上の代表的悪役の一人とされているが、了寛は長行に会ったとき、つぎのような質問をした。 「風聞によれば、勤皇の志士たちが、長州にたいして錦旗をたまわるような策動をしているとのことです。万一そのようなことになった場合、あなたはどうなさるつもりですか」  これにたいして長行は答えた。 「その場合は、馬からおりて御旗を拝するのみだ。そして部下のものには、いっせいに退却を命ずるほかはない」  前にのべた小倉の戦争でも、長行のひきいる幕府軍は戦争らしい戦争をしないで大敗を喫し、長行自身もいちはやく、船で逃げ出した。これは長州藩で錦旗をもち出したわけではなく、将軍家茂が死んだというニュースがはいって、急に大阪へ向かわねばならなくなったからであるが、長行以下幕軍将兵の心の底には、錦旗に刃むかうのに似たコンプレックスがあったからではあるまいか。  [#小見出し]愛国心の生きた象徴  明治以後、いや、明治以前から、日本の民族主義、日本の愛国心というものには、伝統的に、アメリカの「モンロー主義」のような孤立主義は認められない。いつでも半島や大陸とのつながりにおいて出てくるのが、重要な特色となっている。個人的にも集団的にも、民族主義ないし愛国心の感度が高くなるにつれて、半島や大陸とのつながりが強くなるのである。明治維新で国内の統一が曲がりなりにも完成したとたんに、西郷隆盛らの�征韓論�が出たりして、ふたたび内乱状態におちいったりしたのも、この日本的民族主義、愛国心と切りはなすことのできないものである。  日本の女性でこの傾向を、しかもボルテージのもっとも高い形で代表しているのが奥村五百子である。彼女を神功皇后《じんぐうこうごう》の庶民版といって悪ければ、頭山満、内田良平、宮崎滔天《みやざきとうてん》などの女性版といってもさしつかえあるまい。しかも彼女の業績は、これら男性の�大陸浪人�に比べて、決して負《ひ》けをとるものではなかった。 「釜山海高徳寺」という名が示しているような伝統を身につけて育った五百子は、女ながらも、日本民族が半島や大陸にうちこむクサビたるべく宿命づけられていたともいえる。  ふだんから西郷に心酔していた彼女は、西郷が征韓論を唱えると、熱烈にこれを支持し、征韓論に敗れた西郷らが鹿児島で反旗をひるがえして蹶起するや、彼女はじっとしておれず、同志を糾合し、武器をあつめて、これに参加しようとしたが、長崎県令に先手をうたれて、これは実現しなかった。  彼女の実兄円心が、彼女たちを裏切って官軍に味方しようとしたことを知り、この兄を刺し殺そうとしたのはこのときのことである。円心は、前にものべた長州の奇僧月性の感化をうけて、勤皇の志厚く、坂本龍馬などとのまじわりも深かったのであるが、高徳寺が東本願寺に属していた関係で、官軍に味方せざるをえなかったらしい。  明治三十年、円心と五百子は、手をたずさえて念願の韓国布教にのり出した。小笠原長行のあとをついだ長生《ながなり》、近衛篤麿などが、彼女の熱意に動かされ、東本願寺管長で、俳人としても有名な大谷光演《おおたにこうえん》(俳号「句仏」)に彼女を推薦したのである。  韓国の足がかりとして、まず全羅南道の光州に実業学校をたてた。この費用は、ときの外相|大隈重信《おおくましげのぶ》が、日清戦争後の半島工作の上に必要と認めて、機密費から出してくれたのだ。当時参謀本部にいた長岡外史《ながおかがいし》(のちに中将)も、五百子たちの熱心な後援者だった。  ただし、この学校の経営は成功しなかった。朝鮮を引き揚げた円心は、北辺に目をむけて千島におもむいた。そして色丹《しこたん》島に住みついて、一年ばかり布教ののち、東本願寺京城別院の輪番となって、ふたたび半島におもむいた。  明治三十三年「北清事変」がおこると、五百子は、のちに真宗大谷大学学長となった南条文雄《なんじようふみお》博士にともなわれ、軍慰問使としてシナにわたった。そして事変直後の北京の惨状を目撃し、軍人遺家族援護の必要を痛感した。「愛国婦人会」の創立を思いたったのはこのときである。  のちには、全国に数百万の会員を有するマンモス組織となった「愛国婦人会」も、明治三十四年三月に発足したときには、趣意書の印刷費などをふくめて創立費はたった五十円、創立事務所には、閑《かん》院宮《いんのみや》別邸内の門番の家の三畳の室があてられた。まもなく日露戦争がはじまると、この団体は時代の要望にマッチしたとみえて、見る見るふくれあがっていったのである。 「太平洋戦争」中にできた「国防婦人会」や「大政翼賛会」などとちがって、これは民間の一女性の主唱によってスタートし、日本の民族主義、愛国心の普及とともに普及し、日本国の強大化、発展につれて、大きくのびて行ったところに、他のこの種の組織に見られない特色がある。 「愛国婦人会」の初代会長には岩倉具視公爵の未亡人|槇子《まきこ》、総裁には閑院宮|智恵子妃《ちえこひ》をいただき、幹部にはそのころの華冑界、政界、官界、財界のいわゆる�名流夫人�、ほかに下田歌子《しもだうたこ》、山脇房子《やまわきふさこ》などの有名女性が名をつらねた。しかし、これらの婦人たちは、いわばアクセサリーのようなもので、これにすべての情熱とエネルギーをささげたのは五百子である。会員募集の全国遊説で、席のあたたまることもないという状態であった。いつも汽車は三等、宿は安宿、一本の杖にすがり、「半襟一掛を節約して」をスローガンとし、浄財をあつめてまわった。  明治三十九年五月、同会の第五回総会が新宿御苑で開かれたときには、皇后陛下の行啓をかたじけのうした。  それから四か月後の九月、五百子の劇的な引退式が、東京九段偕行社の大広間で開かれた。これには会長の岩倉公爵夫人をはじめ、各界の名流婦人、男子では小笠原長生子爵、伊東祐亨《いとうすけゆき》海軍大将、谷干城《たにたてき》陸軍中将、福島安正《ふくしまやすまさ》陸軍中将、代議士の島田三郎などの諸名士がずらりと顔をつらねた。  この人たちの前に姿をあらわした五百子は、白羽二重の衣に、もえるような緋色の地に金色の菊模様のついた裲襠《うちかけ》をかけ、錦の袋に入れた懐剣をふところに、左手には数珠をかけていた。彼女はこういう芝居けたっぷりのところがあった。  そのあと、彼女は郷里唐津にかえり、翌四十年二月、六十二歳で死亡した。  生前の五百子は、�国家狂�と呼ばれたが、まさにその通りで、勃興期における日本の民族主義、愛国心の生きた�象徴�であった。  [#小見出し]もっとも日本人的な日本人  また高杉の話にもどるが、彼が死んだのは、慶応三年四月十四日で、王政復古の大号令の出る八か月前のことである。  その前に、「奇兵隊」のものが、あちこちの神社に祈願をこめたり、イギリスやアメリカの医者をつれてきて診察させたり、八方手をつくしたけれど、もはやどうにもならなかった。  高杉の死をめぐって、いろんな伝説めいた話がのこっている。その一つにこんなのがある。  いよいよ死期の近づいてきたことを自覚した彼は、この世の思い出に、親しい友人や部下をつれて、行きつけの料亭に出かけ、なじみの芸者や娼妓を総上げして、ドンチャンさわぎをやってみたいといい出した。周囲のものがなんといってとめてもきかないので、やむをえず駕籠《かご》をよび、これにのせて家を出た。  ところが、途中ではげしい下痢をもよおし、さすがの高杉もあきらめて引きかえした。これで容体が急に悪化し、死期を早めたという。  これが猫遊軒伯知《びようゆうけんはくち》の講談によると、高杉がさいごの豪遊をしたいといってきかないので、しかたがないから、彼をフトンの上に寝かせたまま、みんなで家のなかをかつぎまわってだました、ということになっている。  これはもちろんつくり話だと思うが、まったくよりどころがないわけでもない。高杉の遺言に、  「死後は墓前にて芸妓御あつめ、三絃など相鳴らし、お祭り下さるよう願い奉り候」 とあるところを見ると、これを死の直前に自分で実行してみたくなったのだと見られないこともない。彼の臨終の場にいた田中顕助の話では、 「高杉の終焉《しゆうえん》の日であったが、なかなか元気であった。稲荷町(遊廓のあるところ)に行くといい出して、どうしてもきかない。とうとう駕籠にのって出たが、途中でもらしたので、さすがの高杉も引き返した。そしてその日になくなった」 ということになっている。結核患者は、死の直前まで意識のはっきりしているのが普通だから、田中の話がほんとうであろう。  また高杉の詩に、   祖神開闢二千年   億万の生霊散って煙となる   愚者英雄ともに白骨   まことに浮世は値三銭 というのがある。いかにも高杉の作らしいものであるが、その底にただよっているものは、東洋的な虚無思想である。高杉においては、これとはげしい行動意欲が、同一人格のなかにとけこんでいた。しかも、この二つの要素は、決して別なものではなく、同一のもので、陰と陽、いわば盾の両面にすぎないのであって、なんの矛盾もなく同居していたのだ。死に直面して、さいごのドンチャンさわぎをしてみたいというような突飛な発想も、実はそこから出たものと見るべきであろう。高杉ばかりでなく、日本人の多くは、心の奥底に、こういうものをひめている。  この死生観をわたくしは「東洋的な虚無思想」といったが、実は日本人独特のものである。親鸞《しんらん》上人、一休《いつきゆう》和尚、沢庵《たくあん》和尚など、日本の名僧知識をはじめ、日本の代表的な武将の死生観とつながるものだ。もっとも、その源流は、釈迦《しやか》や老子《ろうし》から出ているのかもしれないが、実質はそれらとちがったもの、すっかり日本化したものである。これは湿度が高く、四季の変化に富み、自然の災害の多い日本の風土とつながっている。  こういった点からいって高杉は、西郷隆盛などとは別な型に属するが、もっとも日本人的な日本人であることにかわりはない。どっちも、後世に多くのファンをもっている理由はそこにある。   死んだなら釈迦や孔子に追いついて        道の奥義を尋ねんとこそ思う というのが、死の床における高杉の述懐である。楠正成などの名前が出てこないところが高杉らしい。彼の�忠誠心�は、それほど自己犠牲的でなかったのだ。  息を引きとるとき、高杉はしきりに、 「吉田へ、吉田へ!」 と叫んだという。吉田は下関から五里ばかりはなれていて、「奇兵隊」の本営のあったところだ。「奇兵隊」のことがさいごまで彼の頭から去らなかった証拠である。このときも田中顕助が駕籠を病床にもちこんで、高杉をこれにのせるまねごとをしたという。  一説によると、この「吉田へ」を「松陰先生のところへつれて行ってほしい」という意味だという解釈もおこなわれているが、むろんこれはコジツケである。  高杉の葬式は、山県狂介が代表となって、今のことばでいうと、「奇兵隊葬」でおこなわれた。  [#小見出し]最大の死にみやげ  高杉が死んだのは、下関の新地、林算九郎《はやしさんくろう》方の奥座敷で、林家は新地の庄屋だった。この屋敷跡は、招魂場のある桜山のすぐ近くにあって、わたくしも訪ねてみたが、現在植木畑になっていて、その一隅に、「高杉晋作終焉之地」と書いた碑がたっている。  高杉の遺骸は、本人は招魂場へ埋めてもらうつもりだったとみえて、つぎのような碑銘まで書きのこしている。表には、   故奇兵隊開闕総督高杉晋作   則西海一狂生東行墓   遊撃将軍谷梅之助也 となっていて、裏は、   毛利家恩顧臣高杉某嫡子也     月 日 となっている。これは親友大庭伝七あての遺書のなかに記されているものだが、彼の芝居けたっぷりの人柄が躍如としてあらわれている。「奇兵隊開闕総督」という肩書が、彼にとって最大の死にみやげだったのであろう。  しかるに、高杉の遺体が吉田の清水山に埋められたことについては、当時すでにはげしい意見の対立があったようであるが、「吉田へ、吉田へ!」という彼の死の直前のことばに重点がおかれたものと思われる。  招魂場の墓碑には、  「春風谷潜蔵之墓」  清水山のほうには、  「東行之墓」 と、いずれもかんたんに記されている。  ところで、高杉の死後、愛人の|おうの《ヽヽヽ》はどうなったか。  そのころ、下関には|おうの《ヽヽヽ》と名のる女性が三人いた。いずれも芸者出身の二号であった。相手の男のほうは、第一に高杉、二番目は「奇兵隊」の参謀福田侠平、三番目は前にのべた大庭伝七である。  福田は、小倉戦争では、高杉の片腕となってたたかったが、王政復古後、官軍に加わって北越を転戦し、明治元年十一月に凱旋した。彼はまれに見る酒豪で、前戦に出ても、腰にブラさげたヒョウタンから口をはなさなかったという。そして酔えば必ず放歌高吟したが、とくに李白や杜甫の詩を愛し、|おうの《ヽヽヽ》の膝をまくらに朗誦して恍惚境にひたるのであった。彼女には、下関の阿弥陀寺で「網平」という料亭を経営させていたが、福田はそこの入り口で脳出血をおこして倒れ、四十歳でなくなった。彼の遺体は、やはり吉田の清水山の高杉の墓のすぐそばに埋められ、墓碑もたっている。  大庭は、前にものべたように、白石正一郎の弟で、革命直後のソ連で行くえ不明になった大庭|柯公《かこう》(景秋)の父である。大庭家は長府の大年寄で、彼はそこの養子に迎えられたものだが、中山忠光をはじめ、他藩から長州へ亡命してきたものと深くまじわり、彼らの面倒をよく見た。  これら三人の|おうの《ヽヽヽ》は、いずれも美人というほどではなかったが、�旦那�にはきわめて忠実であった。しかしどこまでも日陰もので、報いられるところは少なかった。  高杉の死後、|おうの《ヽヽヽ》は述懐して、 「自分は旦那の臨終には遠ざけられて、ごさいごの水も差し上げられぬのみか、お内儀さまは自分の膝をまくらにさせ、旦那はやせほそった手でお雅さまの手をにぎり、長い苦労をさせてすまなかったといたわり、|おうの《ヽヽヽ》はどこにいるかともいわれなかったのは、なんというなされかたか、今もってお怨み申す。生まれて妾風情にはならぬことじゃ」 といったということになっている。(島田昇平著『長州物語』)  だが、高杉の臨終に正妻の雅子はいなかったはずだから、この�膝まくら�云々というのは、雅子がさいごに高杉を見舞ったときのことであろう。こういう場合にのぞんでは、正妻が優先権をもつのが当然である。ことに格式を重んずる武家において、母親や正妻の前で、たとえ死にのぞんだ場合でも、妾に人間的な愛情を示すことは許されなかったであろう。  その後、高杉の|おうの《ヽヽヽ》は、下関の上町にあった妾宅で、細々とくらしていた。ある日、そこへ井上聞多と伊藤俊輔がやってきて、|おうの《ヽヽヽ》の身のふりかたについて相談をした。といって、|おうの《ヽヽヽ》のほうから相談をもちかけたわけではなく、おしかけ相談、強制相談である。ということは、その結果が前もって用意されていて、それを彼女におしつけたのである。  それはどういうことかというと、まず井上が|おうの《ヽヽヽ》をおさえつけているあいだに、伊藤が用意してきたカミソリで、手早く彼女の黒髪をそり、たちまち丸坊主にしてしまった。生前の高杉にたのまれたというわけだ。  これで|おうの《ヽヽヽ》は浮気もできないから、尼になって、清水山の高杉の墓のかたわらに小さな庵《いおり》をたててもらい、梅処尼と名のり、墓守として余生をおくることになった。「奇兵隊」の創立者であり、その象徴である高杉の愛人が浮気をされたのでは困るから、先手をうってこれを封じこめてしまったのである。果たしてこれが高杉の意思であったであろうか。  [#小見出し]娼妓にも日本魂あり!  慶応四年五月九日、王政復古成って釈放された日柳燕石は、北越征討に従軍する前、高杉の墓にもうでた。   故人鬼となり、美人尼となる   浮世の変遷真に悲しむべし   惨日凄風吉田駅   涙痕雨の如く苔碑にそそぐ  それから燕石は、梅処尼と会って、故人の思い出話をしたうえで、彼女につぎのような詩をささげている。   誰かいう妓娼に信義なしと   はじめて知る婦女心腸あり   高郎地下、まさに瞑目すべし   繊手とこしえに供す一片の香  この詩は、のちにたいへん有名になったものだ。売春婦の貞操観念の強さをたたえたことになっているのだが、現代人の頭で解釈すると、女性を賛美したというよりも、侮辱したようにもとれないことはない。これまでの男性中心の社会でおこなわれていた「妓娼に信義なし」という定説に抗議しているのだ。これは燕石自身が博徒で、 「詩人がバクチをうつというとおかしいが、バクチうちでも詩をつくると考えれば、おもしろいではないか」 というのと、同じ発想法から出たものである。  のちに、文学博士|井上哲次郎《いのうえてつじろう》も、「贈梅処尼」という詩をつくって、『日本及日本人』にのせている。   汝の恩情を憐れみ、かつて忘れず   雲髪剃り去って空房を守る   おしどりのふすまの外は春風冷やかに   燕子楼中秋の夜は長し   誰かいう妓娼には信義なしと   はじめて知る婦女にも心腸あるを   高杉氏はまさに地下に瞑すべし   繊手長く供う一片の香  これはむろん、燕石の前の詩に基づいてつくったものであるが、いかにも理屈っぽくて、燕石の作品の素直さとは比べものにならない。  燕石はまた、小倉戦争の最中に、獄中から高杉あてに詩を書いておくっているが、そのなかで、   娼妓にもまた日本魂あり   戦声をきいて歌唄の声をなす   君を羨む、このなかに太白の浮かぶを   桃花を賞して、国賊をうつ  高杉が料亭の女をともない、三味線をさげて、杯を手にしながら陣頭指揮をしているというウワサを耳にし、これをうらやんだものと思われる。  |おうの《ヽヽヽ》の法名「梅処尼」は、高杉がウメを愛し、自分も「谷梅之助」などと名のったところから出たものだ。また墓守として彼女の住んでいるところを「東行庵」と名づけたのは、文久三年高杉が隠遁を決心し、頭をまるめて「東行」と号したところから出たことはいうまでもない。 「東行庵」は、前に山県がたてた「無隣庵」の後身で、吉田の清水山に、山県は別荘とも隠遁所ともつかぬものをつくっていた。そこへ尼になった|おうの《ヽヽヽ》をつれてきて住まわせ、「東行庵」と名づけたのだ。小ぢんまりした丘の中腹にあって、土地も山県のものだったが寄付したのだ。京都に山県がつくった名園「無隣庵」もここからきている。  これよりさき、山県と伊藤は、入江九一の妹|おすみ《ヽヽヽ》に思いをよせて争った。これは伊藤の勝ちとなったが、うつり気の伊藤は、まもなく下関の芸者小梅にのりかえた。これが伊藤の正妻となった梅子である。  一方、恋に敗れた山県は、長府藩士|石川良平《いしかわりようへい》の娘に思いをよせ、「奇兵隊」員を動員して、文字通りの�略奪結婚�をおこなった。これが山県の第一夫人友子だが、明治二十五年死亡し、そのあとに迎えたのが新橋の芸者「老松《おいまつ》」である。貞子《さだこ》といったが、ついにさいごまで正妻にはならなかった。三井財閥の総元締|益田孝《ますだたかし》の愛妾たき子はその姉である。  ついでだが、貞子の父は吉田安兵衛といって、日本橋伝馬町の唐物店の主人だった。この店は、呉服の三越、蚊帳の伴伝などとともに知られた老舗だったが、安兵衛は養子で、日本橋で名妓とうたわれた叶家《かのうや》の歌吉《うたきち》と浮名を流し、ついに心中した。これが有名な�歌吉心中�である。後家となった安兵衛の妻|おまさ《ヽヽヽ》は、高杉のところでのべた講談師猫遊軒伯知と夫婦になった。  その後、梅処尼の生活は、山県、井上、伊藤の三人で面倒を見ていたが、彼女は明治四十二年脳出血で死亡した。ときに六十六歳であった。そのあとをデシの梅仙尼《ばいせんに》がつぎ、今は三代目|玉仙尼《ぎよくせんに》の代となっている。わたくしは彼女に会って、高杉の遺品をいろいろと見せてもらった。  現在、「東行庵」は財団法人となっているが、すぐそばに保育園をつくり、これを経営している。  これで見ると、井上と伊藤で|おうの《ヽヽヽ》をおさえつけ、むりやりに髪をそり、尼にしてしまったというのは、どうやらつくり話のようである。といって、彼女が自分のほうから進んで尼を志望したわけでもあるまい。尼になれば、生活が保証されるときいて、それにしたがったのではなかろうか。  高杉が死んだとき、一子東一は四歳であった。雅子夫人は東一とともに東京に出て生活していたが、大正十一年、七十八歳でなくなった。遺骨はやはり清水山の高杉家累代の墓地に葬られた。  東一はその前に死亡して、長男春太郎が高杉家をついだ。 [#地付き]〈炎は流れる四 了〉 [#改ページ]   あ と が き  第四巻は、幕末日本で活躍したもっとも特異な人物である高杉晋作、�勤皇博徒�の日柳燕石などの動きが中心になっています。  ただし、これを執筆するわたくしは、生理的にも心理的にも最悪の事態にありました。これまでのわたくしの仕事は、旅行、放送、講演、座談会など、アクションをともなうものが多かったのですが、「炎は流れる」を書き出してから、厖大な資料に埋まって、机に向っている時間が多く、運動不足で、メキメキ太り出し、ついに八十五キロをこえました。そのため心臓が弱って、階段を昇るにもイキギレがするようになりました。  そこで、減量のため、思いきった減食を始め、六、七キロ減らすところまでこぎつけたのですが、その結果、栄養失調に近い状態におちいり、スタミナがすっかりおちてしまいました。その間も、ずっと執筆をつづけてきたのですが、東京オリンピックが始まるとともに、新聞紙面が輻輳するので、しばらく休ませてもらい、人間ドックにでもはいって体力の恢復をはかり、十一月から再執筆するつもりでいました。おかげで失われたスタミナも出てきて、講演や放送には苦痛を感じなくなりましたが、執筆にはもうしばらく静養を必要とするという勧告を医者からうけました。この機会に資料を再整備して、なるべく早く再出発したいと思っています。  このように、減量と体力恢複のため悪戦苦闘しているわたくしの談話が『文藝春秋』に出てから、全国のみなさんから見舞や激励の手紙をたくさん頂きました。一々お礼状を差上げることはできませんでしたが、このさい厚く感謝の意を表します。   一九六四年十一月 [#地付き]大 宅 壮 一  [#地付き](昭和三十九年十一月、文藝春秋新社) 〈底 本〉文春文庫 昭和五十年十二月二十五日刊